名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸村 静かに待つ大将
○五月五日の朝、幸村の斥候馳歸りて、旗三四本人衆二三萬計り、國府越より此方へ越來りたりと告ぐ。是伊達政宗なり、士卒すはや只今此備を押出さるゝかと勇める氣色なり、去れども幸村は障子に倚り掛て、片膝を立て居たりしが、徐に應じて左あらんと計りにて、外に言を出さず、午の刻頃斥候又馳歸て、今朝のと旗の色替はりしが、二三本人衆二萬計り、松蔭にて定かには見え申さゞりしかども、龍田越を押下したりと告ぐ。是德川忠輝なり、幸村虛睡りして居たるが、目を開き、善し〳〵如何程も越させよ、一所に集めて打敗りたらんには、大に快よからんものをとて、一向是に取合はぬ體なれば、皆はやりたる氣も稍々靜まりぬ。夕炊畢つて後、此陣所は戰に便なし、いざ敵近く寄らんとて、一萬五千餘正奇を亂さず、前後を混ぜず、騎士步卒次第を整て押出せば、敵假令十倍なりとも、恐るゝに足らずとぞ思はれける。其夜道明寺表に陣を取れり。營法軍令嚴肅なり、明れば六日の早旦、野村邊に至る、渡邊糺は幸村に先立て、水野勝成と戰ふ。糺、勝成を切靡けること五六十步、勝成守返して糺を擊却て、五度に力鬪三度に及びて、糺深手を負ひければ、人衆を脇に引取り、備を立直し、幸村に使を遣はして、只今の迫合に創を被りて、復た戰ふこと成り難し、然る故、貴殿掛引の妨ならんと存じ、脇に引取たり、且つ横を擊んとするの勢を見せて控へ候、是猶貴殿の一助たるべきかと言へば、幸村御働の程、目を驚したり、此より我等請取たりと返答して、軍を進むれば、政宗の兵掛り來る、野村の地形は、前後は岡にて、岡の上平らなり、中間十町計り卑して道の左右田疇に連なれり。幸村の先鋒岡の上に半過ぎ押上たる所を、政宗の騎馬鐵砲八百挺を一同に打立てたり。此騎馬鐵砲と言ふは、伊達家の二男三男壯力の者を撰び駿足を勝て乘らしめ、陸奥にて所々の戰に馬上より鐵砲一放と定めて打たずるに中らぬ玉は希なりけり。
新字:○五月五日の朝、幸村の斥候馳帰りて、旗三四本人衆二三万計り、国府越より此方へ越来りたりと告ぐ。是伊達政宗なり、士卒すはや只今此備を押出さるゝかと勇める気色なり、去れども幸村は障子に倚り掛て、片膝を立て居たりしが、徐に応じて左あらんと計りにて、外に言を出さず、午の刻頃斥候又馳帰て、今朝のと旗の色替はりしが、二三本人衆二万計り、松蔭にて定かには見え申さゞりしかども、竜田越を押下したりと告ぐ。是徳川忠輝なり、幸村虚睡りして居たるが、目を開き、善し〳〵如何程も越させよ、一所に集めて打敗りたらんには、大に快よからんものをとて、一向是に取合はぬ体なれば、皆はやりたる気も稍々静まりぬ。夕炊畢つて後、此陣所は戦に便なし、いざ敵近く寄らんとて、一万五千余正奇を乱さず、前後を混ぜず、騎士歩卒次第を整て押出せば、敵仮令十倍なりとも、恐るゝに足らずとぞ思はれける。其夜道明寺表に陣を取れり。営法軍令厳粛なり、明れば六日の早旦、野村辺に至る、渡辺糺は幸村に先立て、水野勝成と戦ふ。糺、勝成を切靡けること五六十歩、勝成守返して糺を撃却て、五度に力闘三度に及びて、糺深手を負ひければ、人衆を脇に引取り、備を立直し、幸村に使を遣はして、只今の迫合に創を被りて、復た戦ふこと成り難し、然る故、貴殿掛引の妨ならんと存じ、脇に引取たり、且つ横を撃んとするの勢を見せて控へ候、是猶貴殿の一助たるべきかと言へば、幸村御働の程、目を驚したり、此より我等請取たりと返答して、軍を進むれば、政宗の兵掛り来る、野村の地形は、前後は岡にて、岡の上平らなり、中間十町計り卑して道の左右田疇に連なれり。幸村の先鋒岡の上に半過ぎ押上たる所を、政宗の騎馬鉄砲八百挺を一同に打立てたり。此騎馬鉄砲と言ふは、伊達家の二男三男壮力の者を撰び駿足を勝て乗らしめ、陸奥にて所々の戦に馬上より鉄砲一放と定めて打たずるに中らぬ玉は希なりけり。
書き下し
