夢中問答集 / 『夢中問答集』禅の祈りと密教の加持(下)
况んや世間の名利をや。たゞ僧家のみにあらず、檀那及び其の家人達も、此の宗を信ずる人はひとへに、本分を悟らんことを要とす。其の後、兀庵佛源佛光諸大禪師相次で宋朝より渡り給ひき。皆同く僧俗を警策して本分を參究せしむる外には他事もなかりき。在家の信仰も亦かはらず、法光寺禪門の時弘安の比蒙古襲ひ來れりとて天下騷動しけれ共、檀那の禪門さはぎ給はず、日々に建長寺の長老佛光禪師及び諸の宿老達を召し請じて法談ありき。其のありさまのありがたかりし由を佛光の普說の中に載せられたり。其の後、圓覺寺を建立して祖宗の興行なをざりならずかゝりし故にや、蒙古も國をかたぶけず、父子二代世をたもたるゝこともつゝがなく終焉のありさまも殊勝におはしけると申し傳へたり。彼の二代の後も相續して佛法を崇敬せらるゝよしはありしかども、世間をば重く佛法をば輕しく信じ給ひし故に、さして天下の大事ならぬことまでも、御祈りをせよとひまなく禪院へも仰られし程に、寺々いつとなく祈禱の牌をかけて衆僧經をよみだらにをみつるを所作として、坐禪工夫は退轉す。面々に又小檀那ありて各〱の祈りをあつらへらる、僧家も亦我が身の名利を思ふ人は、これを大事と祈るとて一大事をばわすれたり。禪法破滅の因緣にあらずや。唐土の禪院には毎朝粥の後、大悲呪一遍なんど誦するばかり也。是れ卽ち坐禪を本とする故也。楞嚴會とて楞嚴呪をよむことも近代より始まれり。それもたゞ夏中ばかりなり。毎日の晩れごとに放參と名けて、楞嚴呪をよむことは、日本より始まれり。唐土に放參といへるは別のれいぎなり。建長寺の始めには日中のつとめばなかりけり。蒙古の襲ひ來りし時、天下の御祈りのために、日中に觀音經をよみたりけるそのまゝにしつけて、今まは三時のつとめとなりたり。かやうのつとめも禪家の本意にはあらねども、年來しつけたる事なれば、後代の長老達もとゞめ給ふことなし。又末世のありさま禪僧とてありながら、坐禪をば事の行よりものうく思へる人もありげなり。かゝる人のためには略せん事も無益なるべし。且は又世間を重くし給へる檀那の御意にもそむきぬべし。この故に禪院ごとに毎日三時のつとめおこたる事なし。その廻向の趣きはひとへに天下太平檀那安穩の御ためなり。毎月の朔望には祝聖の上堂あり、是又皇帝の御ためばかりにはあらず。四海清平萬氏和樂のためなり。禪僧は御祈りも申さぬ者とはそしるべからず。大悲呪楞嚴呪の功能を經中に說けること、何れの大法祕法にかおとらんや。觀音經金剛經の功力もいるがせなりと申さんや。かやうの經呪にて每日三時に祈り奉ることのかなはずば。此の外に經呪のかずを添へたりとも、坐禪工夫の障りとはなりて御祈りとはなるべからず。
新字:況んや世間の名利をや。たゞ僧家のみにあらず、檀那及び其の家人達も、此の宗を信ずる人はひとへに、本分を悟らんことを要とす。其の後、兀庵仏源仏光諸大禅師相次で宋朝より渡り給ひき。皆同く僧俗を警策して本分を参究せしむる外には他事もなかりき。在家の信仰も亦かはらず、法光寺禅門の時弘安の比蒙古襲ひ来れりとて天下騷動しけれ共、檀那の禅門さはぎ給はず、日々に建長寺の長老仏光禅師及び諸の宿老達を召し請じて法談ありき。其のありさまのありがたかりし由を仏光の普説の中に載せられたり。其の後、円覚寺を建立して祖宗の興行なをざりならずかゝりし故にや、蒙古も国をかたぶけず、父子二代世をたもたるゝこともつゝがなく終焉のありさまも殊勝におはしけると申し伝へたり。彼の二代の後も相続して仏法を崇敬せらるゝよしはありしかども、世間をば重く仏法をば軽しく信じ給ひし故に、さして天下の大事ならぬことまでも、御祈りをせよとひまなく禅院へも仰られし程に、寺々いつとなく祈祷の牌をかけて衆僧経をよみだらにをみつるを所作として、坐禅工夫は退転す。面々に又小檀那ありて各〱の祈りをあつらへらる、僧家も亦我が身の名利を思ふ人は、これを大事と祈るとて一大事をばわすれたり。