盲安杖 / 第一条・生死を知りてたのしみ有る事・後半
箇樣の淺き所より心を深く入れて。間斷なく守らんゟは。本來無一物にして全く生死なきことを見るべし。武藏國の太田道灌と云ふ人。深く道に入て歌道も達者の人なり。最後に敵鋒をつけて。常の達者ならば歌よめと云ふ時言の下より。かゝる時さこそ命の惜からめ豫て無身と思ひ知らずは。又蜷川新左衞門の辭世なりと云ふ歌に。生れけるその曉ゟ死ゟければ今日の夕は松風ぞ吹く。又一休和尚の歌ゟ。有漏路より無漏路へたどる一休み風ふかば吹け雨ふらばふれ。此人々の樂み測り難し。箇樣の人も始は迷の人なれども。一たび道に入て勤め行せし故なり。扨如何やうに勤めんとならば。唯已に離るゝ事を勤むべし。果なきかな親きにつき疎きにつき。先立て死ある事を示せども。是を余所に見て空く過ごす。何れの人が残り止まるや。何事が暫しも住するや。夢幻の世の中眼を遮ぎり耳に滿つ。知るべし〱元來無常の世なる事を。若し明かに無常を知らば何の障あるらんや。夢中の境界に着して。我物がほに樂む此身何物ぞや。地水火風の假の緣合して形を結ぶ。更に我が物に非ず。四大に着する時は四大我を惑はす。かへす〱四大に惑さるゝ事なく。極めて見よ一箇の我あり。是又我に非ず四大を離れて四大に屬し。四大につれて四大を用びたり。古人の曰く。有物先天地。無形本寂寥。能爲万像主。不逐四時凋。
新字:箇様の浅き所より心を深く入れて。間断なく守らんゟは。本来無一物にして全く生死なきことを見るべし。武蔵国の太田道灌と云ふ人。深く道に入て歌道も達者の人なり。最後に敵鋒をつけて。常の達者ならば歌よめと云ふ時言の下より。かゝる時さこそ命の惜からめ予て無身と思ひ知らずは。又蜷川新左衛門の辞世なりと云ふ歌に。生れけるその暁ゟ死ゟければ今日の夕は松風ぞ吹く。又一休和尚の歌ゟ。有漏路より無漏路へたどる一休み風ふかば吹け雨ふらばふれ。此人々の楽み測り難し。箇様の人も始は迷の人なれども。一たび道に入て勤め行せし故なり。扨如何やうに勤めんとならば。唯已に離るゝ事を勤むべし。果なきかな親きにつき疎きにつき。先立て死ある事を示せども。是を余所に見て空く過ごす。何れの人が残り止まるや。何事が暫しも住するや。夢幻の世の中眼を遮ぎり耳に満つ。知るべし〱元来無常の世なる事を。若し明かに無常を知らば何の障あるらんや。夢中の境界に着して。我物がほに楽む此身何物ぞや。地水火風の仮の縁合して形を結ぶ。更に我が物に非ず。四大に着する時は四大我を惑はす。かへす〱四大に惑さるゝ事なく。極めて見よ一箇の我あり。是又我に非ず四大を離れて四大に属し。四大につれて四大を用びたり。古人の曰く。有物先天地。無形本寂寥。能為万像主。不逐四時凋。
書き下し
箇様の浅き所より心を深く入れて。間断なく守らんよりは。本来無一物にして全く生死なきことを見るべし。武蔵国の太田道灌と云ふ人。深く道に入て歌道も達者の人なり。最後に敵鋒をつけて。常の達者ならば歌よめと云ふ時言の下より。かゝる時さこそ命の惜からめ予て無身と思ひ知らずは。又蜷川新左衛門の辞世なりと云ふ歌に。生れけるその暁より死よりければ今日の夕は松風ぞ吹く。又一休和尚の歌より。有漏路より無漏路へたどる一休み風ふかば吹け雨ふらばふれ。此人々の楽み測り難し。箇様の人も始は迷の人なれども。一たび道に入て勤め行せし故なり。扨如何やうに勤めんとならば。唯已に離るゝ事を勤むべし。果なきかな親きにつき疎きにつき。先立て死ある事を示せども。是を余所に見て空く過ごす。何れの人が残り止まるや。何事が暫しも住するや。夢幻の世の中眼を遮ぎり耳に満つ。知るべし〱元来無常の世なる事を。若し明かに無常を知らば何の障あるらんや。夢中の境界に着して。我物がほに楽む此身何物ぞや。地水火風の仮の縁合して形を結ぶ。更に我が物に非ず。四大に着する時は四大我を惑はす。かへす〱四大に惑さるゝ事なく。極めて見よ一箇の我あり。是又我に非ず四大を離れて四大に属し。四大につれて四大を用びたり。古人の曰く。有物先天地。無形本寂寥。能為万像主。不逐四時凋。
現代語訳
