夢中問答集 / 『夢中問答集』調伏と祈祷の心得
皆打したがへて正法を行ずる僧をたすけたりき。其の心ひとへに正法を流通せんがためなりし故に、少罪をも得ざりきと云々。我朝の聖德太子の守屋の大臣を打給ひしも此の謂れなり。若し正法流布の御志はなくしてたゞ御敵を祈り殺して我が御身は世にさかへ給はんためならば、此の順現業によりて世をたもち給ふ事もひさしかるべからず、當來はまた惡報を受給ふべし。涅槃經に云く、怨みを以て怨みをむくふは油を以て火をけすがごとしと云々。佛菩薩は一切衆生をあはれみ給ふこと一子のごとし。諸神も皆佛菩薩の化身にて垂迹門に出でさせ給ふなれば、其のあはれみもいかでか親疎偏頗ましまさんや。しかるを御祈りを申さるゝ僧家も、若し正法紹隆のためにはあらずして、偏に我が身のために彼の御敵はほろびて此の御方はさかえ給へと佛神に祈り給はゞ、佛神此の人にかたらはれてさらば汝が所望に隨つて彼をばほろぼし、此をばたすけんと思ひ給はんや。佛法を信ずる人は天上の果報を得て世に災もなく、命に中天もなければとて貴しとせず、其の故はなまじひにながらへはてた小果報にばかされて佛法を行せず、つひには惡趣におつればなり。いはんや下界のありさまたとひ三皇五帝の代なりとも、佛法流布の時ならねば佛法者のねがふべき事にあらず。亂世なり共、若し佛法だに世に住せばなげくべきにあらず。しかれば禪敎律かはりたりといふとも、佛弟子となれる人は同じく天下太平佛法紹隆と祈り給ふべし。若し、爾らば天下に誰にても佛法を興行しますべき宿習も威勢もそなはり給ふ人、此の祈をば受けとり給ふべし。或人の云く、弓箭刀杖等にては人を殺すこそ罪業なれ、祕法呪力にて祈り殺すは功德となるべしと云云。これ大なる邪義なり。たとひ弓箭刀杖にて殺すとも、釋迦如來の因位の時、正法流布のために惡僧をほろぼし、聖德太子の守屋をうたせ給ひし御意のごとくならばまことに功德となるべし。たとひ大法祕法を行はるとも、其の意樂若し世俗の名利の爲ならば皆罪業をまねくべし。梵網經に殺生を制するとて乃至呪殺と說けるは此の義なり。或は云く、彼の敵は早く死して成佛せよと調伏する故に罪業とはならず云云。まことに此の調伏によりて次生にやがて成佛すべきならばげにも殊勝の事なり。若し、しからばにくき敵を祈り殺して成佛せしめんよりは、先づ我がいとほしき人を祈り殺し奉りて、佛に早くなしたてまつらばやと、よにもどかしくこそ覺ゆれ。
新字:皆打したがへて正法を行ずる僧をたすけたりき。其の心ひとへに正法を流通せんがためなりし故に、少罪をも得ざりきと云々。我朝の聖徳太子の守屋の大臣を打給ひしも此の謂れなり。若し正法流布の御志はなくしてたゞ御敵を祈り殺して我が御身は世にさかへ給はんためならば、此の順現業によりて世をたもち給ふ事もひさしかるべからず、当来はまた悪報を受給ふべし。涅槃経に云く、怨みを以て怨みをむくふは油を以て火をけすがごとしと云々。仏菩薩は一切衆生をあはれみ給ふこと一子のごとし。諸神も皆仏菩薩の化身にて垂迹門に出でさせ給ふなれば、其のあはれみもいかでか親疎偏頗ましまさんや。しかるを御祈りを申さるゝ僧家も、若し正法紹隆のためにはあらずして、偏に我が身のために彼の御敵はほろびて此の御方はさかえ給へと仏神に祈り給はゞ、仏神此の人にかたらはれてさらば汝が所望に随つて彼をばほろぼし、此をばたすけんと思ひ給はんや。仏法を信ずる人は天上の果報を得て世に災もなく、命に中天もなければとて貴しとせず、其の故はなまじひにながらへはてた小果報にばかされて仏法を行せず、つひには悪趣におつればなり。