夢中問答集 / 『夢中問答集』僧の過ちをそしる罪と悲田
たとへば世人の眞金を無價の寳とするがごとし。若し眞金なければ銀を無價とす銀なければ銅を寳とす。銅なければ鐵を寳とす、鐵なければ白鑞等を寳とす。佛法も亦かくのごとし。佛を無上の寳とす、佛なき時は菩薩を無上とす。菩薩なければ羅漢を無上とす、羅漢なければ得定の凡夫を無上とす。得定の人なければ持戒の人を無上とす。持戒の人なければ汚戒の人を無上とす、汚戒の者なければ頭をそり袈裟をかけたる者を無上寳とす。餘の外道にたくらぶれば、最尊第一なり。汝等諸天諸龍諸夜叉我が弟子を擁護して佛種をして斷絕せしむる事なかるべしと云云。如來の哀憐かくのごとし。僧の行儀のあしければとて如來の遺屬にそむき給ふべからず。酒に醉へる人をみれば目もくらくなり、足もよろほひ舌もすくみ、心も狂ずかゝる過失をばかねてしりたれ共、酒を愛する人はすべてうとます、其の中に其の過失をみて酒をにくむ人ば、たゞこれ本より下戶にて酒を愛せざる故なり。僧の過失をみて佛法をうとむ人は、佛法の下戶なる故にあらずや。衆生の功德を出生する者のをば福田となづく。これに二種あり。悲田と敬田となり。聖賢を歸敬して物を施し奉るは敬田なり。下賤の人乃至畜生等を悲愍して物を施するをば悲田となづく。たとひ無智放逸の僧なりとも、これを供養し給はゞ、悲田の功德を得給ふ分なからんや。木のきれをそのまゝにて打置たる時は、善にもならず惡にもならず。若し此の木のきれを佛の形にきざみて眞佛の想に住して恭敬し奉れば、功德をうること眞佛にことならず。若し又此の木像を輕慢し奉れば、罪業をうることうたがひなし。心もなき木のきれだにもかくのごとし。况んや人たる者のは皆佛性ありたとひ無智無慚の僧なりとも、信敬せられば福田となり。誹謗せられば罪業をまねき給はんこと疑あるべかちず。梵網經には五百羅漢を別請せんよりは、尊卑親疎をゑらはずして、一人の凡夫僧を次第請にする事は、其の功德まされりと說けり。たゞし善知識にたのみて出離の要道を聞かんためならば、道德ある人を別請するともくるしからじといへり。僧の破戒無慚なるを見て、これを誹謗して、我れは在家人なればかやうなるもくるしからずと思ひ給へるは僻案なり。一生の報命つきて、閻魔王の前に到り給はん時、此の人は俗人なれば日來の罪業もくるしからずとて、地獄に入ることを免し給はんや。聖敎に佛弟子の過をそしるを制することは、かならずしも佛弟子をかたひくよしにはあらずこれを謗して佛法を破滅し、大罪をうることを制せんためなり。かやうの法門は俗人の御ために申すことなり。さればとて僧家の破戒無慚なるをくるしからずと申すにはあらず。俗人は僧家のふるまひの正理ならぬを見て、誹謗の罪業をわすれ給へり。僧家は又俗人の誹謗し給ふことは、我等が正理ならぬとがなりとはかへりみず、僧をそしり、法をかろしめ給ふひが事なりと、とがめ申さるあはれげにうちかへして僧家の心をば俗人につけ奉り、俗人の心をば僧家にもち給へる事ならば、濁世もやがて正法となりなまじ。
新字:たとへば世人の真金を無価の宝とするがごとし。若し真金なければ銀を無価とす銀なければ銅を宝とす。銅なければ鉄を宝とす、鉄なければ白鑞等を宝とす。仏法も亦かくのごとし。仏を無上の宝とす、仏なき時は菩薩を無上とす。菩薩なければ羅漢を無上とす、羅漢なければ得定の凡夫を無上とす。得定の人なければ持戒の人を無上とす。持戒の人なければ汚戒の人を無上とす、汚戒の者なければ頭をそり袈裟をかけたる者を無上宝とす。余の外道にたくらぶれば、最尊第一なり。汝等諸天諸竜諸夜叉我が弟子を擁護して仏種をして断絶せしむる事なかるべしと云云。如来の哀憐かくのごとし。僧の行儀のあしければとて如来の遺属にそむき給ふべからず。酒に酔へる人をみれば目もくらくなり、足もよろほひ舌もすくみ、心も狂ずかゝる過失をばかねてしりたれ共、酒を愛する人はすべてうとます、其の中に其の過失をみて酒をにくむ人ば、たゞこれ本より下戸にて酒を愛せざる故なり。僧の過失をみて仏法をうとむ人は、仏法の下戸なる故にあらずや。衆生の功徳を出生する者のをば福田となづく。