○五月五日の朝、幸村の斥候馳歸りて、旗三四本人衆二三萬計り、國府越より此方へ越來りたりと告ぐ。是伊達政宗なり、士卒すはや只今此備を押出さるゝかと勇める氣色なり、去れども幸村は障子に倚り掛て、片膝を立て居たりしが、徐に應じて左あらんと計りにて、外に言を出さず、午の刻頃斥候又馳歸て、今朝のと旗の色替はりしが、二三本人衆二萬計り、松蔭にて定かには見え申さゞりしかども、龍田越を押下したりと告ぐ。是德川忠輝なり、幸村虛睡りして居たるが、目を開き、善し〳〵如何程も越させよ、一所に集めて打敗りたらんには、大に快よからんものをとて、一向是に取合はぬ體なれば、皆はやりたる氣も稍々靜まりぬ。夕炊畢つて後、此陣所は戰に便なし、いざ敵近く寄らんとて、一萬五千餘正奇を亂さず、前後を混ぜず、騎士步卒次第を整て押出せば、敵假令十倍なりとも、恐るゝに足らずとぞ思はれける。其夜道明寺表に陣を取れり。營法軍令嚴肅なり、明れば六日の早旦、野村邊に至る、渡邊糺は幸村に先立て、水野勝成と戰ふ。糺、勝成を切靡けること五六十步、勝成守返して糺を擊却て、五度に力鬪三度に及びて、糺深手を負ひければ、人衆を脇に引取り、備を立直し、幸村に使を遣はして、只今の迫合に創を被りて、復た戰ふこと成り難し、然る故、貴殿掛引の妨ならんと存じ、脇に引取たり、且つ横を擊んとするの勢を見せて控へ候、是猶貴殿の一助たるべきかと言へば、幸村御働の程、目を驚したり、此より我等請取たりと返答して、軍を進むれば、政宗の兵掛り來る、野村の地形は、前後は岡にて、岡の上平らなり、中間十町計り卑して道の左右田疇に連なれり。幸村の先鋒岡の上に半過ぎ押上たる所を、政宗の騎馬鐵砲八百挺を一同に打立てたり。此騎馬鐵砲と言ふは、伊達家の二男三男壯力の者を撰び駿足を勝て乘らしめ、陸奥にて所々の戰に馬上より鐵砲一放と定めて打たずるに中らぬ玉は希なりけり。
現代語訳
五月五日の朝、幸村の斥候が馳せ帰って、旗が三、四本、人数が二、三万ばかり、国府越えからこちらへ越えて来たと告げました。これは伊達政宗の軍でした。士卒は、さあただ今この備えを押し出されるかと勇む様子でしたが、幸村は障子に寄りかかり、片膝を立てていましたが、ゆっくりと応じて、そうだろうとだけ言い、ほかには何も言いませんでした。午の刻ごろ、斥候がまた馳せ帰り、今朝のものとは旗の色が変わり、二、三本、人数が二万ばかり、松の陰ではっきりとは見えませんでしたが、竜田越えを押し下ってきましたと告げました。これは徳川忠輝でした。幸村はうたた寝をしていましたが、目を開き、よしよしいくらでも越えさせよ、一所に集めて打ち破れば、大いに愉快だろうと言って、全く取り合わない様子でしたので、皆の逸った気持ちも次第に静まりました。夕飯が終わった後、この陣所は戦に便利でない、さあ敵の近くに寄ろうと、一万五千余が、正と奇を乱さず、前後を混ぜず、騎士と歩卒の順序を整えて押し出したので、敵がたとえ十倍でも恐れるに足りないと思われました。その夜は道明寺表に陣を取りました。営法と軍令は厳粛でした。夜が明けて六日の早朝、野村辺りに至りました。渡辺糺は幸村に先立って、水野勝成と戦いました。糺が勝成を切り靡かせること五、六十歩、勝成が守り返して糺を撃ち退け、五度のうち三度力闘に及び、糺は深手を負ったので、人数を脇に引き取り、備えを立て直し、幸村に使いを遣わして、ただ今の迫り合いで傷を負い、もう戦うことができません、そのために貴殿の駆け引きの妨げになるかと存じ、脇に引き取りました、なお横を撃とうとする勢いを見せて控えております、これも貴殿の一助になるかと思いますと言ったので、幸村は、お働きのほどに目を驚かされた、これより我らが受け持ちますと返答して、軍を進めると、政宗の兵が掛かってきました。野村の地形は、前後は岡で、岡の上は平らです。中間は十町ばかり低く、道の左右は田畑に連なっています。幸村の先鋒が岡の上に半ば過ぎ押し上ったところを、政宗の騎馬鉄砲八百挺を一斉に打ち立てました。この騎馬鉄砲というのは、伊達家の二男・三男の壮力の者を選び、駿足の馬に乗らせ、陸奥であちこちの戦で馬上から鉄砲を一発放つと決めて、撃たせると、当たらぬ弾は稀でした。
解説

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