いはんや下界のありさまたとひ三皇五帝の代なりとも、仏法流布の時ならねば仏法者のねがふべき事にあらず。乱世なり共、若し仏法だに世に住せばなげくべきにあらず。しかれば禅教律かはりたりといふとも、仏弟子となれる人は同じく天下太平仏法紹隆と祈り給ふべし。若し、爾らば天下に誰にても仏法を興行しますべき宿習も威勢もそなはり給ふ人、此の祈をば受けとり給ふべし。或人の云く、弓箭刀杖等にては人を殺すこそ罪業なれ、秘法呪力にて祈り殺すは功徳となるべしと云云。これ大なる邪義なり。たとひ弓箭刀杖にて殺すとも、釈迦如来の因位の時、正法流布のために悪僧をほろぼし、聖徳太子の守屋をうたせ給ひし御意のごとくならばまことに功徳となるべし。たとひ大法秘法を行はるとも、其の意楽若し世俗の名利の為ならば皆罪業をまねくべし。梵網経に殺生を制するとて乃至呪殺と説けるは此の義なり。或は云く、彼の敵は早く死して成仏せよと調伏する故に罪業とはならず云云。まことに此の調伏によりて次生にやがて成仏すべきならばげにも殊勝の事なり。若し、しからばにくき敵を祈り殺して成仏せしめんよりは、先づ我がいとほしき人を祈り殺し奉りて、仏に早くなしたてまつらばやと、よにもどかしくこそ覚ゆれ。
書き下し
皆打したがへて正法を行ずる僧をたすけたりき。其の心ひとへに正法を流通せんがためなりし故に、少罪をも得ざりきと云々。我朝の聖德太子の守屋の大臣を打給ひしも此の謂れなり。若し正法流布の御志はなくしてたゞ御敵を祈り殺して我が御身は世にさかへ給はんためならば、此の順現業によりて世をたもち給ふ事もひさしかるべからず、當來はまた惡報を受給ふべし。涅槃經に云く、怨みを以て怨みをむくふは油を以て火をけすがごとしと云々。佛菩薩は一切衆生をあはれみ給ふこと一子のごとし。諸神も皆佛菩薩の化身にて垂迹門に出でさせ給ふなれば、其のあはれみもいかでか親疎偏頗ましまさんや。しかるを御祈りを申さるゝ僧家も、若し正法紹隆のためにはあらずして、偏に我が身のために彼の御敵はほろびて此の御方はさかえ給へと佛神に祈り給はゞ、佛神此の人にかたらはれてさらば汝が所望に隨つて彼をばほろぼし、此をばたすけんと思ひ給はんや。佛法を信ずる人は天上の果報を得て世に災もなく、命に中天もなければとて貴しとせず、其の故はなまじひにながらへはてた小果報にばかされて佛法を行せず、つひには惡趣におつればなり。いはんや下界のありさまたとひ三皇五帝の代なりとも、佛法流布の時ならねば佛法者のねがふべき事にあらず。亂世なり共、若し佛法だに世に住せばなげくべきにあらず。しかれば禪敎律かはりたりといふとも、佛弟子となれる人は同じく天下太平佛法紹隆と祈り給ふべし。若し、爾らば天下に誰にても佛法を興行しますべき宿習も威勢もそなはり給ふ人、此の祈をば受けとり給ふべし。或人の云く、弓箭刀杖等にては人を殺すこそ罪業なれ、祕法呪力にて祈り殺すは功德となるべしと云云。これ大なる邪義なり。たとひ弓箭刀杖にて殺すとも、釋迦如來の因位の時、正法流布のために惡僧をほろぼし、聖德太子の守屋をうたせ給ひし御意のごとくならばまことに功德となるべし。たとひ大法祕法を行はるとも、其の意樂若し世俗の名利の爲ならば皆罪業をまねくべし。梵網經に殺生を制するとて乃至呪殺と說けるは此の義なり。或は云く、彼の敵は早く死して成佛せよと調伏する故に罪業とはならず云云。まことに此の調伏によりて次生にやがて成佛すべきならばげにも殊勝の事なり。若し、しからばにくき敵を祈り殺して成佛せしめんよりは、先づ我がいとほしき人を祈り殺し奉りて、佛に早くなしたてまつらばやと、よにもどかしくこそ覺ゆれ。