これに二種あり。悲田と敬田となり。聖賢を帰敬して物を施し奉るは敬田なり。下賤の人乃至畜生等を悲愍して物を施するをば悲田となづく。たとひ無智放逸の僧なりとも、これを供養し給はゞ、悲田の功徳を得給ふ分なからんや。木のきれをそのまゝにて打置たる時は、善にもならず悪にもならず。若し此の木のきれを仏の形にきざみて真仏の想に住して恭敬し奉れば、功徳をうること真仏にことならず。若し又此の木像を軽慢し奉れば、罪業をうることうたがひなし。心もなき木のきれだにもかくのごとし。況んや人たる者のは皆仏性ありたとひ無智無慚の僧なりとも、信敬せられば福田となり。誹謗せられば罪業をまねき給はんこと疑あるべかちず。梵網経には五百羅漢を別請せんよりは、尊卑親疎をゑらはずして、一人の凡夫僧を次第請にする事は、其の功徳まされりと説けり。たゞし善知識にたのみて出離の要道を聞かんためならば、道徳ある人を別請するともくるしからじといへり。僧の破戒無慚なるを見て、これを誹謗して、我れは在家人なればかやうなるもくるしからずと思ひ給へるは僻案なり。一生の報命つきて、閻魔王の前に到り給はん時、此の人は俗人なれば日来の罪業もくるしからずとて、地獄に入ることを免し給はんや。聖教に仏弟子の過をそしるを制することは、かならずしも仏弟子をかたひくよしにはあらずこれを謗して仏法を破滅し、大罪をうることを制せんためなり。かやうの法門は俗人の御ために申すことなり。さればとて僧家の破戒無慚なるをくるしからずと申すにはあらず。俗人は僧家のふるまひの正理ならぬを見て、誹謗の罪業をわすれ給へり。僧家は又俗人の誹謗し給ふことは、我等が正理ならぬとがなりとはかへりみず、僧をそしり、法をかろしめ給ふひが事なりと、とがめ申さるあはれげにうちかへして僧家の心をば俗人につけ奉り、俗人の心をば僧家にもち給へる事ならば、濁世もやがて正法となりなまじ。
書き下し
たとへば世人の眞金を無價の寳とするがごとし。若し眞金なければ銀を無價とす銀なければ銅を寳とす。銅なければ鐵を寳とす、鐵なければ白鑞等を寳とす。佛法も亦かくのごとし。佛を無上の寳とす、佛なき時は菩薩を無上とす。菩薩なければ羅漢を無上とす、羅漢なければ得定の凡夫を無上とす。得定の人なければ持戒の人を無上とす。持戒の人なければ汚戒の人を無上とす、汚戒の者なければ頭をそり袈裟をかけたる者を無上寳とす。餘の外道にたくらぶれば、最尊第一なり。汝等諸天諸龍諸夜叉我が弟子を擁護して佛種をして斷絕せしむる事なかるべしと云云。如來の哀憐かくのごとし。僧の行儀のあしければとて如來の遺屬にそむき給ふべからず。酒に醉へる人をみれば目もくらくなり、足もよろほひ舌もすくみ、心も狂ずかゝる過失をばかねてしりたれ共、酒を愛する人はすべてうとます、其の中に其の過失をみて酒をにくむ人ば、たゞこれ本より下戶にて酒を愛せざる故なり。僧の過失をみて佛法をうとむ人は、佛法の下戶なる故にあらずや。衆生の功德を出生する者のをば福田となづく。これに二種あり。悲田と敬田となり。聖賢を歸敬して物を施し奉るは敬田なり。下賤の人乃至畜生等を悲愍して物を施するをば悲田となづく。たとひ無智放逸の僧なりとも、これを供養し給はゞ、悲田の功德を得給ふ分なからんや。木のきれをそのまゝにて打置たる時は、善にもならず惡にもならず。若し此の木のきれを佛の形にきざみて眞佛の想に住して恭敬し奉れば、功德をうること眞佛にことならず。若し又此の木像を輕慢し奉れば、罪業をうることうたがひなし。心もなき木のきれだにもかくのごとし。况んや人たる者のは皆佛性ありたとひ無智無慚の僧なりとも、信敬せられば福田となり。誹謗せられば罪業をまねき給はんこと疑あるべかちず。梵網經には五百羅漢を別請せんよりは、尊卑親疎をゑらはずして、一人の凡夫僧を次第請にする事は、其の功德まされりと說けり。たゞし善知識にたのみて出離の要道を聞かんためならば、道德ある人を別請するともくるしからじといへり。僧の破戒無慚なるを見て、これを誹謗して、我れは在家人なればかやうなるもくるしからずと思ひ給へるは僻案なり。