このような浅いところから心を深く入れて、絶え間なく守ろうとするよりも、本来は無一物であって、まったく生死などないことを見るべきです。武蔵国の太田道灌という人は、深く道に入って歌道にも達者な人でした。最期に敵が槍先を突きつけて、日頃達者ならば歌を詠めと言ったとき、その言葉の下から「こういうときはさぞ命が惜しいだろう。前もって無身と思い知っていなければ」と詠みました。また、蜷川新左衛門の辞世だという歌に、「生まれたその暁から死ぬ覚悟だったので、今日の夕べは松風が吹いている(だけだ)」とあります。また、一休和尚の歌に、「有漏路(迷いの世界)から無漏路(悟りの世界)へたどる一休み、風が吹くなら吹け、雨が降るなら降れ」とあります。これらの人々の楽しみは測り知れません。こうした人も初めは迷いの人でしたが、一たび道に入って勤め行じたからです。では、どのように勤めればよいかといえば、ただ己から離れることを勤めなさい。はかないことに、親しい者につけ疎い者につけ、先立って死ぬことを示されているのに、それをよそ事のように見て空しく過ごしています。誰が残り止まるでしょうか。何事がしばらくでも留まるでしょうか。夢幻のような世の中が、目をさえぎり耳に満ちています。知りなさい、知りなさい、もとより無常の世であることを。もし明らかに無常を知るなら、何の障りがあるでしょうか。夢の中のような境涯に執着して、わが物顔に楽しむこの身は、いったい何者でしょう。地水火風が仮に縁によって合わさり、形を結んでいるだけで、まったく自分のものではありません。四大に執着するときは、四大が我を惑わします。くれぐれも四大に惑わされることなく、見極めなさい。そこに一箇の我があります。これもまた我ではありません。四大を離れていながら四大に属し、四大につれて四大を用いているのです。古人は言いました。「物有り、天地に先だつ。形無く、本より寂寥たり。よく万象の主となり、四時を逐って凋まず。」(形のない一つのものが、天地より先にあり、万物の主となって、季節が移ろっても衰えない、という意味です。)
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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盲安杖・第一条・生死を知りてたのしみ有る事・前半生死を知りて楽み有ることを慥に知るべし。夫れ生者必滅の理。口に知りても心に知らず。少年早く過去りて頭に霜を戴き。額に波をたゝみ五体日々に衰へ。露命朝夕に迫ると雖。更に驚く心なし。去年は今年に移り春過ぎ秋来れども。飛花落葉の理を弁へず。石火電光目の前なれども。無常幻化なることを知らず。誠に衣鉢を頸に掛け出離の道に入りて。諸法空なる理を修行する人も。遂に常住の機離れ難し。されば此身を全く思ふが故に。日夜の苦み止む時なし。誠に身を思ふ人ならば。速に身を忘れよ。苦患何れの処より出るか。唯是れ身を愛する心に在り。とりわけ武士の生涯は。生死を知らずは有るべからず。生死を知る時はおのづから道あり。知らざる時は仁義礼智もなし。武士の二字と云ふこと。生死の二を知るを以て云ふとの説あり。去る程に昼夜此理を守りて。生死を見届けて徳に至るべし。唐の杵臼、程嬰。一人は死を易くし。一人は命を全して終に敵を滅し。再たび太子を世に立て。弓箭の本意を達することも生死を知る故あり。されど主君の恩を蒙り。妻子を育み身命を助かりながら。此身を我が物と為し、心を忽にするは僻事なり。主君の恩にて身命を助かることを能知りて。此身を主君の物なして仕へよ。則ち此身の安楽ある所に至るべし。扨身命は主君の物なれは。何をか我が物とせんや。
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、仏は諸行無常(しょぎょうむじょう)と云ふなり。世上(せじょう)に諸(もろもろ)の行はるゝ物は、皆常に無き物なり。然(しか)るを有ると見るは迷(まよい)なり、汝等(なんじら)が命、汝等が体(からだ)皆然り。長短遅速は有りといへども、皆有るにはあらず、有ると思ふは迷ひなり。本来は長短もなし、遅速もなし、遠近もなし、生死もなし、蜉蝣(かげろう)の一時を短しと見、鶴亀(つるかめ)の千年を長しと思ふが如き是皆迷なり。然といへども、此理(このことわり)は見え難し、凡人に之を見(しめ)するは遠近のみ、是は我が悟道(ごどう)の入門なり。「見渡せば遠き近きは無かりけり、己々(おのおの)が住処(すみか)にぞよる」見渡せば生死生滅無かりけり、見渡せば善きも悪しきもなかりけり、見渡せば憎いかはゆい無かりけり。この歌を感ずる時は其の道理知らるべきなり。夫(そ)れ生と云ふも死と云ふも共に無常にして、頼みにならぬ事は明白なり。氷と水とを見よ、何をか生と云ひ、何をか死と云ふ。水は寒気に感じて氷となり、氷は暖気に感じて水となる。今朝寒しといへども、一朝(いっちょう)暖気なれば速(すみやか)に消ゆ、之を如何(いかん)せん、水か氷か、氷か水か、生か死か、死か生か、何をか生と云はん、何をか死と云はん。諸行無常なる事知らるべし。然して又無常も無常にあらず、有常も有常にあらず、惜しい、欲しい、憎い、かはゆい、彼も我れも皆迷なり。此の如く迷ふが故に三界城(さんがいじょう)と云ふ堅固な物が出来て人を恨み、人を妬み、人をそねみ、人に憤り、種々の悪果(あっか)を結ぶなり。之を諸行無常と悟る時は、十方空(じっぽうくう)となつて恨むも、妬むも、悪(にく)むも、憤るも馬鹿馬鹿しくなるなり。是の所に至れば自然怨念死霊(おんねんしりょう)も退散す、之を悟りと云ふ、悟るを成仏と云ふなり、玩味(がんみ)して悟門(ごもん)に入るべきなり。
