二宮翁夜話 / 続篇
翁曰、仏は諸行無常と云ふなり。世上に諸の行はるゝ物は、皆常に無き物なり。然るを有ると見るは迷なり、汝等が命、汝等が体皆然り。長短遅速は有りといへども、皆有るにはあらず、有ると思ふは迷ひなり。本来は長短もなし、遅速もなし、遠近もなし、生死もなし、蜉蝣の一時を短しと見、鶴亀の千年を長しと思ふが如き是皆迷なり。然といへども、此理は見え難し、凡人に之を見するは遠近のみ、是は我が悟道の入門なり。「見渡せば遠き近きは無かりけり、己々が住処にぞよる」見渡せば生死生滅無かりけり、見渡せば善きも悪しきもなかりけり、見渡せば憎いかはゆい無かりけり。この歌を感ずる時は其の道理知らるべきなり。夫れ生と云ふも死と云ふも共に無常にして、頼みにならぬ事は明白なり。氷と水とを見よ、何をか生と云ひ、何をか死と云ふ。水は寒気に感じて氷となり、氷は暖気に感じて水となる。今朝寒しといへども、一朝暖気なれば速に消ゆ、之を如何せん、水か氷か、氷か水か、生か死か、死か生か、何をか生と云はん、何をか死と云はん。諸行無常なる事知らるべし。然して又無常も無常にあらず、有常も有常にあらず、惜しい、欲しい、憎い、かはゆい、彼も我れも皆迷なり。此の如く迷ふが故に三界城と云ふ堅固な物が出来て人を恨み、人を妬み、人をそねみ、人に憤り、種々の悪果を結ぶなり。之を諸行無常と悟る時は、十方空となつて恨むも、妬むも、悪むも、憤るも馬鹿馬鹿しくなるなり。是の所に至れば自然怨念死霊も退散す、之を悟りと云ふ、悟るを成仏と云ふなり、玩味して悟門に入るべきなり。
書き下し
翁(おきな)曰(いわ)く、仏は諸行無常(しょぎょうむじょう)と云ふなり。世上(せじょう)に諸(もろもろ)の行はるゝ物は、皆常に無き物なり。然(しか)るを有ると見るは迷(まよい)なり、汝等(なんじら)が命、汝等が体(からだ)皆然り。長短遅速は有りといへども、皆有るにはあらず、有ると思ふは迷ひなり。本来は長短もなし、遅速もなし、遠近もなし、生死もなし、蜉蝣(かげろう)の一時を短しと見、鶴亀(つるかめ)の千年を長しと思ふが如き是皆迷なり。然といへども、此理(このことわり)は見え難し、凡人に之を見(しめ)するは遠近のみ、是は我が悟道(ごどう)の入門なり。「見渡せば遠き近きは無かりけり、己々(おのおの)が住処(すみか)にぞよる」見渡せば生死生滅無かりけり、見渡せば善きも悪しきもなかりけり、見渡せば憎いかはゆい無かりけり。この歌を感ずる時は其の道理知らるべきなり。夫(そ)れ生と云ふも死と云ふも共に無常にして、頼みにならぬ事は明白なり。氷と水とを見よ、何をか生と云ひ、何をか死と云ふ。水は寒気に感じて氷となり、氷は暖気に感じて水となる。今朝寒しといへども、一朝(いっちょう)暖気なれば速(すみやか)に消ゆ、之を如何(いかん)せん、水か氷か、氷か水か、生か死か、死か生か、何をか生と云はん、何をか死と云はん。諸行無常なる事知らるべし。然して又無常も無常にあらず、有常も有常にあらず、惜しい、欲しい、憎い、かはゆい、彼も我れも皆迷なり。此の如く迷ふが故に三界城(さんがいじょう)と云ふ堅固な物が出来て人を恨み、人を妬み、人をそねみ、人に憤り、種々の悪果(あっか)を結ぶなり。之を諸行無常と悟る時は、十方空(じっぽうくう)となつて恨むも、妬むも、悪(にく)むも、憤るも馬鹿馬鹿しくなるなり。是の所に至れば自然怨念死霊(おんねんしりょう)も退散す、之を悟りと云ふ、悟るを成仏と云ふなり、玩味(がんみ)して悟門(ごもん)に入るべきなり。
現代語訳