禅法破滅の因縁にあらずや。唐土の禅院には毎朝粥の後、大悲呪一遍なんど誦するばかり也。是れ即ち坐禅を本とする故也。楞厳会とて楞厳呪をよむことも近代より始まれり。それもたゞ夏中ばかりなり。毎日の晩れごとに放参と名けて、楞厳呪をよむことは、日本より始まれり。唐土に放参といへるは別のれいぎなり。建長寺の始めには日中のつとめばなかりけり。蒙古の襲ひ来りし時、天下の御祈りのために、日中に観音経をよみたりけるそのまゝにしつけて、今まは三時のつとめとなりたり。かやうのつとめも禅家の本意にはあらねども、年来しつけたる事なれば、後代の長老達もとゞめ給ふことなし。又末世のありさま禅僧とてありながら、坐禅をば事の行よりものうく思へる人もありげなり。かゝる人のためには略せん事も無益なるべし。且は又世間を重くし給へる檀那の御意にもそむきぬべし。この故に禅院ごとに毎日三時のつとめおこたる事なし。その廻向の趣きはひとへに天下太平檀那安穏の御ためなり。毎月の朔望には祝聖の上堂あり、是又皇帝の御ためばかりにはあらず。四海清平万氏和楽のためなり。禅僧は御祈りも申さぬ者とはそしるべからず。大悲呪楞厳呪の功能を経中に説けること、何れの大法秘法にかおとらんや。観音経金剛経の功力もいるがせなりと申さんや。かやうの経呪にて毎日三時に祈り奉ることのかなはずば。此の外に経呪のかずを添へたりとも、坐禅工夫の障りとはなりて御祈りとはなるべからず。
書き下し
况んや世間の名利をや。たゞ僧家のみにあらず、檀那及び其の家人達も、此の宗を信ずる人はひとへに、本分を悟らんことを要とす。其の後、兀庵佛源佛光諸大禪師相次で宋朝より渡り給ひき。皆同く僧俗を警策して本分を參究せしむる外には他事もなかりき。在家の信仰も亦かはらず、法光寺禪門の時弘安の比蒙古襲ひ來れりとて天下騷動しけれ共、檀那の禪門さはぎ給はず、日々に建長寺の長老佛光禪師及び諸の宿老達を召し請じて法談ありき。其のありさまのありがたかりし由を佛光の普說の中に載せられたり。其の後、圓覺寺を建立して祖宗の興行なをざりならずかゝりし故にや、蒙古も國をかたぶけず、父子二代世をたもたるゝこともつゝがなく終焉のありさまも殊勝におはしけると申し傳へたり。彼の二代の後も相續して佛法を崇敬せらるゝよしはありしかども、世間をば重く佛法をば輕しく信じ給ひし故に、さして天下の大事ならぬことまでも、御祈りをせよとひまなく禪院へも仰られし程に、寺々いつとなく祈禱の牌をかけて衆僧經をよみだらにをみつるを所作として、坐禪工夫は退轉す。面々に又小檀那ありて各〱の祈りをあつらへらる、僧家も亦我が身の名利を思ふ人は、これを大事と祈るとて一大事をばわすれたり。禪法破滅の因緣にあらずや。唐土の禪院には毎朝粥の後、大悲呪一遍なんど誦するばかり也。是れ卽ち坐禪を本とする故也。楞嚴會とて楞嚴呪をよむことも近代より始まれり。それもたゞ夏中ばかりなり。毎日の晩れごとに放參と名けて、楞嚴呪をよむことは、日本より始まれり。唐土に放參といへるは別のれいぎなり。建長寺の始めには日中のつとめばなかりけり。蒙古の襲ひ來りし時、天下の御祈りのために、日中に觀音經をよみたりけるそのまゝにしつけて、今まは三時のつとめとなりたり。かやうのつとめも禪家の本意にはあらねども、年來しつけたる事なれば、後代の長老達もとゞめ給ふことなし。又末世のありさま禪僧とてありながら、坐禪をば事の行よりものうく思へる人もありげなり。かゝる人のためには略せん事も無益なるべし。且は又世間を重くし給へる檀那の御意にもそむきぬべし。この故に禪院ごとに毎日三時のつとめおこたる事なし。その廻向の趣きはひとへに天下太平檀那安穩の御ためなり。毎月の朔望には祝聖の上堂あり、是又皇帝の御ためばかりにはあらず。四海清平萬氏和樂のためなり。禪僧は御祈りも申さぬ者とはそしるべからず。大悲呪楞嚴呪の功能を經中に說けること、何れの大法祕法にかおとらんや。觀音經金剛經の功力もいるがせなりと申さんや。かやうの經呪にて每日三時に祈り奉ることのかなはずば。此の外に經呪のかずを添へたりとも、坐禪工夫の障りとはなりて御祈りとはなるべからず。