現代語訳
(国王は)皆打ち従えて、正法を行う僧を助けた。その心がひとえに正法を広めるためであったので、わずかな罪も受けなかったという。我が国の聖徳太子が守屋の大臣を討たれたのも、この訳である。もし正法を広める志がなく、ただ敵を祈り殺して自分は世に栄えようというのなら、この順現業によって世を保つことも長くは続かず、来世にはまた悪い報いを受けられるだろう。涅槃経に、怨みを怨みで報いるのは、油で火を消そうとするようなものだ、とある。 仏や菩薩は、一切の衆生を哀れむことが一人子のようである。諸神もみな仏菩薩の化身で垂迹の門に現れておられるので、その哀れみに、どうして親疎や偏りがあろうか。それなのに、御祈りを申し上げる僧も、もし正法を継ぎ盛んにするためではなく、ひとえに我が身のために、あの敵は滅びてこちらの方は栄えるようにと仏神に祈るなら、仏神はこの人に言い含められて、ならばお前の所望に従って、彼を滅ぼしこちらを助けようと思われるだろうか。 仏法を信ずる人が天上の果報を得て、世に災いがなく、命に若死にがないからといって、貴いとはしない。なぜなら、なまじ長らえた小さな果報にたぶらかされて仏法を行わず、ついには悪趣に落ちるからである。まして下界の有様は、たとえ三皇五帝の世であっても、仏法が広まる時でなければ、仏法者が願うことではない。乱世であっても、もし仏法さえ世に存続するなら、嘆くには及ばない。そうであるから、禅・教・律の違いはあっても、仏弟子となった人は、同じく天下太平と仏法の継ぎ興りを祈られるべきである。もしそうであれば、天下の誰であれ、仏法を興し行うべき前世からの習いと威勢を備えた人が、この祈りを受け取られるだろう。 ある人が言う。弓矢や刀杖で人を殺すのは罪業だが、秘法や呪力で祈り殺すのは功徳になる、と。これは大きな邪な説である。たとえ弓矢や刀杖で殺しても、釈迦如来が因位のとき正法を広めるために悪僧を滅ぼし、聖徳太子が守屋を討たせられた御心のとおりなら、まことに功徳となる。たとえ大法や秘法を行っても、その意図がもし世俗の名利のためなら、すべて罪業を招くだろう。梵網経に殺生を制するとして、呪い殺すことまで説いているのは、この意味である。 ある人は言う。彼の敵が早く死んで成仏するようにと調伏するのだから、罪業にはならない、と。たしかに、この調伏によって次の生ですぐ成仏するなら、まことに立派なことである。もしそうなら、憎い敵を祈り殺して成仏させるよりも、まず自分の愛しい人を祈り殺し申し上げて、仏に早くしてさしあげたいと、実にもどかしく思われる。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
夢中問答集・『夢中問答集』仏法のために世法を興す世法のために佛法を信じ給ふ人も、惡王惡臣となりてすべて佛法を信ぜざる人よりは、まさり給へりといへ共、一身を保つて夢中の榮華にほこり、萬民を撫て、暫時の飢寒をまぬがれしめたるばかりにて、上下つひに輪廻をまぬがれざれば、三皇五帝の時も佛法流布の世ならねば、うらやむべきことにあらず然らば卽ち佛法のために世法を興行し、萬民を引導して同じく佛法に入らしめ給ふは、卽ち是在家の菩薩なり、本朝の聖德太子萬機の政をなしながら、其の中間に堂塔を造立し、佛像を安置し、經論を講說し、疏鈔を製作しまし〱き、是れ卽ち佛法のために世法を興し給へる模樣なり。十七箇條の憲法の始めに上下和睦歸敬三寳と載せ給へるも、政道を行ふ事は佛法のためなる由なり。