翁が言われた。仏は「諸行無常」という。世の中に行われるものはみな、常なるものはない。それを常にあると見るのが迷いである。おまえたちの命も体も、みなそうだ。長い短い、遅い速いはあるようだが、みな実在するのではなく、あると思うのが迷いだ。本来、長短もなく、遅速もなく、遠近もなく、生死もない。かげろうの一日を短いと見、鶴や亀の千年を長いと思うのは、みな迷いである。とはいえ、この道理は見えにくい。凡人に示せるのは遠近くらいのもので、それが私の悟りの道への入門だ。「見渡せば遠い近いはないものだ、それぞれの住む場所によるだけだ」――同じように、見渡せば生死も生滅もない、善いも悪いもない、憎いもかわいいもない。この歌の心に感じ入るとき、その道理が分かるはずだ。そもそも生といい死といっても、ともに無常であって頼りにならないことは明白だ。氷と水を見よ。何を生といい、何を死というのか。水は寒さに応じて氷となり、氷は暖かさに応じて水となる。今朝は寒くても、ひとたび暖かくなればたちまち消える。これをどうしよう。水か氷か、氷か水か、生か死か、死か生か。何を生といい、何を死といおうか。諸行無常であることが分かるはずだ。そうしてまた、無常も無常ではなく、有常も有常ではない。惜しい、欲しい、憎い、かわいい――他人も自分もみな迷いだ。このように迷うから「三界城」という堅固なものができて、人を恨み、妬み、そねみ、憤り、さまざまな悪い報いを結ぶ。これを諸行無常と悟るとき、十方が空となって、恨むのも妬むのも憎むのも憤るのも馬鹿馬鹿しくなる。この境地に至れば、自然と怨念や死霊も退散する。これを悟りといい、悟ることを成仏という。よく味わって悟りの門に入るがよい。
解説
この章句が説くこと
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、「咲(さけ)ばちり散(ち)れば又さき年毎(としごと)に詠(なが)め尽(つき)せぬ花の色々(いろいろ)」、困窮(こんきゅう)に陥(おちい)り、如何(いか)ともすべき様(よう)なくて、売出(うりだ)す物品を、安(やす)ひ物だと悦(よろこ)んで買(か)ひ、又不運(ふうん)極(きわま)り拠(よりどころ)なく、家を売て裏店(うらだな)へ引込(ひきこ)めば、表店(おもてだな)へ出て目出度(めでたし)と悦ぶ者、絶(たえ)ずある世の中なり、「増減(ぞうげん)は器(うつわ)傾(かたむ)く水と見よこちらに増(ま)せばあちらへるなり」、物価の騰貴(とうき)に、大利を得る者あれば、大損(たいそん)の者あり、損をして悲(かな)しむあれば、利を得て悦ぶ者あり、苦楽(くらく)存亡(そんぼう)栄辱(えいじょく)得失(とくしつ)、こちらが増(ま)すとあちらの減(へ)るとの外になし、皆是(これ)自他を見る事能(あた)はざる半人足(はんにんそく)の、寄合(よりあ)ひ仕事なり、「喰(く)へばへり減(へ)れば又喰ひいそがしや永(なが)き保(たも)ちのあらぬ此身(このみ)ぞ」、屋根は銅板(あかがねいた)で葺(ふ)き、蔵(くら)は石で築(きず)くべけれども、三度の飯(めし)を一度に喰ひ置く事は出来ず、やがて寒(さむさ)が来るとて、着物を先に着(き)て置(お)くと云ふ事も出来ぬ人身(ひとみ)なり、されば長くは生(いき)られぬは天命なり、「腹(はら)くちく喰ふてつきひく女子(おなご)等は仏(ほとけ)にまさる悟(さとり)なりけり」、我(わが)腹に食(しょく)満(みつ)れば寝(ね)て居るは、犬猫(いぬねこ)を始(はじめ)心無き物の常情(じょうじょう)なり、然るに食事