名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸村 宇治瀬田の献策
○大阪冬役、軍議の時、幸村東兵未だ半も上らざれば、幾内至て無勢なり、故に太閤、明智御誅伐の吉例に任せ、山崎表へ御人數を出され、天王山に再び御旗を建られ、森と某に御先手を仰付らるべし、又長曾我部、後藤は大和口より責入り、宇治勢多の橋を切落し、石部を境にして陣を張り、伏見の城を攻落し、京師を燒拂ひ、先づ畿内西國の往還を差塞ぎなば、日本國の諸侍味方へ志あるは勿論、其外何れとも心を定めざる輩は、悉く馳參らんこと疑ひなしと、理を盡して申ければ、滿座皆之に同ぜり。獨り大野治長、眞田殿の申さるゝこと如何にも御尤もなれども、當城の事は日本第一の名城なり、恐くは日本國が寄來るとも、五年や十年にや兵糧は澤山なり、容易く落べきとは存ぜず、斯る名城に、一向に楯籠らせ給はんには、太閤厚恩の輩次第次第馳集るべし、兎角御出陣のこと然るべからずと言ふ。且つ源頼政、木曾義仲何れも宇治、勢田の橋を引き戰ひしが、皆利あらず、大不吉の例なり、然し勝べき理もあらば承はらんと言ふ。幸村、某山崎の例を言ひしは、小を以て大に向ふが故なり、又頼政、義仲の敗軍は去ることなれども、今其例を取るに足らず、今某が宇治、勢田を引くと言ふは、兵の利は先ずるを本とす。籠城は慥なる後詰なくば敵に氣を呑まれ、士卒退屈怠り自ら氣力衰へ、降參返り忠あるものなり、當時日本國を引受て、僅に二里に足らぬ此城を命に掛て楯籠らんに、誰かは馳參るべき様なし、且は又一戰に及ばず、むざ〳〵と初めより籠城せんこと言甲斐なく存ずるなりと再應申しゝかば、關東よりの間人小幡勘兵衞景憲、承久の事、新田楠木が故事を引き、宇治、勢田にて敗れしことを言て、幸村が策を阻す。治長及び、渡邊糺等景憲の言を信用し、幸村の策を用ひず、又重ねて軍議とて、何れも退出せり。幸村、後藤基次と秀頼公の御運は是までと、何れも討死の覺悟を究めたりとぞ。
新字:○大阪冬役、軍議の時、幸村東兵未だ半も上らざれば、幾内至て無勢なり、故に太閤、明智御誅伐の吉例に任せ、山崎表へ御人数を出され、天王山に再び御旗を建られ、森と某に御先手を仰付らるべし、又長曽我部、後藤は大和口より責入り、宇治勢多の橋を切落し、石部を境にして陣を張り、伏見の城を攻落し、京師を焼払ひ、先づ畿内西国の往還を差塞ぎなば、日本国の諸侍味方へ志あるは勿論、其外何れとも心を定めざる輩は、悉く馳参らんこと疑ひなしと、理を尽して申ければ、満座皆之に同ぜり。独り大野治長、真田殿の申さるゝこと如何にも御尤もなれども、当城の事は日本第一の名城なり、恐くは日本国が寄来るとも、五年や十年にや兵糧は沢山なり、容易く落べきとは存ぜず、斯る名城に、一向に楯籠らせ給はんには、太閤厚恩の輩次第次第馳集るべし、兎角御出陣のこと然るべからずと言ふ。且つ源頼政、木曽義仲何れも宇治、勢田の橋を引き戦ひしが、皆利あらず、大不吉の例なり、然し勝べき理もあらば承はらんと言ふ。幸村、某山崎の例を言ひしは、小を以て大に向ふが故なり、又頼政、義仲の敗軍は去ることなれども、今其例を取るに足らず、今某が宇治、勢田を引くと言ふは、兵の利は先ずるを本とす。籠城は慥なる後詰なくば敵に気を呑まれ、士卒退屈怠り自ら気力衰へ、降参返り忠あるものなり、当時日本国を引受て、僅に二里に足らぬ此城を命に掛て楯籠らんに、誰かは馳参るべき様なし、且は又一戦に及ばず、むざ〳〵と初めより籠城せんこと言甲斐なく存ずるなりと再応申しゝかば、関東よりの間人小幡勘兵衛景憲、承久の事、新田楠木が故事を引き、宇治、勢田にて敗れしことを言て、幸村が策を阻す。治長及び、渡辺糺等景憲の言を信用し、幸村の策を用ひず、又重ねて軍議とて、何れも退出せり。幸村、後藤基次と秀頼公の御運は是までと、何れも討死の覚悟を究めたりとぞ。
書き下し