現代語訳
まして世間の名利のための祈りについては、なおさら戒められたのである。ただ僧家だけでなく、檀那およびその家人たちも、この宗を信ずる人は、ひとえに本分を悟ることを要とした。その後、兀庵、仏源、仏光の諸大禅師が相次いで宋から渡来された。皆同じく、僧も俗も励まして本分を参究させるほかには、他のことはなかった。在家の信仰もまた変わらず、法光寺禅門(北条時宗)の時、弘安のころに蒙古が襲来したと天下は騒いだけれども、檀那の禅門は騒がれず、毎日建長寺の長老、仏光禅師や諸々の宿老たちを召請して法談があった。その有様のありがたさが、仏光の普説の中に載せられている。その後、円覚寺を建立して祖宗を興し行うことが並々でなかったためか、蒙古も国を傾けず、父子二代世を保たれることも無事に終わり、最期の有様も立派であったと伝え聞いている。 その二代の後も、続いて仏法を崇敬されたとはいうが、世間を重く、仏法を軽く信じられたために、さほどの天下の大事でないことまで、御祈りをせよと絶え間なく禅院にも仰せられるうち、寺々はいつのまにか祈禱の札を掲げ、衆僧が経を読み陀羅尼を唱えることを仕事とし、坐禅の工夫は衰えた。それぞれにまた小檀那がいて、各自の祈りを依頼する。僧家もまた、我が身の名利を思う人は、これを大事として祈るために、一大事を忘れた。禅法破滅の因縁ではないか。 中国の禅院では、毎朝粥の後に、大悲呪を一遍唱える程度である。これは坐禅を本とするからである。楞厳会といって楞厳呪を読むことも、近代から始まった。それもただ夏の期間だけである。毎日の晩ごとに放参と名づけて楞厳呪を読むことは、日本から始まった。中国で放参と言うのは別の礼儀である。建長寺の初めには日中のつとめはなかった。蒙古が襲来したとき、天下の御祈りのために日中に観音経を読んだのをそのまま習慣にして、今は三時のつとめとなっている。このようなつとめも禅家の本意ではないけれども、長年の習慣となったことなので、後代の長老たちもやめられない。また末世の有様として、禅僧でありながら、坐禅を事の行よりも億劫に思う人もいるようである。そのような人のために、省略することも無益であろう。さらに、世間を重んじられる檀那の御意にも背くだろう。このため、禅院ごとに毎日三時のつとめを怠ることはない。その廻向の趣旨は、ひとえに天下太平と檀那の安穏のためである。 毎月の朔日と望日には祝聖の上堂がある。これもまた皇帝のためだけではない。四海清平、万民和楽のためである。禅僧は御祈りも申さない者だと誹ってはならない。大悲呪や楞厳呪の功能を経の中で説くことは、どの大法や秘法に劣ろうか。観音経や金剛経の功力も、おろそかであると言えようか。このような経や呪で毎日三時に祈り申し上げて叶わないのなら、この他に経や呪の数を加えても、坐禅の工夫の障りとなるだけで御祈りにはならない。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』檀那の祈祷と信心の深さ問佛言く佛法をば國王大臣有力の檀那に付屬す。然れば檀方つゝがなくして佛法も紹隆すべし。僧家も檀方の祈をせられんは何ぞ、理にそむかんや。 答佛の付屬し給へる意は國王大臣等、或は外護となり、或は檀越となりて佛法を流通し、自もまた此の佛法に入て出離せよとの謂れなり。此の佛法を以て世俗の名利をいのり給へとて付屬し給へるにはあらず。然らば、卽ち世上もおさまり、檀門もつゝがなくして佛法を紹隆し、衆生を利益せんために御祈りをせよと仰られ、僧家も此志をはげまして御祈りを申されば、佛の付屬にそむくべからず、末代といへどもさすがに佛法の運もひかへたる故に、禪敎律の僧をば軍勢にもかられず、世間の公務にもめしつかはれずして、御祈りを申せと仰せらるゝことは、皆善事なればたとひ御公事につとむるとも、僧家あながちにいさみ申すべきにはあらず。