を済(すま)すと、直(ただち)に明日(あす)喰ふべき物を拵(こしら)へるは、未来の明日の大切なる事を能(よく)悟(さと)る故なり、此悟(このさとり)こそ人道必用の悟なれ、此の理を能悟れば、人間は夫(それ)にて事足るべし、是(これ)我(わが)教、悟道(ごどう)の極意なり、悟道者流の悟りは、悟るも悟(さとら)ざるも、知るも知らざるも、共に害もなし益もなし、「我といふ其(その)大元(おおもと)を尋(たずぬ)れば食(く)ふと着(き)るとの二つなりけり」、人間世界の事は政事(せいじ)も教法(きょうほう)も、皆此二つの安全を計(はか)る為のみ、其他(そのた)は枝葉(しよう)のみ潤色(じゅんしょく)のみ
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二宮翁夜話・続篇翁(おきな)曰(いわ)く、世界元(もと)吉凶禍福(きっきょうかふく)苦楽生滅(くらくしょうめつ)なし、予(われ)が示せる一円図(いちえんず)の如し。而(しか)して是(これ)あるは、其(そ)の半(なかば)に己(おのれ)と云ふ者を置きて隔つる故なり。人は云ふ、万物土より生じて土に帰ると、是まだ尽さず、眼前の論なり、是は江戸人が旅客は品川より出づと云ふが如し、其の出京(しゅっきょう)は区々(まちまち)なるなり。艸木(そうもく)の春生育して秋枯るゝを見て、秋を無常(むじょう)といへども、農家にては秋実(じつ)を得て悦ぶなり、艸の上より見れば誠に無常なれども、種の上より見る時は有常(うじょう)なり。されば無常も無常にあらず、有常も有常にあらずと云ふべし。
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二宮翁夜話・巻之二或(ある)問(と)ひて曰(いわ)く、仏経に色則是空(しきそくぜくう)、空則是色(くうそくぜしき)といへるは、如何(いか)なる意ぞ、翁曰く、譬(たと)へば二一天作の五、二五十と云ふに同じ、只其の云ひ様の妙なるのみなり、深意あるが如く聞ゆれ共、別に深意あるにあらざるなり、夫(そ)れ天地間の万物、眼に見ゆる物を色といひ、眼に見えざる物を空と云へるなり、空といへば何も無きが如く思へ共、既に気あり、気あるが故に直(ただ)ちに色を顕(あらわ)す也、譬へば氷と水との如し、氷は寒気に依(よ)りて結び暖気に因(よ)りて解く、水は寒に因りて死して氷となり、氷は暖気に因りて死して元の水に帰す、生ずれば滅し、滅すれば生ず、然れば、有常も有常にあらず無常も無常にあらず、此の道理を色則是空空則是色と説けるなり。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、夫(それ)此(この)世界咲花(さくはな)は必ず散(ち)る、散るといへども、又来る春は必ず花さく、春生ずる草は必ず秋風に枯(か)る、枯るといへども、又春風に逢(あ)へば必ず生ず、万物皆然(しか)り、然れば無常(むじょう)と云ふも無常に非(あら)ず、有常(うじょう)と云ふも有常に非ず、種(たね)と見る間に草と変じ、草と見る間に花を開き、花と見る間に実(み)となり、実と見る間に、元の種となる、然れば種と成りたるが本来か、草と成りたるが本来か、是(これ)を仏に不止不転(ふしふてん)の理(り)と云ひ、儒に循環(じゅんかん)の理と云ふ、万物皆この道理に外(はず)るる事はあらず
