夢中問答集 / 『夢中問答集』落ちぶれた貴人の喩え
問實に生死の苦をうけたる衆生ありと見るにこそ、これをあはれむ慈悲もおこるべきに、それらは愛見の大悲ときらふことは何ぞや。若し一切衆生みな如幻なりと見る人は、いかでか慈悲もおこるべきや。 答世間の乞食に二しなあり。或は本より非人の家に生れて、幼少よりいやしき者あり。或は本は貴人の家に生れて思の外におちぶれたる人もあり。彼二人の乞食の中に、本は貴人なるがらうろふして乞食となれる人を見る時は、あはれむこゝろの起ること本より非人なる者を見るよりも、ことさらにふかゝるべし。菩薩の慈悲もかくのごとし。一切衆生本より諸佛と同體にして、生死の相なし。無明の一念忽ちに起つて、生死なき中に生死の相を生せること、夢のごとく、幻のごとし。然らば、卽ち大乘の菩薩の衆生を見ることは、貴人の家に生れたる人の思の外に、おちぶれたるを見るがごとし。小乘の菩薩の實に生死にしづめる衆生ありと見て、愛見の大悲をおこすには同からず。
新字:問実に生死の苦をうけたる衆生ありと見るにこそ、これをあはれむ慈悲もおこるべきに、それらは愛見の大悲ときらふことは何ぞや。若し一切衆生みな如幻なりと見る人は、いかでか慈悲もおこるべきや。 答世間の乞食に二しなあり。或は本より非人の家に生れて、幼少よりいやしき者あり。或は本は貴人の家に生れて思の外におちぶれたる人もあり。彼二人の乞食の中に、本は貴人なるがらうろふして乞食となれる人を見る時は、あはれむこゝろの起ること本より非人なる者を見るよりも、ことさらにふかゝるべし。菩薩の慈悲もかくのごとし。一切衆生本より諸仏と同体にして、生死の相なし。無明の一念忽ちに起つて、生死なき中に生死の相を生せること、夢のごとく、幻のごとし。然らば、即ち大乗の菩薩の衆生を見ることは、貴人の家に生れたる人の思の外に、おちぶれたるを見るがごとし。小乗の菩薩の実に生死にしづめる衆生ありと見て、愛見の大悲をおこすには同からず。
書き下し
問實に生死の苦をうけたる衆生ありと見るにこそ、これをあはれむ慈悲もおこるべきに、それらは愛見の大悲ときらふことは何ぞや。若し一切衆生みな如幻なりと見る人は、いかでか慈悲もおこるべきや。 答世間の乞食に二しなあり。或は本より非人の家に生れて、幼少よりいやしき者あり。或は本は貴人の家に生れて思の外におちぶれたる人もあり。彼二人の乞食の中に、本は貴人なるがらうろふして乞食となれる人を見る時は、あはれむこゝろの起ること本より非人なる者を見るよりも、ことさらにふかゝるべし。菩薩の慈悲もかくのごとし。一切衆生本より諸佛と同體にして、生死の相なし。無明の一念忽ちに起つて、生死なき中に生死の相を生せること、夢のごとく、幻のごとし。然らば、卽ち大乘の菩薩の衆生を見ることは、貴人の家に生れたる人の思の外に、おちぶれたるを見るがごとし。小乘の菩薩の實に生死にしづめる衆生ありと見て、愛見の大悲をおこすには同からず。
現代語訳
問:実際に生死の苦を受けている衆生がいると見るからこそ、これを哀れむ慈悲も起こるはずである。それなのに、それを愛見の大悲といって嫌うのはなぜか。もし一切衆生がみな幻のようだと見る人なら、どうして慈悲が起こるだろうか。 答:世間の乞食には二種類ある。一つは、もとから非人の家に生まれ、幼いころから卑しい者である。もう一つは、もとは貴人の家に生まれながら、思いがけず落ちぶれた人である。この二人の乞食のうち、もとは貴人だった人が落ちぶれて乞食となったのを見るときは、哀れむ心の起こり方が、もとから非人である者を見るよりも、特に深いはずである。 菩薩の慈悲もこのようなものである。一切衆生は、もとから諸仏と同じ体であって、生死の相がない。無明の一念がたちまち起こって、生死のない中に生死の相を生じたことは、夢のようであり、幻のようである。それならば、大乗の菩薩が衆生を見るのは、貴人の家に生まれた人が思いがけず落ちぶれたのを見るようなものである。小乗の菩薩が、実際に生死に沈む衆生がいると見て、愛見の大悲を起こすのと同じではない。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』三種の慈悲と小慈の障り問禪門の宗師の語をみれば、先自心を悟りて後やうやく舊業習餘をつくして餘力あらば、他人に及ぼすべしとすゝめられたり。若しからば敎の中に自いまだ度を得ざるに、先他人を度するは菩薩の願なりといへるにそむかずや。 答慈悲に三種あり、一つには衆生緣の慈悲、二つには法緣の慈悲、三つには無緣の慈悲なり。