さればにや御在生の時、一天四海政化になびきしのみに非ず、七百年の今にいたるまで、誰か彼の遺躅をあふがざる此の太子にそむき、奉りしは、たゞ守屋一人のみなり、つひに是をほろぼし給ひき、守屋はこれ執政の大臣なり。政道のため、他にことなる人なりきしかれども、太子の善根をなし給ふことをあながちに妨げ申しゝ故に、これを誅罰せらる其の旨趣御自筆の天王寺の記に載せられたり。異朝の梁の武帝侯景がために世を奪はれ給へることは、餘りに善根に心を傾けて政道をわすれ給ひし故なりとそしれる人あり、釋迦如來は淨飯王の太子として、王位をつぎ給ふべかりしを、遁れ出で雪山に入て飢寒の苦をうけ給ひしをば佛事に心をかたぶけて、王位の榮華を失ひ給へりとそしり奉らんや。梁の武帝も王位に居せしとて、度々遁れ出で給ひしを、臣下ども追ひかへし奉る。結句はかたくのがれ給はんとて、御身を賣て寺の奴となり給ひき、諸臣なをゆるし奉らず、御身の價を寺へかへして本のごとく王位につけ奉る。かの御意をさぐり奉るに、何ぞ侯景に世を奪はれ給ふことあさましと思ひ給はんや。今の御ありさまを見奉るに、釋迦如來、梁の武帝のごとく、一向に世間を捨て給ふ事はかなふべからず。たゞ聖德太子のごとく佛法のために世法を興行し給はゞ殊勝の御事なるべし。今度義兵をおこされしことは偏に佛法興行のためなりと承はりしかば、たとひ天下の人一同に妨げ申す共善心の破れ給ふ御事はあらじと存ずれども、かやうに申さるゝ人の魔心をもひるがへし給はゞ、一分の益もあるかとて種々の荒言に及べり。
-
夢中問答集・『夢中問答集』檀那の祈祷と信心の深さ問佛言く佛法をば國王大臣有力の檀那に付屬す。然れば檀方つゝがなくして佛法も紹隆すべし。僧家も檀方の祈をせられんは何ぞ、理にそむかんや。 答佛の付屬し給へる意は國王大臣等、或は外護となり、或は檀越となりて佛法を流通し、自もまた此の佛法に入て出離せよとの謂れなり。此の佛法を以て世俗の名利をいのり給へとて付屬し給へるにはあらず。然らば、卽ち世上もおさまり、檀門もつゝがなくして佛法を紹隆し、衆生を利益せんために御祈りをせよと仰られ、僧家も此志をはげまして御祈りを申されば、佛の付屬にそむくべからず、末代といへどもさすがに佛法の運もひかへたる故に、禪敎律の僧をば軍勢にもかられず、世間の公務にもめしつかはれずして、御祈りを申せと仰せらるゝことは、皆善事なればたとひ御公事につとむるとも、僧家あながちにいさみ申すべきにはあらず。しかれ共、近年世の亂によりて關東京都御祈禱とてなさるゝ事なのめならず。されどもその作法を見奉れば、此式にてはいかでか御祈りにもなるべきやと覺へたり。因緣和合し、感應道交して一切のは事を成就すといへる事は佛敎の定判なり。古の大師高僧の、國家をいのり災厄をはらひ給ふことはこれを方便門として、衆生を攝引して、大菩提を證せしめんためなり。我が身の名利のためにいのり給ふこと更にあるべからず。此れ大慈悲の德を內につゝみ給へるによりて、國王大臣の歸崇も他にことなり、下賤の類にいたるまでも同く信仰し奉る。然らば卽ち萬人信力高僧の慈力佛力法力感應道交し、因緣和合せし故に、靈驗むなしからず。祈願皆成しき今は僧家の內德も古に及ばず、檀方の御信もことおろそかなり。此故に僧家をば佛法方の奉公にめしつかはるゝよしにて、御祈禱の課役をかけらるゝ事世俗の御公事にことならず、大法祕法を行なはるれ共、供料ごときの御沙汰も如法ならず、とりわきたる御祈りとて、たま〱施物も下行あるべしと仰せ出ださるれども、大略は有名無實なり。御祈禱ばかりにもあらず、御佛事とて修せらるゝ事も亦此の式なり。