名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸村 山伏姿の名刀
○大野治長宅へ、傳心月叟と曰ふ山伏來つて案内を乞ふ。奏者立出て、何方よりぞと問ふ。月叟手を束ね、大峯の山伏にて候が、御祈禱の卷數差上げ拜謁を願度と言ふ。奏者聞て殿には御登城にて御不在なり、此方へ通られよとて、番所の脇へ呼入れ、御歸宅の砌拜謁致され候へと待たせける所に、若侍十人計り集りて刀脇差の目利する、一人の若侍月叟に向ひ、貴殿の刀脇差見せられよと言ふ。月叟曰く、山伏の刀脇差は只犬喝しの爲めまでなれば、中々御目に掛くるものにては之なく候へ共、御慰み計りにとて差出す、若侍すらりと拔見れば、出來恰好は申すに及ばず、双の匂、金の光、兎角言ふべきにあらず、偖々見事なりと譽むる、外の若者山伏は良刀差したり、脇差も見せよとて拔見るに、又見事さ言ふべき様なし、去らば、中子を見たしとて銘を見れば、脇差は貞宗、刀は正宗とあり、皆怪み、唯者ならじと言ふ所に、治長城より歸る、玄關にて拜謁せられよと言ふ。奏者引具して出る、治長之を見、是は是はと計りにて月叟が前に來り、手を突き畏まり、近日御越あるべしとは承はりけれども、早速御出で滿足之に過ぎず候、早や御聞に達すべしとて、使者に書を持たせ城へ遣はし、月叟を書院にて馳走限りなし、城よりは速見甲斐守時之を使にて、遠方早速馳參りし條御滿足に思召れ候、旅宿不自由なるべしとて、黄金二百枚、銀三十貫目下さるゝとなり、治長が玄關の者、初めて眞田なるべしと心付しとなり。其後幸村、彼者に逢ひて、刀の目利は上りたるやと尋ねしかば、皆赤面せしとかや。
新字:○大野治長宅へ、伝心月叟と曰ふ山伏来つて案内を乞ふ。奏者立出て、何方よりぞと問ふ。月叟手を束ね、大峯の山伏にて候が、御祈祷の巻数差上げ拝謁を願度と言ふ。奏者聞て殿には御登城にて御不在なり、此方へ通られよとて、番所の脇へ呼入れ、御帰宅の砌拝謁致され候へと待たせける所に、若侍十人計り集りて刀脇差の目利する、一人の若侍月叟に向ひ、貴殿の刀脇差見せられよと言ふ。月叟曰く、山伏の刀脇差は只犬喝しの為めまでなれば、中々御目に掛くるものにては之なく候へ共、御慰み計りにとて差出す、若侍すらりと抜見れば、出来恰好は申すに及ばず、双の匂、金の光、兎角言ふべきにあらず、偖々見事なりと誉むる、外の若者山伏は良刀差したり、脇差も見せよとて抜見るに、又見事さ言ふべき様なし、去らば、中子を見たしとて銘を見れば、脇差は貞宗、刀は正宗とあり、皆怪み、唯者ならじと言ふ所に、治長城より帰る、玄関にて拝謁せられよと言ふ。奏者引具して出る、治長之を見、是は是はと計りにて月叟が前に来り、手を突き畏まり、近日御越あるべしとは承はりけれども、早速御出で満足之に過ぎず候、早や御聞に達すべしとて、使者に書を持たせ城へ遣はし、月叟を書院にて馳走限りなし、城よりは速見甲斐守時之を使にて、遠方早速馳参りし条御満足に思召れ候、旅宿不自由なるべしとて、黄金二百枚、銀三十貫目下さるゝとなり、治長が玄関の者、初めて真田なるべしと心付しとなり。其後幸村、彼者に逢ひて、刀の目利は上りたるやと尋ねしかば、皆赤面せしとかや。
書き下し