しかれ共、近年世の亂によりて關東京都御祈禱とてなさるゝ事なのめならず。されどもその作法を見奉れば、此式にてはいかでか御祈りにもなるべきやと覺へたり。因緣和合し、感應道交して一切のは事を成就すといへる事は佛敎の定判なり。古の大師高僧の、國家をいのり災厄をはらひ給ふことはこれを方便門として、衆生を攝引して、大菩提を證せしめんためなり。我が身の名利のためにいのり給ふこと更にあるべからず。此れ大慈悲の德を內につゝみ給へるによりて、國王大臣の歸崇も他にことなり、下賤の類にいたるまでも同く信仰し奉る。然らば卽ち萬人信力高僧の慈力佛力法力感應道交し、因緣和合せし故に、靈驗むなしからず。祈願皆成しき今は僧家の內德も古に及ばず、檀方の御信もことおろそかなり。此故に僧家をば佛法方の奉公にめしつかはるゝよしにて、御祈禱の課役をかけらるゝ事世俗の御公事にことならず、大法祕法を行なはるれ共、供料ごときの御沙汰も如法ならず、とりわきたる御祈りとて、たま〱施物も下行あるべしと仰せ出ださるれども、大略は有名無實なり。御祈禱ばかりにもあらず、御佛事とて修せらるゝ事も亦此の式なり。これ偏に佛法の御信心のうすき故なり。かやうならばいかでか御祈禱もかなひ御善根も成すべきや、近來鎌倉に智光といふ唐人あり、醫道に名を得たり。ある時、蘇香圓を合せけるに、傍らに人ありて此藥をなめてみんとて、少分つみかきて口に入れけるを見て、智光あたら藥をすこしなめ給ふことよ、猶服し給へと申けり。其の人心得ず思ふて、其の故を問ければ、藥は皆一服の分量定まれり、その分量にたらずして服しぬれば藥は費てその效しなし、とても服し給はゞ藥となるやうに服し給へと申すなりと答へけり。智光が申せるがごとく、とても御祈禱御佛事とてなさるゝあたらことを同じくは其效もあるやうに御沙汰もあれかしと申すなり。御祈禱の成否も善根の大小も偏に、御信心の淺深によるべし。施物の多少によるべからず。しかれば諸人の歎きもなく、三寶も感じ給ふやうに、御祈禱をも御佛事をも修せられば、目出たき御事なるべし。佛法は國王大臣有力の檀那に付屬すと說ける事は、下賤の人は各の宿習にまかせて、何れの法にても一宗を信じぬれば、出離の要道不足なし。然れども外護となり、檀那となりてあまねく佛法を流通することあたはず。この故に國王大臣有力の檀那に付屬すとの給へり。然らば卽ち此の付囑をうけ給へる人は、偏に一法をのみ御信じありて、餘宗をすて給ふ事あるべからず。たとひ諸宗をもらさず信じ給ふ共、若し、又諸の佛法を以てたゞ世俗の御祈りにあてさせ給はゞそれも亦よろしからず。末代なりといへどもかたじけなく如來の御付囑にあたり給へるはうれしき御事にあらずや。先づ佛の付屬にそむかじと大願を發して、外には大小の伽藍を興隆し、內には眞實の道心に安住して、諸宗を流通して、普く善緣を結び、萬人を引導して同じく覺果を證せしめんとふかく誓ひましますべし。若し、爾らば乃し是れ眞實の御祈禱廣大の御善根なるべし。十善五戒の宿熏によりて、國王大臣有力の檀那とならせ給へるも、併しながら三寶の恩力なり。若し又佛の付屬にそむきましまさば佛の付屬をうけざる下賤の人とことならじ。