これ偏に佛法の御信心のうすき故なり。かやうならばいかでか御祈禱もかなひ御善根も成すべきや、近來鎌倉に智光といふ唐人あり、醫道に名を得たり。ある時、蘇香圓を合せけるに、傍らに人ありて此藥をなめてみんとて、少分つみかきて口に入れけるを見て、智光あたら藥をすこしなめ給ふことよ、猶服し給へと申けり。其の人心得ず思ふて、其の故を問ければ、藥は皆一服の分量定まれり、その分量にたらずして服しぬれば藥は費てその效しなし、とても服し給はゞ藥となるやうに服し給へと申すなりと答へけり。智光が申せるがごとく、とても御祈禱御佛事とてなさるゝあたらことを同じくは其效もあるやうに御沙汰もあれかしと申すなり。御祈禱の成否も善根の大小も偏に、御信心の淺深によるべし。施物の多少によるべからず。しかれば諸人の歎きもなく、三寶も感じ給ふやうに、御祈禱をも御佛事をも修せられば、目出たき御事なるべし。佛法は國王大臣有力の檀那に付屬すと說ける事は、下賤の人は各の宿習にまかせて、何れの法にても一宗を信じぬれば、出離の要道不足なし。然れども外護となり、檀那となりてあまねく佛法を流通することあたはず。この故に國王大臣有力の檀那に付屬すとの給へり。然らば卽ち此の付囑をうけ給へる人は、偏に一法をのみ御信じありて、餘宗をすて給ふ事あるべからず。たとひ諸宗をもらさず信じ給ふ共、若し、又諸の佛法を以てたゞ世俗の御祈りにあてさせ給はゞそれも亦よろしからず。末代なりといへどもかたじけなく如來の御付囑にあたり給へるはうれしき御事にあらずや。先づ佛の付屬にそむかじと大願を發して、外には大小の伽藍を興隆し、內には眞實の道心に安住して、諸宗を流通して、普く善緣を結び、萬人を引導して同じく覺果を證せしめんとふかく誓ひましますべし。若し、爾らば乃し是れ眞實の御祈禱廣大の御善根なるべし。十善五戒の宿熏によりて、國王大臣有力の檀那とならせ給へるも、併しながら三寶の恩力なり。若し又佛の付屬にそむきましまさば佛の付屬をうけざる下賤の人とことならじ。
-
夢中問答集・『夢中問答集』仏力で定業は変わるか問佛力法力たやすく定業を轉ずることあたはずば、何をか佛法の利益と申すべきや。 答業に種々のしなあり、現生にやがてむくふをば順現業となづく。次の生にむくふをば順生業といふ。順生の後にむくふは順後業なり、若この三種よりも輕き業なるはいつにても便宜の時むくふべし。かやうなるをば不定業と名づけたり。輕重によりて遲速ありといへ共、つくりおける業のむくはずして、たゞやむ事はあるべからず。佛力法力にあらずば、いかでかこれを消滅せんや佛力法力ありといへども、衆生若求哀懺愧の心なれば、消滅する事あたはずたとへば耆婆扁鵲は名醫なれども、人の病をおさへてなをすことあたはず、病者もし其敎へに隨ふて療治すれば病者の苦忽にやむがごとし。佛も亦かくのごとし。衆生の業報をおさへて轉ずることあたはず、三世了達の智慧を以て衆生の種々業報の因緣を知見して、貧苦は慳貪の業因によれり、短命は殺生の業報なり、形容の醜陋なるは忍辱ならざる故なり。種姓の下賤なるは、他人を輕劣したりしむくひなりと說き給へり。若人此敎へに隨ふて前非を悔てながくかやうの業因をやめなば、何ぞ定業とて轉せざる事あらんや。今時の人をみれば朝夕內には惡念をたくはへ、外には惡行をのみなしてさすがに福分もねがはしく壽命もながらへたきまゝに、佛にいのり、神にまうづるばかりなり。若かやうならば、いかでかしるしもあるべきや、伊勢太神宮には幣帛をさゝぐることをも制し給ふ。經呪を讀誦するをもゆるされず。予先年勢州に下りて外宮の邊に一宿したることありき。