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二宮翁夜話・巻之二或(あるひと)道を論じて条理無し、翁曰(いわ)く、卿(きみ)が説は悟道(ごどう)と人道と混ず、悟道を以て論ずるか、人道を以て論ずるか、悟道は人道に混ずべからず、如何(いかん)となれば、人道の是(ぜ)とする処は、悟道に所謂(いわゆる)三界城なり、悟道を主張すれば、人道蔑如(べつじょ)たり、其の相隔(へだ)つるや、天地と雲泥とのごとし、故に先づ其の居所(いどころ)を定めて、然して後に論ずべし、居所定まらざれば、目のなき秤(はかり)を以て軽重を量るがごとく、終日弁論するといへども、其の当否を知るべからず、夫(そ)れ悟道とは、譬(たと)へば当年は違作ならんと、未(いま)だ耕(たがや)さざるの前に観ずるが如きを云ふ、是を人道に用ひて違作なるべき間(あいだ)、耕作を休まんと云ふは、人道にあらず、田畑は開拓するとも又荒るるは自然の道なりと見るは、悟道なり、而(しか)して荒るればとて開拓せざるは、人道にあらず、川附の田地洪水あれば流失すると云ふ事を平日に見るは、悟道なり、然して耕さず肥(こや)しせざるは、人道にあらず、夫れ悟道は只自然の行く処を見るのみにして、人道は行き当る所まで行くべし、古語に、父母に事(つか)ふる幾(ようや)く諌(いさ)む、志の随はざるを見て、敬して違(たが)はず、労して恨みず、とあり、是れ人道の至極を尽せり、発句(ほっく)にも「いざさらば雪見にころぶ所まで」と云へり、是れ又其の心なり、故に予常に曰く、親の看病をして、最早覚束(おぼつか)なしなどと見るものは、親子の至情を尽すことあたはじ、魂去り体冷えて後も、未だ全快あらんかと思ふ者にあらざれば、尽すと云ふべからず、故に悟道と人道とは混合すべからず、悟道は只、自然の行く処を観じて、然して勤むる処は、人道にあるなり、夫れ人倫の道とする処は、仏に所謂三界城裏の事なり、十方空を唱ふる時は、人道は滅すべし、知識を尊み娼妓を賎(いや)しむは迷ひなり、左はいへども、此くの如く迷はざれば人倫行はれず、迷ふが故に人倫は立つなり、故に悟道は人倫に益なし、然といへども、悟道にあらざれば、執着を脱する事能(あた)はず、是れ悟道の妙なり、人倫は譬へば繩(なわ)を索(な)ふが如し、よりのかかるを以てよしとす、悟道は縷(より)を戻すが如し、故によりを戻すを以て善とす、人倫は家を造るなり、故に丸木を削りて角とし、曲れるを揉(た)めて直とし、長を伐りて短とし、短を継ぎて長くし、穴を穿(うが)ち溝(みぞ)を掘り、然して家作を為す、是れ則ち迷故三界城内の仕事也、然るを本来なき家なりと破るは悟道なり、破りて捨つる故に十方空に帰するなり、然りといへども、迷と云ひ悟と云ふは、未だ徹底せざる物なり、其の本源を極(きわ)むれば迷悟ともになし、迷といへば悟と言はざる事を得ず、悟といへば迷と言はざる事を得ず、本来迷悟にて一円なり、譬へば草木の如き、一種よりして、或は根を生じて土中の潤沢をすひ、或は枝葉を発して大虚の空気を吸ひ、花を開き実を結ぶ、是を種より見ば迷と云ふべし、然といへ共、忽(たちま)ち秋風に逢へば枯れ果てて本来の種に帰す、種に帰するといへども、又春陽に逢へば忽ち枝葉花実を発生す、然らば則ち、種となりたるが迷か草となりたるが迷か、草に成りたるが本体か種になりたるが本体か、是に因りて是を観るに、生ずるも生ずるにあらず枯るるも枯るるに非ず、されば、無常も無常にあらず有常も有常にあらず、皆旋転(せんてん)不止の世界に住する物なればなり、予が歌に「咲けばちり散れば又咲く年毎に詠(なが)め尽せぬ花のいろいろ」、一笑すべし。