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夢中問答集・『夢中問答集』愚かな者の坐禅は無益か問古人の云く、用心朦昧ならば坐禪無益なりと云云。然らば卽ち愚癡なる人の坐禪とて、壁に向つて坐するいたづらことゝ申す人あり。其の謂れありや。 答古人かやうにしめす事は、一大事のために志をはげます人の善知識にも參ぜず。たゞ坐禪となづけて蒙々として坐する人をすゝめて、其の用心を正しくなさんためなり。愚癡なる人は坐禪すること詮なしと申すにはあらず。用心くらき者は坐禪無益なりといふて、坐禪をばせずして愚癡のまゝにて日月を送る人は、何の益かあるべきや。佛法に入ること一世一時の熏修にあらず。今生に利根の姓を受て頓に悟る人は、前生朦昧にして坐禪したりし人なり。今生に朦昧にして坐禪する人は、當來かならず一聞千悟の人となるべし。或は云く坐禪は大事の所作なれば愚癡の身にはかなひがたし。經をよみ陀羅尼を誦し、念佛を申すことは事の行にてたやすければ、是は相應の行なるべしと云云。敎の中に云く、發心僻越しぬれば萬行從に施す。事行理行といへば一往の差別なり。何れの行なりとも用心あやまりぬれば、皆三界輪廻の業因なり。然らば卽ち大乘修行の用心たゞしき人は、其の中にして萬行をなせども錯なし。若し其の分なくば事理の行ともにいたづらなるべし。しかるを坐禪用心は大事なれば、先づ事の行を修せんといへるは偏案なり。坐禪を大事の行と思へるは、いまだ坐禪の玄旨をしらざる故なり。坐禪修行と申すことは、禪門ばかり用ふる事にあらす。顯密の諸宗にもあかせり。乃至小乘外道の法にもあり。坐禪といへる語は同じけれ共、其の旨趣各ことなり。小乘外道の坐禪は有漏無漏其の趣きことなれ共身を動ぜず。念をおこさじと修行する體はこれ同じ、淨土宗の坐禪は十六想觀等なり。盧山の遠法師等は此の行を專らにす。顯密の諸宗の坐禪かはれりといへども、各其の宗の深理を觀ずるを用心とす。末代になりて諸宗の坐禪大略はすたれたる故に、坐禪するは宗門の修行ばかりと思へるはあやまれり。宗門の坐禪と申は念をおさめ、身を動ぜじとするにもあらざれば、さやうに壁に向つて座して念をやむること大事なりともいふべからず。法理を觀ずることもあらざれば、我れは鈍根なる故に、法門の深理を習ふこと大事なりともいふべからず。財寶の入ることにもあらざれば、我れはまづしき故にかなひがたしともいふべからず。身力の入る事にもあらざれば、我は力弱ければ難議なりともいふべからず。塵勞の中には佛法なしともさだめねば、我れは俗人なる故に、修行の便りなしともいふべからず。燒香禮拜等の行は身を以てなす故に、其の身若し、餘の事をなす時は其の行かなはず。讀經誦呪念佛等の行は口を以てなす故に、別の事を談ずる時は、其の行じたる法理を觀ずることは意を以てなす故に、別事を思ふ時は其の觀はせられず。禪門の工夫は身を以てもなさず。口を以てもなさず。意を以てもなさず。何をか大事といふべきや。
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夢中問答集・『夢中問答集』問答を書き残してよいか問日來相看の次でに、問答申たることを、何となく假名字にて記し置きたり、これを淸書して、在家の女姓なんとの道に志しある者にみせばやと、存ずるはくるしかるまじきやらん。 答禪僧の法門は敎家のごとく、習ひ傳へたる法門を胸の中にたくはへ紙の上にかきつけて展轉して、人に授け與ふる事なし、たゞ機に對する時直下に指示するのみなり、これを觀面提持となづく、擊石火閃電光にたとへたり。其の蹤をもとむべからず。古人の云く、言外に意をさとるも、既に第二に墮すと云云。何かに況んや其の言を記錄して人にあたへて見せしめんをや、しかる故に古の宗師皆同く言句を記する事を制し玉へり、しかれども若し一向に記する事なくば誘引の路たへぬべし、これによりてやむことを得ず、古人の語錄天下に流布せり、禪宗の本意にはあらず、古人は大略內外典を博覽して、後に禪門に入り玉へり、是の故に其の所解皆な偏見におちず、末代禪宗を信ずる人の中にいまだ因果の道理をもわきまへず、眞妄の差別をもしらざる人あり、さやうの人の中にも、若道心いるがせならず、百不知百不會の處について二六時中直に本分を參決せば、なましいなる小智のある人よりもまされり。