○大野治長宅へ、傳心月叟と曰ふ山伏來つて案内を乞ふ。奏者立出て、何方よりぞと問ふ。月叟手を束ね、大峯の山伏にて候が、御祈禱の卷數差上げ拜謁を願度と言ふ。奏者聞て殿には御登城にて御不在なり、此方へ通られよとて、番所の脇へ呼入れ、御歸宅の砌拜謁致され候へと待たせける所に、若侍十人計り集りて刀脇差の目利する、一人の若侍月叟に向ひ、貴殿の刀脇差見せられよと言ふ。月叟曰く、山伏の刀脇差は只犬喝しの爲めまでなれば、中々御目に掛くるものにては之なく候へ共、御慰み計りにとて差出す、若侍すらりと拔見れば、出來恰好は申すに及ばず、双の匂、金の光、兎角言ふべきにあらず、偖々見事なりと譽むる、外の若者山伏は良刀差したり、脇差も見せよとて拔見るに、又見事さ言ふべき様なし、去らば、中子を見たしとて銘を見れば、脇差は貞宗、刀は正宗とあり、皆怪み、唯者ならじと言ふ所に、治長城より歸る、玄關にて拜謁せられよと言ふ。奏者引具して出る、治長之を見、是は是はと計りにて月叟が前に來り、手を突き畏まり、近日御越あるべしとは承はりけれども、早速御出で滿足之に過ぎず候、早や御聞に達すべしとて、使者に書を持たせ城へ遣はし、月叟を書院にて馳走限りなし、城よりは速見甲斐守時之を使にて、遠方早速馳參りし條御滿足に思召れ候、旅宿不自由なるべしとて、黄金二百枚、銀三十貫目下さるゝとなり、治長が玄關の者、初めて眞田なるべしと心付しとなり。其後幸村、彼者に逢ひて、刀の目利は上りたるやと尋ねしかば、皆赤面せしとかや。
現代語訳
大野治長の屋敷に、伝心月叟という山伏が来て、案内を乞いました。取次ぎの者が出てきて、どちらからのお使いかと尋ねました。月叟は手を束ね、大峰の山伏でございますが、御祈禱の巻数を差し上げ、拝謁を願いたいと言いました。取次ぎは聞いて、殿は登城されてご不在です、こちらへお通りください、と言って、番所の脇へ呼び入れ、お帰りの折にご拝謁なさいと待たせました。そこに若侍が十人ばかり集まって刀や脇差の目利きをしており、一人の若侍が月叟に向かって、貴殿の刀と脇差をお見せなさいと言いました。月叟は、山伏の刀や脇差はただ人を脅すためのものですから、お目にかけるほどのものではございませんが、お慰みまでにと差し出しました。若侍がすらりと抜いて見ると、出来栄えや恰好は言うまでもなく、刃の匂い、金の光、あれこれ言うべきところなく、いやはや見事だと褒めました。他の若者も、山伏は良い刀を差している、脇差も見せよと抜いて見ると、これもまた見事さは言いようがありません。では中子を見たいと言って銘を見ると、脇差は貞宗、刀は正宗とあり、皆は怪しんで、ただ者ではあるまいと言いました。そのとき治長が城から帰り、玄関で拝謁なさいと言いました。取次ぎは月叟を連れ出し、治長はこれを見て、これはこれはとばかり言って月叟の前に来て、手をつき畏まり、近日お越しになるとは承っておりましたが、早速のお越しで満足この上ございませんと言い、早く申し上げようと使者に書を持たせて城に遣わし、月叟を書院で心を尽くしてもてなしました。城からは速見甲斐守時之を使いとして、遠方から早速参上されたので秀頼公はご満足なさり、旅宿は不自由であろうと、黄金二百枚、銀三十貫目を下されたということです。治長の玄関の者は、初めて真田であるかと気づいたということです。その後、幸村はその者たちに会い、刀の目利きは上達したかと尋ねたところ、皆赤面したということです。
解説

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