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『臨済録』示衆爾が一念心疑へば、地の來るに礙へらる。爾が一念心愛せば、水の來るに溺る。爾が一念心嗔れば、火の來るに燒かる。爾が一念心喜べば、風の來るに飄はさる。若し能く是くの如く辨得せば、境に轉ぜられず、處處に境を用ゐ、東に涌いて西に沒し、南に涌いて北に沒し、中に涌いて邊に沒し、邊に涌いて中に沒し、水を履むこと地の如く、地を履むこと水の如し。緣何ぞ此くの如き。四大は夢の如く幻の如しと達するが故なり。道流、爾が秖今法を聽く者は、是れ爾が四大の能く用ゐるにあらず。爾が四大若し能く是くの如く見得せば、便ち乃ち去住自由なり。山僧が見處に約せば、嫌ふ底の法勿し。爾若し聖を愛せば、聖とは聖の名なり。有る一般の學人、五臺山裏に向かって文殊を求むるは、早く錯り了れり。五臺山に文殊無し。爾文殊を識らんと欲するや。秖だ爾が目前の用處、始終異ならず、處處に疑はざる、此箇是れ活文殊なり。爾が一念心の差別無き光、處處に總て是れ真の普賢なり。儞が一念心の自ら能く縛を解く、隨處に解脫す、此れは是れ觀音なり。
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『驢鞍橋』卷上一日去る遁世者来て、修行の用心を問ふ。師示して曰く、万事を打置て唯死に習はるべし。常に死に習つて、死の隙を明け、誠に死する時、驚かぬやうにすべし。□て死に習はるべし。彼者云、盲安杖を常に披見仕る、是等を見る事も悪しや。師曰、見て覚ゆる事は皆怨也。只念仏を以て死を軽くすべし。
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『驢鞍橋』卷下一日人問ふ、四民に書を給ふ所の浮心を如何用ゐんや。師示して曰く、虎口塲に望む心也。又果眼に成り、じりじりと懸る時の心也。此の機なくして万事に使はるべからす。仏道修行と云ふは、始めより終り迄、只此の機一つを以て生死を離るゝこと也。生死さへ離れば成仏也。然る間、此の機一つを以て成仏すべき也。別に入ることなし。見解抔と云ふこともさして用に立たぬ物也。毒薬変して薬と成ると云ふが如く、薬変して毒と成り結句怨と成ること多かるべし。見解よりも何よりも、只勇猛の心を以て練付て行くかよき也。古歌に「悟とは悟らで悟る悟なり悟る悟は夢の悟ぞ」とあり。誠に悟る悟はあぶないことぞ。我も悟らぬ悟がすきなり。法然などの念仏往生も悟らぬ悟也。
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『驢鞍橋』卷下我も宝物集にて諸行無常の文に、雪山童子命を代へ給ふ因縁を見て、ひしと諸行無常の意移りたり、又その後六十の年、去る暁寅の刻、仏の三界の衆生を一子の如く思召御心ひしと移る。誠にその時は蟻螻を見ても、生涯を楽み苦む有様、憐に思ひ、何とそ救ふ方便や有らんと、髄に透つて思れたり。その心も三日乗て失す。乍去是は今にも徳になるなり。其よりして少し慈悲心起れり、又性の位も無きに非ず、是れも六十一の歳八月廿七の日、明くれは甘八日の暁、はらりと生死を離れ、慥に本性に契ふ。その当意は只なしなしなしなしと躍て計有度心にてありし也。誠にその時は、頸を切るゝとも、なしなしと毛頭も実なく思はれたり。三十日程如是して過しけるか、我思はいや我に似合はぬこと也。只一機の上にて移りたることなるべしと思ひ、こちより打捨て、本に取て帰り、彼死を胸の中へぼし籠んで、强く修し行せし也。案の如く皆虚ことにて、今に正三と云ふ糞袋は秘蔵也。又その後同しことなから、普化の意道ならば、三町計り行く程か間、慥に移れり。是れは大に徳に成る也。我も普化程には、世世生々に於て修し付けんと思ふ心强ふ起れり。普化は慥に仏境界の人と覚えたり。河陽、木塔、臨済を新婦子老婆小断児と云はれたるは道理なり。普化の眼より見ては、皆無眼子なるべし。
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