世間を見れば坐禪工夫は綿密ならず經論聖敎をば聽聞することなし、或は坐中に外道二乘の見解の起れるをも、これは坐中より得たる智慧なれば、得法なりと思へる人あり、或は自然に敎家に談ずるところの法門を解了して、我は禪僧なれば所解も亦禪の宗旨なりと思へり。予つねに經論を講ずることはかやうなる今時の弊をすくはんためなり、文言義理の上について委曲に談ずる因果眞妄の法門をたにも・愚存のごとくうけとる人はすくなし、各あらぬかたへ聞きなめ、或は褒め或は貶る、褒貶ともに愚存にはあらずいはんや。夢中の問答を記し置き給はん事其益あるべしとも存せず・しかれ共褒貶の語によりて、順逆の緣をむすばんこと、何ぞこれをいとなまんや。
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夢中問答集・『夢中問答集』本分の題を忘れぬ修行問禪門には生佛以前を擧揚する故に、一心三密の觀行をも論ぜずと申すに、古來の禪宗の學者皆坐禪工夫をたしなみ、知識も亦修行用心の邪正をしめす事は何ぞや。 答詩をつくり歌をよむ人は、先づ其の題をよく心得べし。月の題をとりて花の事を案ぜばよろしからず。佛法も亦かくのごとし。禪宗に本分の事といへるは何の事ぞや。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。人々具足し、箇々圓成すといへり。此の本分の題をとりながら、我れは迷人なりと思ふて悟りをひらくべき修行を習はんとする人は本分の題にそむける人なり。たとひ詩歌の風情は心にうかばざれ共、月の題をとりたる人は花のことをば案せぬがごとく、本分の題を信ずる人、我れは迷人なりと執著して別に悟りを求むる事はあるべからず。しかれども、いまだ箇々圓成せる處を分明にうけがふことのなき程は、日來の迷悟を存し、凡聖をへだてつる妄情を放下して、或は自ら直下に參究し、或は知識に參ずさはあれども念佛を申して往生の行にあて、陀羅尼を誦して悉地をもとめ、乃至敎門の中にあかせる觀念をこらして、證理をまつには同じからず。かやうの人は本分の題をわすれぬ學者なり。古人悟道の機緣を見れば上代なりし故にや、直下に大悟することはなかりし人も、本分の題をば信ぜし故に本分にかなふべきため、工夫用心とて、人にたづね問へることはなし。たゞ直に問て云く、如何なるか是れ佛、如何なるか是れ禪、如何なるか是れ佛法的々の大意、如何なるか是れ祖師西來の意、如何なるか是れ諸佛出身の處と云云。學者の問もかやうに直問なり。知識の答も亦直答にして、或は卽信卽佛とこたへ、或は庭前柏樹子としめし。或は東山水上に行くといふ。宗師かやうに答ふる事、皆な是れ本分の直示なり。此の語を以て修行の資糧となさしめんためにはあらず。然れども學者若し鈍にして、知識の直示をあきらめざれば、彼のしめすところの話頭に額をついて、或は一兩日、或は一兩月、乃至五年十年も此の直示を參決せり其の間をば修行とも申しぬべし。されども敎家に解行證をたてゝ、諸の觀を修する用心には同じからず。敎外別傳といへる題目は此の謂れなり。今時の人多くは是れ此の題をわすれて、善知識にあふて修行用心をたづね問ふ知識たる人の中にも、學者のために修行用心をおしへらる。或は公案を人にあたふるも往生のために念佛を申し、悉地のために陀羅尼をみつるがごとく、此の公案を提撕して本分に到らしめんと思へり。この故に學者も各用心の體をかたりて勝劣をたくらへ、知識の言のかはれる處について是非を批判す。皆な是れ世俗の戯論なり。