一生の報命つきて、閻魔王の前に到り給はん時、此の人は俗人なれば日來の罪業もくるしからずとて、地獄に入ることを免し給はんや。聖敎に佛弟子の過をそしるを制することは、かならずしも佛弟子をかたひくよしにはあらずこれを謗して佛法を破滅し、大罪をうることを制せんためなり。かやうの法門は俗人の御ために申すことなり。さればとて僧家の破戒無慚なるをくるしからずと申すにはあらず。俗人は僧家のふるまひの正理ならぬを見て、誹謗の罪業をわすれ給へり。僧家は又俗人の誹謗し給ふことは、我等が正理ならぬとがなりとはかへりみず、僧をそしり、法をかろしめ給ふひが事なりと、とがめ申さるあはれげにうちかへして僧家の心をば俗人につけ奉り、俗人の心をば僧家にもち給へる事ならば、濁世もやがて正法となりなまじ。
現代語訳
たとえば世間の人が純金を値のつけられない宝とするようなものである。もし純金がなければ銀を最上とし、銀がなければ銅を宝とし、銅がなければ鉄を宝とし、鉄がなければ錫や鉛などを宝とする。仏法もまたこのとおりである。仏を無上の宝とし、仏がいない時は菩薩を最上とする。菩薩がいなければ阿羅漢を最上とし、阿羅漢がいなければ禅定を得た凡夫を最上とする。禅定を得た人がいなければ戒を保つ人を最上とし、持戒の人がいなければ戒を破った人を最上とし、戒を破った者さえいなければ、頭を剃り袈裟をかけた者を無上の宝とする。他の外道に比べれば、最も尊く第一である。「お前たち諸天・諸龍・諸夜叉は、わが弟子を守り、仏の種を断絶させてはならない」と説かれた。如来の憐れみはこのようである。僧の振る舞いが悪いからといって、如来の遺言にそむいてはならない。酒に酔った人を見れば、目はくらみ、足はふらつき、舌はもつれ、心も狂う。こうした過ちをあらかじめ知っていても、酒を愛する人は決して酒を疎まない。その中で過ちを見て酒を憎む人は、もともと下戸で酒を愛さないからにすぎない。僧の過ちを見て仏法を疎む人は、仏法の下戸だからではないか。衆生の功徳を生み出すものを福田と名づける。これに二種ある。悲田と敬田である。聖者や賢者を敬って物を施すのは敬田である。身分の低い人から畜生までを憐れんで物を施すのを悲田という。たとえ無智で放逸な僧であっても、これを供養なさるなら、悲田の功徳を得ないことがあろうか。木の切れ端をそのまま放っておく時は、善にも悪にもならない。もしこの木片を仏の形に刻み、真の仏と思って恭敬すれば、功徳を得ることは真の仏に異ならない。またこの木像を軽んじれば、罪を得ることは疑いない。心のない木片でさえこのようである。まして人はみな仏性があり、たとえ無智無慚の僧であっても、信じ敬われれば福田となり、そしられれば罪を招くことは疑いない。梵網経には、五百羅漢を特に選んで招くよりも、身分の高下や親疎を選ばず、一人の凡夫の僧を順番に招くほうが功徳が勝る、と説いている。ただし、善知識に頼んで迷いを出る要の道を聞くためならば、徳のある人を特に選んで招いてもかまわないという。僧が戒を破り恥知らずであるのを見て、これをそしり、自分は在家だからこのようであってもかまわないと思われるのは、誤った考えである。一生の寿命が尽き、閻魔王の前に至った時、この人は俗人だから日ごろの罪もかまわないと言って、地獄に入ることを許してくださるだろうか。聖教で仏弟子の過ちをそしることを禁じるのは、必ずしも仏弟子をひいきするためではなく、これをそしって仏法を破滅させ、大罪を得ることを禁じるためである。こうした教えは、俗人のために申すことである。だからといって、僧侶が戒を破り恥知らずであってよいと申すのではない。俗人は僧の振る舞いが正しくないのを見て、そしる罪を忘れておられる。僧もまた、俗人がそしるのは我らが正しくないという咎のせいだと省みず、僧をそしり法を軽んじるのは誤りだと責めておられる。哀れなことだ。これを引っくり返して、僧の心を俗人に持たせ、俗人の心を僧が持つなら、濁世もそのまま正法の世となるであろう。
解説

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