其時、一人の禰宜といふ人に其謂れをたづねしかば、此社に詣づる時、內外の清淨あり、外の清淨とは精進潔齋して、身を穢惡にふれざるなり、內の清淨とは胸中に名利の望みをおかざるなり、よのつね幣帛をさゝげ法樂をなすことは、皆な是名利の望みを祈り奉らんためなれば內清淨にあらず、この故にこれを制し給へり。たとへば政道をたすくる官人の訴人のわいろをとらざるがごとし。貧窮下賤にして、名利共にかけたることは偏に是れ前世に名利のために惡業をつくりし故なり。しかればたゞ名利を求めることをやめて、內心清淨ならば、名位福祿をのづから滿足すべし。若し、しからずば、日々夜々に參詣して、幣帛神馬の賄賂をさゝげ、經呪法樂の追從をはげます共、其所望をかなふる事あるべからず、神慮かくのごとし。此の事は御託宣の記に見へたりと云々。此の物語の次でに御殿ちかく法師の入らぬ事は如何なる故やらんとたづね申ししかば、彼禰宜答て云、世間にはさま〱に此謂れを申す人もあり、皆是推義なり、日本に佛法のわたれることは第三十帝廣庭の天皇の御時なり。神明の此地に跡をたれさせ給ひし時は、佛法いまだ流布せず、出家の人もあるべからず。然らば卽ち法師は參るべかずとの御いましめもあらんや。昔は內裏なんどへも出家の形にて參ることはなかりき。佛法流布の世になりて、國王御歸依の御ために有智高德の僧を召し入れらるそれよりして、法師の出入をゆるされけり。此社壇は昔の風儀をあらためず、又內清淨を人にしめさんために、法樂をもうけ給はしと御託宣ありし故に、有無に法師は出入せぬよしになれり。
-
夢中問答集・『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(四)かやうの決定の業報をば佛菩薩のちからも轉ずることかなはず。形容の妍醜福德の大小壽命の長短種姓の貴賤これらはみな前世の業因にこたへたる定業なり、莊子等は前世の業因によれる事をしらざるが故に、貧富貴賤はみなこれ自然なりと思へり、佛敎にはしからず、前世の惡因によりて惡果を得たる人この理をしりて、今生に惡業をつくらずば當來必ず善果を得べし、轉じがたき現報をとかくもちあつかふ程に當來の善因をも修せず、これは愚人にあらずや。たとへば農夫の田をつくるがごとし。春の時耕すこともねんごろならず。草をも入ず水をもかけず、種をまき苗をうふることも疎略なりし故に、秋になりてみればかたのごとく稻には似たれども、藁をとるほどの得利もありがたし。いはんや米を收むることあらんや。此の時、農人これを歎きて始めて水をかけ、草を入どもかなふべからず。しかるをもしや〱と秋の稻をもちあつかふ事は愚痴なりたゞ此の西收の時、得利のなきことは偏に東作の時、疎略なりしとがなりとして、明年の耕作をよくいとなまば、必ず此の秋のやうなる損亡はあるべからず、經の中に佛力法力をあかす時、定業も亦よく轉ずといへる文あり、又佛力も業力にはかたずともいへり、若し人日來の凡情をひるがへして、正念に住して、或は道行を成せんため、或は他人を利益せんために現報を祈りかへんと思ふて佛力法力によりて、至誠心にて修せば、定業なりとも必ず轉ずべし。故に定業も亦能く轉ずともいへり。若人凡情の執着によりて、命をのべたく福をたもちたき故に祈るならば、かやうの欲心は佛心と冥合せざる故に、感應あるべからず、この故に佛力も業力にかたずといへり。諸佛は大悲を體とす故に、一切衆生をあはれむこと一子のごとしと說き給へり。佛力若したやすく業力をさへぎることあらば、惡道におつる者はあるべからず、濁世に生れて諸の苦みを受る人もなかるべし。