武備和訓 / 卷一・義士の志は金石よりも堅い
一忠孝の武士に、仁義の勇なきはすくなく、血氣之人にはかならず忠孝の道うすき事あり、柴田勝家の忠臣、免受莊助、中國尼子の忠臣、山中鹿之介、各〻絕世の義士なり、此兩人の輩は、皆陪臣にて官祿ともに賤しけれども、其節操を以、武人大に貴しとせり、又平相國淸盛の如き、其威武といひ榮名といひ、天下に雙ぶ人なかりしかど、彼を以て貴しとはせずして、却て、劇賊のごとくに惡めり、誠に爰を以ておもふべし、其道ある人と、道なき人との境を、一武士の志を以て金石に比るものはつたなし、それ金石は鎚にて碎くべし、義士の志は天下を以も碎くべからず、眞田左衞門尉幸村、秀賴にたのまれ城中にあり、大神君其叔父眞田隱岐守を以召すに、信濃國四十萬石を賜ふべしと也、幸村曰、祿重きにより約束を變ぜば、勇士にあらずとて、竟に不來、是其四十萬石よりも義は重さが故也、されば幸村の心底、忠孝に徹當して不遷、義は天下にも換じとのこゝろ、言中にふくめり、何ぞそれ四十萬石のみにあらんや、(忠孝に徹當するとは今城中に在事、其父安房守昌幸の志を繼ばなり、)
新字:一忠孝の武士に、仁義の勇なきはすくなく、血気之人にはかならず忠孝の道うすき事あり、柴田勝家の忠臣、免受荘助、中国尼子の忠臣、山中鹿之介、各〻絶世の義士なり、此両人の輩は、皆陪臣にて官禄ともに賤しけれども、其節操を以、武人大に貴しとせり、又平相国清盛の如き、其威武といひ栄名といひ、天下に双ぶ人なかりしかど、彼を以て貴しとはせずして、却て、劇賊のごとくに悪めり、誠に爰を以ておもふべし、其道ある人と、道なき人との境を、一武士の志を以て金石に比るものはつたなし、それ金石は鎚にて砕くべし、義士の志は天下を以も砕くべからず、真田左衛門尉幸村、秀頼にたのまれ城中にあり、大神君其叔父真田隠岐守を以召すに、信濃国四十万石を賜ふべしと也、幸村曰、禄重きにより約束を変ぜば、勇士にあらずとて、竟に不来、是其四十万石よりも義は重さが故也、されば幸村の心底、忠孝に徹当して不遷、義は天下にも換じとのこゝろ、言中にふくめり、何ぞそれ四十万石のみにあらんや、(忠孝に徹当するとは今城中に在事、其父安房守昌幸の志を継ばなり、)
書き下し
一忠孝の武士に、仁義の勇なきはすくなく、血氣之人にはかならず忠孝の道うすき事あり、柴田勝家の忠臣、免受莊助、中國尼子の忠臣、山中鹿之介、各〻絕世の義士なり、此兩人の輩は、皆陪臣にて官祿ともに賤しけれども、其節操を以、武人大に貴しとせり、又平相國淸盛の如き、其威武といひ榮名といひ、天下に雙ぶ人なかりしかど、彼を以て貴しとはせずして、却て、劇賊のごとくに惡めり、誠に爰を以ておもふべし、其道ある人と、道なき人との境を、一武士の志を以て金石に比るものはつたなし、それ金石は鎚にて碎くべし、義士の志は天下を以も碎くべからず、眞田左衞門尉幸村、秀賴にたのまれ城中にあり、大神君其叔父眞田隱岐守を以召すに、信濃國四十萬石を賜ふべしと也、幸村曰、祿重きにより約束を變ぜば、勇士にあらずとて、竟に不來、是其四十萬石よりも義は重さが故也、されば幸村の心底、忠孝に徹當して不遷、義は天下にも換じとのこゝろ、言中にふくめり、何ぞそれ四十萬石のみにあらんや、(忠孝に徹當するとは今城中に在事、其父安房守昌幸の志を繼ばなり、)
現代語訳
一つ、忠孝の武士に仁義の勇がないことは少なく、血気にはやる人にはかならず忠孝の道が薄いことがあります。柴田勝家の忠臣・免受荘助(毛受勝助)、中国(地方)の尼子の忠臣・山中鹿之介は、それぞれ世に並びない義士です。この二人は皆、陪臣(家来の家来)で、官禄もともに低いのですが、その節操によって、武人は大いに貴いとしました。また平相国清盛のような人は、その威武といい栄えある名といい、天下に並ぶ人がなかったのですが、彼を貴いとはせず、かえって大盗賊のように憎みました。まことに、ここからよく考えるべきです。道のある人と道のない人との境です。一人の武士の志を金や石にたとえるのは拙いことです。金や石は鎚で砕くことができますが、義士の志は天下をもってしても砕くことはできません。真田左衛門尉幸村は、秀頼に頼まれて城中におり、大神君(徳川家康)がその叔父の真田隠岐守を通して召し、信濃国四十万石を賜ると申し出ました。幸村は「禄が重いからと約束を変えるなら、勇士ではない」と言って、ついに来ませんでした。これは四十万石よりも義が重かったからです。ですから幸村の心の底は、忠孝に徹して移らず、義は天下にも換えがたいという心が、言葉の中に含まれています。どうして四十万石だけのことでしょうか。(忠孝に徹するとは、今、城中にいることが、父の安房守昌幸の志を継ぐことだからです。)