衆生緣の慈悲といふは、實に生死にまよへる衆生ありとみて、これを度して出離せしめんとす。是は小乘の菩薩の慈悲なり。自身ばかりの出離をもとむる二乘心にはまされりといへども、世間の實有の見に墮して、利益の相を存ずるが故に、眞實の慈悲にあらず、維摩經の中に愛見の大悲とそしれるは是れなり。法緣の慈悲と云ふは、緣生の諸法は有情非情みな幻化のごとしと通達して、如幻の大悲をおこし、如幻の法門を說ひて如幻の衆生を濟度す。是れ卽ち、大乘の菩薩の慈悲なり。かやうの慈悲の實有の情をはなれて、愛見の大悲にはことなりといへ共、猶も如幻の相を存ずるが故に、是れも亦眞實の慈悲に非ず。無緣の慈悲と云ふは佛果に到つて後ち、本有性德の慈悲あらはれて、化度の心をおこさゞれ共、自然に衆生を度する事月の衆水に影をうつすがごとし。然れば卽ち法を演ぶるに說不說のへだてもなく、人を度するに益無益の相もなし。是れを眞實の慈悲となづく。衆生緣法緣の慈悲にかゝはる人は其の慈悲にさへられて、無緣の慈悲を發することあたはず。小慈は大慈のさまたげといへるは此の義なり。百丈の大智禪師の小功德、小利益をむさぼる事なかれといましめ給へるもこの意なり。禪門の宗師の人にしめす旨趣かくのごとし。
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夢中問答集・『夢中問答集』如幻の観は大乗の入口問大乘經の中に多くは、如夢如幻の法門を說けり。禪師の語の中にも亦此の法門あり。しかれは大乘の行人は、如幻の觀をなすを本とすべしや。 答諸法は夢幻の如しといへる法門、其語は同じけれ共、諸宗に談ずる其の旨趣各ことなりしかりといへ共、其の大概はこれかはらず、世人の諺に世の中は夢幻のごとしなんど申すは、無常の謂れなり。大乘に夢幻のたとへを取るはしからず。夢の中にみゆるところの種々の物像、すべて實體なし。實體なしといへども、諸の形相宛然たり。幻術師の巾をわがねて、或は人の形となし。或は馬の形となせども、實には人馬の相にあらず。幻のごとしといへるは是れなり。天竺に此の術をなす者多し。この故に譬とせり。かやうの謂れを以て萬法の實體なくして、しかも諸相歷然たるに譬へたり。水中の月鏡中の像なんどいへる譬も又此の意なり。又敎の中に不思議幻なんと談する法門あり。 緣生如幻の義にはことなり。佛法修行の人やゝもすれば外道二乘の見解に墮つ。外道の見は多しといへども、斷常の二見を本とす。斷とは無なり。常とは有なり。是れに四句あり。色心の諸法において或は一向に有なりと計するは常見なり。或は一向に無なりと計するは斷見なり。或は有なる方もあり。無なる方もありと計するは亦有亦無の見なり。或は一向に有にもあらず。無にもあらずと計するをば非有非無の見と名く。今時大乘修行の人語には、談ずる法門は大乘に似たれども、其の所見をさくる時は、外道の四句の見を出さる人あり。佛の說法も四句をいでずといへども、眞實の佛智の四句の内にあるにはあらず。有の見を破せんためには諸法の空無なる事を說き、無の見をやぶらんためには諸法の常住なるよしを演給へり。佛意をしらざる人は、方便をとめて眞實と思へり。二乘の見とは聲聞緣覺其の所學の法門は、すこしきことなりといへども、身心を滅盡して無爲涅槃に歸して、三界の輪廻をまぬがるべしと思へり。はなはだ大乘の法理にそむけり。若し人如幻の法門を解了しぬれば、自然に外道二乘の見には墮せず。然らば卽ち如幻の法門を解了する人は、諸法有なりといへ共、其の所見實有にあらず。諸法は空なりと說けども其の智慧實空に墮せず。故に中道實相の眞理を證得するに便りあり。是を以て如幻の法門をば大乘の初門となづけたり。是れを眞實究竟の法門とするにはあらず。しかれども、凡夫外道の實有實空の見をやぶり、二乘沈空の解をなさしめざらんために、敎の中にかりに如幻の觀をすゝめたり。大日經の住心品にも緣生の諸法はみな如法なる理をのみ明せり。圓覺楞嚴の中には如幻の智をも遠離すべしと說かれたり。然れ共三種の觀行を明す時、三摩波提といへるは是れ如幻の觀なり。是れ卽ちしばらく幻智を起して幻妄を消して、本分清淨の寶殿にのぼらしめん爲なり。かやの方便をば敎門にうつる故に、禪宗の學者は如幻の觀をも用ふべからず。禪門の宗師の夢幻の法門を說くことは、此の理を心において觀念せよとにはあらず。佛法世法皆夢幻のごとしとしりなば、一切放下して直に本分に向はん事をすゝむるなり。三祖大師の云く、夢幻空花豈把捉することを勞せんや得失是非一時に放却せよと云云。
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