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夢中問答集・『夢中問答集』学解は優れど行いは凡夫問末代なりといへ共、內典外典の血脈相承たへず。各先德の意趣を解了して、其の家の法門を無窮に談ずる人はあれ共、儒者の中にも孔孟のごとく。心に五常を存する人もなし。佛敎の諸宗を學する人も、其宗の先德の行儀にも似ず。禪門の下語說禪機辨自在なる人も、死生禍福の間において、古人のごとく繫縛せられさるはまれなり。法門の相承は古今かはらずといへ共、學者の行儀は勝劣同じからざる事は何ぞや。 答經に云く、若し人多聞ありといへども、修行せざれば愚人にことならずと云云。世間の諸事も其の義を心得て人に語る事はやすく、其の語のごとく其の事をなす事はかたし。番匠のしわざ造作のたくみは、われ〱までも常の番匠にはおとらじと存ずれども、まことに手斧かんなを取て木をけづる事はかなはず。其故は番匠の家業をつぐべきことゝ思はねば、其しわざを稽古したることのなき故なり。此分にては下品の番匠の內にも入るべからず。番匠の家に生れたる者は幼少の時より、其のしわざを練磨するが故に、いかに非器なる者もさすがに、其の家業をつげる分はあり、今時內外典を相承する人は其家の才學をのみ論じて心を修する練磨なし。先德のごとくならざることは偏に是れ此故なり。昔孔子世に出て五常の道を述べられし時、其の門弟となれる人面々に其仁義禮智信の理を心にかけて修練しき、某人は仁を學び得たり。某人は義を學び得たりと孔子の印證し給ひしは、其の心に仁あり義ある人の事なり。たゞ仁義の才學をのみ談論して、心に仁義なき人をば印證し給ふことなかりき。今時儒敎を學び給ふ人は、たゞ仁義のいはれを習ひ得つれば、我は儒敎の達者なりと思ふて、仁義の道を心に修練せらるゝことなし。この故に仁義の才學は孔孟にもおとらぬやうに見ゆれども、其の心に仁義のかけたることは、つねさまの愚人とかはれる所なし。佛敎も亦かくのごとし。佛在世の時なればとて、人ごとに皆上根にして、やがて解脫自在を得たることなし。しかれども中下根の人も如來の法門を聽聞して、其の聞解のごとく修練せし故に、分に隨つて益を得ざる人はなかりき。佛滅後にも上古には一宗の法門を聞く人面々に、其の宗に敎へたるごとく修行せし故に、皆得益の分ありき。其故は利鈍ことなりといへども、宿殖深厚の人の佛法を信ずることは、偏に出離生死化度衆生のためにして、世俗の名利をかへりみることなかりし故なり。末代に生れたる人は宿熏淺薄なる故に、在家の人の中にたま〱佛法を信じ給ふも、大略は世俗の名利のためなり。出家の形になりて佛法を學する人も多くは、是れ榮耀名譽のためなり。しかれば修練の功をつまるゝ事もなし。只偏に諸宗の義理をだにも學び得つれば各滿足の思をなし給へり。故に學解のまさるに隨つて我慢も亦高し、つねさまの凡夫はたゞ人我ばかりあり。佛法を學せる人は本の人、我の上にかさねて法我を添へたり。この故に法門を談論することは上古の先德にもおとらず。行儀を較量すれば下賤の凡夫とかはりめなし。番匠鍛冶等の才藝を學ぶ者はたとひ、其才學を吐く辨說は拔群なりとも木をけづるてうはうもなく、釘をだにつくりえぬ分劑ならば、鍛冶番匠の內にも入るべからず。況んや此の才學をたのみて世をわたる活計とせんや。然らば卽ち彼等が家に生れたる者は、幼少より其の業を練磨するほどに末代までも上古に恥ることなし。內外典を學し給ふ人も、かやうにだにならば何ぞ上古にはづることあらんや。たとひ鈍根にして、やがて解脫自在をこそえずとも、などかつねさまの凡夫よりも人情我執のやはらぐ分はなからんや。しかれども今時はたゞ人に勝れたる學解だにあれば、其の心の邪僻なるをもかへりみず。其の行の浮淺なるをも耻給はざれば、諸宗の學者の先德のごとくにおはせぬこそ、ことはりなれ。古人云く一丈を說得せんよりは一尺を行取せんにはしかじと云云。然らば卽ち禪門の宗師同く一切の學解を放下して自ら參じ、自ら究めよとすゝめ給へり。しかるを今時禪門の學者もまた語錄をよみ、文章をたしなみて其の中の才學日來よりまされる所あれば、大我慢をおこして眞實の悟入なき事をば耻らるゝことなし。是故に敎門禪宗の所學ことなりといへども、祖師先德の行儀にそむける事は、是れ同じ是れ卽ち末世法滅の相なり。なげかしきことのこれよりも、まされるはあるべからず。