佛在世の時、瑠璃太子釋氏とあだをむすびし因緣によりて、王位につきて後、釋氏をほろぼす事九千九百九十萬人、目連尊者佛に申ていはく、衆生の苦をば親疎をえらばず救ひ給ふこそ佛の大悲なれば餘人なりともかやうの難にあふをばたすけ給ふべし。しかるに今ほろぶる人は皆佛の御一族なり、しかるをたすけ給はざることは何ぞや。佛の言、彼等がほろぶることは皆前世の業因のむくひなるが故に、たすくることあたはず、爾の時、目連まさしく金口の說を聞けども、猶疑心やまず、卽神通を以て殺しのこされたる者五百人を相具して、四王天の邊にゆきて鉢をひろくなして、五百人の上に覆てかくし給ひけり。かやうにしたらばさりとものかゝる事もありなんと思はれけり、佛に參りて此の由を申す。佛の言く、業力のいたる事は處をもえらばず、神通にもさえられず、汝かしこがほにしたれども、五百人皆鉢の中にて死にぬ。目連卽かのところへとひ行いて見られければ、佛の御言にたがはざりけり。經論の中にかやうの因緣一つにあらず。しるべし業力のたやすく轉ずべからざる事を。
-
夢中問答集・『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(一)問佛菩薩は皆一切衆生の願を滿給はんといふ誓あり。たとひ衆生の方より祈求めずとも、苦みある者をばこれをぬきて樂をあたへ給ふべし。しかるに末代のやうをみれば。心をつくして祈れ共かなふ事のまれなることは何ぞや。 答予三十年の前きに此の疑の起る事ありき、常州臼庭といふ所に獨住せし時、五月の始め庵外に遊行す、其の頃ひさしく雨ふらす、田畠みな枯野のごとし、これを見てあはれむ心ふかく起れり。心中に思ふやうなどか龍王にこれをあはれむ心のなかるらん。其時、又うちかへして思ふやう。龍王は雨をふらす能はあれども、人をあはれむ心なし。我れには人をあはれむ心はあれ共、雨をふらす德なし。佛菩薩は雨をふらす德も、龍王にすぐれ人をあはれむ心も我よりふかゝるべし。しかれ共かやうの厄難をたすけ給はぬことは、何ぞや若し衆生の業報つたなき故に佛の利益もかなはぬと、いはゞ凡夫の苦にあふことは皆業報の故なり。若し業報をばたすくべからざることならば、佛菩薩の凡夫の願ひを滿ち給ふといふこと虛言なるべし。若し又聖敎にあかすこと何ぞ虛言ならんやといはゞ古はしらず、今をみるに貴賤上下誰れこそ所願滿足せりとみゆる人もなし。藥師如來は衆生の病を除滅せんと誓ひ給へども、世間をみるに病者ならぬ人はすくなし。普賢菩薩は一切衆生に隨順して給使せんと誓給へども、世間をみれば從ふ者一人もなくしていやしき人も多し。たま〱眷屬はあまたあれども、誰こそ普賢かとおほしくて主人の心にかなへる人もなし。上代は大師高僧出世して靈驗をほどこし、衆生の厄難をすくひ給ひき。古は世も上代にて人の果報もいみじかりしかば、たとひ大師高僧の靈驗をほどこし給はずともありぬべし。今は世もいよ〱濁惡になりぬ人も亦、薄福なりかやうの時こそ、ことさらに靈驗まします大師高僧も大切なるに、或は入滅、或は入定とて出現し給はぬことは何ぞや。かやうの疑さま〱に起れり。しかれどもさせる一大事の因緣ならねば打捨て心にかけず。其の後一兩月をへていさゝか思出づる事あり。昔西行江口といふ宿にてやどをかりけるに、あるじの君ゆるさず。西行一首の謌をすさめり。世の中をいとふまでこそかたからぬかりのやどりをおしむ君かな。家主これを聞て、世をいとふ人としきけばかりのやどに心とむなと思ふばかりぞと詠じけり。つねさまになさけといへる事は皆妄執をとゞむる因緣なり。