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二宮翁夜話・巻之五翁(おきな)曰(いわ)く、世人の常情(じょうじょう)、明日食ふべき物なき時は、他に借(かり)に行かんとか、救ひを乞(こ)はんとかする心はあれども、弥(いよいよ)明日は食ふべき物なしと云ふ時は、釜(かま)も膳椀(ぜんわん)も洗ふ心なし、と云へり、人情実に恐るべく尤(もっと)もの事なれども、此の心は困窮其の身を離れざるの根元なり、如何(いか)となれば、日々釜を洗ひ膳椀を洗ふは明日食はんが為にして、昨日迄用ひし恩の為に、洗ふにあらず、是(これ)心得違(ちが)ひなり、たとへ明日食ふべき物なしとも、釜を洗ひ膳も椀も洗ひ上げて餓死すべし、是今日迄用ひ来りて、命を繋(つな)ぎたる、恩あればなり、是恩を思ふの道なり、此の心ある者は天意に叶ふ故に長く富を離れざるべし、富と貧とは、遠き隔(へだて)あるにあらず、明日助からむ事のみを思ひて、今日までの恩を思はざると、明日助からむ事を思ふては、昨日迄の恩をも忘れざるとの二つのみ、是大切の道理なり、能々(よくよく)心得べし、仏家にては、此の世は仮(かり)の宿、来世こそ大切なれと教ゆ、来世の大切なるは、勿論なれど、今世を仮の宿として、軽んずるは誤(あやま)れり、今一草を以て之を譬(たと)へん、夫(それ)草となりては、来世の実の大切なるは、無論なりといへども、来世好(よ)き実を結ばんには、現世の草の時、芽立(めだち)より出精して、露を吸ひ肥(こやし)を吸ひ根を延し葉を開き、風雨を凌(しの)ぎ、昼夜精気を運びて根を太らせ、枝葉を茂(しげ)らせ、好き花を開く事を、丹精せざれば、来世好き実となる事を得ず、されば草の現世こそ大切なれ、人も其の如く、来世のよからん事を願はゞ、現世に於て邪念を断(た)ち身を慎(つつし)み道を蹈(ふ)み、善行を勤むるにあり、現世にて人の道を蹈まず、悪行をなしたる者いづくんぞ、来世安穏(あんのん)なる事を得んや、夫地獄(じごく)は悪事を為したる者の、死後に遣(や)らるゝ処、極楽(ごくらく)は善事を為したる者の行く処なる事、鏡に掛けて明らかなれば、来世の善悪は、現世の行ひにあり、故に現世を大切にして、過去を思ふべきなり、先(ま)づ此の身は如何にして生れ出でしやと、跡を振返りて見る是なり、論語にも、生を知らざれば焉(いずく)んぞ死を知らん、と云へり、夫性(せい)は天の令命なり、身体は父母の賜(たまもの)なり、其の元天地の令命と父母の丹精とに出づ、先づ此の理より窮(きわ)めて、天徳に報ひ、父母の恩に報ゆる行ひを立つべし、性に率(したが)ひて道を蹈むは、人の勤(つとめ)なり、此の勤を励む時は、来世は願はずして、安穏なる事疑ひなし、何ぞ現世を仮の宿と軽んじ、来世のみを大切とせんや、夫現在に君あり、父母あり妻子あり、是現世の大切なる所以(ゆえん)なり、釈氏(しゃくし)の之を捨てて、世外に立ちしは、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)せんが為なり、世を救はんには、世外に立たざれば、広く救ひ難きが故なり、譬ば己が坐して居る畳を揚げんとする時は、己外に移らざれば、揚ぐべからざるが如くなればなり、然るに世間一身を善くせんが為に、君父妻子を捨つるは迷へるなり、然れども僧侶は其の法を伝へたる者なれば、世外の人なるが故に別なり、混ずべからず、是君子小人の別るゝ処にして、我が道の安心立命(あんじんりゅうめい)は爰(ここ)にあり、惑(まど)ふべからず。