○大阪冬役、軍議の時、幸村東兵未だ半も上らざれば、幾内至て無勢なり、故に太閤、明智御誅伐の吉例に任せ、山崎表へ御人數を出され、天王山に再び御旗を建られ、森と某に御先手を仰付らるべし、又長曾我部、後藤は大和口より責入り、宇治勢多の橋を切落し、石部を境にして陣を張り、伏見の城を攻落し、京師を燒拂ひ、先づ畿内西國の往還を差塞ぎなば、日本國の諸侍味方へ志あるは勿論、其外何れとも心を定めざる輩は、悉く馳參らんこと疑ひなしと、理を盡して申ければ、滿座皆之に同ぜり。獨り大野治長、眞田殿の申さるゝこと如何にも御尤もなれども、當城の事は日本第一の名城なり、恐くは日本國が寄來るとも、五年や十年にや兵糧は澤山なり、容易く落べきとは存ぜず、斯る名城に、一向に楯籠らせ給はんには、太閤厚恩の輩次第次第馳集るべし、兎角御出陣のこと然るべからずと言ふ。且つ源頼政、木曾義仲何れも宇治、勢田の橋を引き戰ひしが、皆利あらず、大不吉の例なり、然し勝べき理もあらば承はらんと言ふ。幸村、某山崎の例を言ひしは、小を以て大に向ふが故なり、又頼政、義仲の敗軍は去ることなれども、今其例を取るに足らず、今某が宇治、勢田を引くと言ふは、兵の利は先ずるを本とす。籠城は慥なる後詰なくば敵に氣を呑まれ、士卒退屈怠り自ら氣力衰へ、降參返り忠あるものなり、當時日本國を引受て、僅に二里に足らぬ此城を命に掛て楯籠らんに、誰かは馳參るべき様なし、且は又一戰に及ばず、むざ〳〵と初めより籠城せんこと言甲斐なく存ずるなりと再應申しゝかば、關東よりの間人小幡勘兵衞景憲、承久の事、新田楠木が故事を引き、宇治、勢田にて敗れしことを言て、幸村が策を阻す。治長及び、渡邊糺等景憲の言を信用し、幸村の策を用ひず、又重ねて軍議とて、何れも退出せり。幸村、後藤基次と秀頼公の御運は是までと、何れも討死の覺悟を究めたりとぞ。
現代語訳
大坂冬の陣の軍議の時、幸村は述べました。東軍の兵がまだ半分も上ってこないので、畿内はまことに無勢です。そこで太閤が明智を誅伐された吉例に倣い、山崎表へ軍勢を出し、天王山に再び御旗を立て、森(勝永)と私に先手を仰せ付けください。また長曽我部と後藤は大和口から攻め入り、宇治と瀬田の橋を切り落とし、石部を境にして陣を張り、伏見城を攻め落とし、京都を焼き払い、まず畿内と西国の往来を塞げば、日本中の侍で味方に志のある者はもちろん、そのほか心を決めかねている連中も、残らず馳せ参じることは疑いありません、と理を尽くして申し上げたので、満座の皆がこれに同意しました。ただ大野治長は、真田殿の申されることは、いかにももっともですが、当城は日本第一の名城です、おそらく日本国中が寄せて来ても、五年や十年は兵糧は沢山あります、容易く落ちるとは思えません、このような名城にひたすら立てこもっておられれば、太閤の厚恩を受けた者が次第に馳せ集まるでしょう、ともかく出陣はよろしくありません、と言いました。そのうえ、源頼政、木曽義仲はいずれも宇治、瀬田の橋を引いて戦いましたが、皆利を得ず、大変不吉な例です、しかし勝てる理由があるなら承りたい、と言いました。幸村は、私が山崎の例を言ったのは、小勢で大軍に向かうからです、また頼政、義仲の敗軍はその通りですが、いまその例を取るには足りません、いま私が宇治、瀬田の橋を引くと言うのは、兵の利は先んずるを本とするからです、籠城は確かな後詰めがなければ、敵に気を呑まれ、士卒は退屈し怠って自然と気力が衰え、降参や裏切りも出るものです、いま日本国を相手に、わずか二里に足りないこの城に命を懸けて立てこもったところで、誰が馳せ参じるでしょう、またその上、一戦にも及ばず、むざむざと初めから籠城するのは、言いがいがないと存じます、と重ねて申しました。関東からの間者、小幡勘兵衛景憲が、承久の事や新田、楠木の故事を引いて、宇治、瀬田で敗れたことを言い立て、幸村の策を阻みました。治長および渡辺糺らは景憲の言葉を信用し、幸村の策を用いず、また改めて軍議をとして、それぞれ退出しました。幸村は後藤基次と、秀頼公の御運はこれまでと、いずれも討ち死にの覚悟を定めたということです。
解説

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