されば人のなさけもなく、世の意にかなはぬ事は出離生死のたすけとなるべし。昔洛陽に外典の才學拔群なる人ありき、其の子の小童を膝もとにをきて文をならはしむ。我が身の出仕する時は此の小童の一身坐するやうなる構をして、繩にて梁につりあげて文をあづけてよましめけり。其繼母なりける人、此の小童をあはれみて、父の他行しけるあとには、いだきおろして暫時あり、はじめて父の歸り來るべき時節には本のごとく坐せしむ。彼小童の心に父のいましめはうらめしく、繼母のなさけのうれしき事限りなし。成長の後、日來の稽古によりて、つゐに家業を續で辨官にめしつかはる。
-
夢中問答集・『夢中問答集』祈っても叶わぬ訳(二)其の時、幼少の時の心にはひきかへてうらめしかりし父の誡めは恩となり。うれしかりし繼母の情は仇となれりと語りける事を傳へ聞しも、此の次でに思ひ出られて日來佛菩薩の利益をさかさまに心得て、末代には佛菩薩の利益なしと思ひける謬りをやめにき、佛菩薩の誓願さま〱也といへ共、其本意をたづぬればたゞ無始輪廻の迷衢を出て、本有清淨の覺岸に到らしめんためなり。しかるに凡夫のねがふ事は皆是輪廻の基なり。かやうの願ひをみつるを聖賢の慈悲といはんや。しかれども先づ衆生の性欲に隨つて、やうやく誘引せんためにかりに所願をかなふる事なり。若し人世間の所願の滿足せるにほこりて、いよ〱執着を生じて放逸無慙愧の心を起すべき者には、その所願をかなふることあるべからず。是れ卽ち聖賢の利益なり。されば末代の凡夫の祈ることのしるしなきこそしるしなりけれ。たとへば醫師の病者を療治する時、或はにがき藥をのましめ、或はあつき灸をやけといふ病者愚痴にして其意をしらず。我が療治を求めることは、身心の苦をやめんがためなり。しかるを今又療治によりていよ〱苦をそへたり。此醫師は慈悲なき人なりといはんがごとし、醫師の慈悲なきにはあらず、病者の心のひかめるなり。諸經の終りの流通分にいたりて、諸天善神願をおこしていはく、我れ等此の持經の人を守護して災難をのぞき、財寶をあたへ、病苦をすくふべしと云々。其の趣をみれば、佛法修行の人若し前世の業因によりて、諸の苦厄にあふて行道の障りとならば、我れ等其苦厄を除きて修行の人をして、退屈することなからしめんとなり。邪見放逸の人の佛法をば行せず。たゞ世間の名利をもとめ災難をいとふ者のために、此誓をおこし給へるにはあらず。つら〱これを思へば末代の人のいのることのしるしなきはことはりなり。中頃一人の老尼公ありき、清水に詣でねんごろに禮拜をいたして願はくは、大悲觀世音尼が心にいとはしき物を早く失ふてたひ候へとくりかへし申しけり。傍に聞く人これをあやしみて、何事を祈り申し給ふぞと問ければ、尼がわかゝりし時より枇杷をこのみ侍に、あまりにさねのおほきことのいたはしく覺ゆる程に、年ごとに五月の比はこれへ參りて此の枇杷のさねをうしなふてたひ候へと申せ共、いまだしるしもなしと答へけり。だれ〱も枇杷を食する時は、さねのうるさき事はあれ共、觀音に祈り申すまでの事にはあらずとて、おかしくはかなき事に語り傳へたり。世間をみれば佛神に參り經だらにを讀ぶて身を祈る人もよも、無上道のためにはあらじ。たゞ世間の福壽をたもち災厄をまぬがれんためにこそと覺たり。若し其の分ならば枇杷のさね祈りける尼公をはかなしと思はんや。たとへば人の長者の家に到りてわづかなる輕物を求むるがごとし、それほどの所望ならば長者ならぬ人にも乞ひぬべし。され共世間の長者は慳貪の心あるが故に、重寳なんどを求めんにはたやすくあたふべからざる故に、せめての所望に輕き物をこふ共いひぬべし。