解説

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『武備和訓』・卷一・忠孝を忘れず、官禄で人を卑しめない一武士はかりそめにも、忠孝の二ッを忘るべからず候、此二ッのものに徹せざれば、節義に望んで其心危かるべし、鍔際に至りて心をひるがへすものは、武士にあらず、農工商の三家といふとも、主人となり、家人と成て、道を盡す事は、品こそかわれ、其こゝろばせにへだてはなし、唯義を重んじて節に死すると、死せざるとの差なれば、節義を失ひたる者を武門に入ざるは、道の至極にあらずや、武家に生れて誰かは義を見て勇なからん、折にふれ、時にしたがひて、人に後るゝ事あるは、心がけのうすき故なるべし、村上彦四郎義輝は、大塔宮の近臣にて、宮にしたがひ奉り、しば〱忠勇を勵す、宮すでに吉野の城を落させ給ふ時、御旗鎧をたまわり、みづから大塔宮と稱し、漢の紀信が忠烈をしたひ、堅陣をついて敵を挫き、御命にかはり、終に自殺す、誠に武士たる者、此人の擧動を聞くときは、あやしの中間小者に至るまで、涙を流して、其美操をかんぜずと云事なし、忝くも宮の御命に代り、御名をおかしたれば、是凡人にはあらず、武士たる者の目には、三公よりも貴かるべし、惣じて武門におゐては、官祿の高下を以てみだりに其人を卑むべからず、志によりて一刀の僕たりとも諸侯をも恥べからず、
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『武備和訓』・卷一・浪人でも心は富み、外を飾るな一武士たるべき者は、身は醢になり候とも、志は撓べからず候、當世は殊更浪人となりたる武士、多くは困み候やうに見え候、惣て祿に離れたる武士は貧きを以貴とし、富たるを以賤とすべし、乍然福貴貧賤の如きに目を付ざる人は、たとへ富とも、貧かるべきとも、是非の批判には及がたく候、當世には、唯上をかざる事を本とし、美服を好み、刀劔の類までも壯觀を事とし、主用を以次にする如き、心得ちがいの人々も有之樣子に相見え候、文武の心がけは、其家に生れて勿論なれども、其主意とする所少違ひ候へば、大に義に戻る事可有之候、先浪人は本より無產也、平生衣食に乏き筈の者なるに、却て衣食住の三ッを淸にして、外を飾るはくせものなり、多くは其心人倫に戻る事論ずべからず候、曾我祐成が兄弟の如きは、心忠孝に徹して、祐經を刺し、不戴倶天之讎を復せんとおもへる志の外に、毫毛も他の念慮なければ、微服潛行して恥とせず、常に心中仁義に富みて、爵祿榮貴を拙とし、和田義盛等が宴席につらなり、數十人の鼎士をも屑ともせざる事は、全く時宗祐成が色情にうつりて、遊俠のいたす處にあらず、兄弟仁義の勇者なれば、忠孝を以味方とするにより、何百騎をも難しとせざるものなり、祐成が虎女に戲れ、大石良雄が浮橋(伏見之里の傾城也)に通ひし、皆是仁義の忠略なり、方に其間惡衣惡食の艱難、狀をもつて禽獸に比すといへども、心は天下に富めり、武人必心を淸潔にして、形はいやしかるべし、子夏の垂鶉とて、衣のやぶれたるをつゞりたるありさま、鶉の彪のごとし、子夏常に此鶉衣を着し給へども、哲人にてましませり、子路は弊れさけたる衣を着して、聖門の勇者たり、內に忠信だにあらば、外は禽獸にたくゐすともさらに辱べからず、
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『武備和訓』・卷一・仁義の徳なき武士は人心を失う一武士といへば、三民おの〱剛きもの也と心得、平伏する心あるは、彼仁義の威光ある故也、然れば萬物の靈長たる人間、仁義の道に歸服する事いちじるければ、武士其德を失ざる事を、晝夜に思慮すべし、外にいか程刀劔弓鐵砲の類のごとき剛きものを飾り威すといふとも、內に仁義の德なくんば、自然と君に不忠の心を生じ、三民の爲に心を離さるべし、然るに至らぬ武士の上を見るに、天性我は武士也、無心なる事は君命をも用ひじ、三民本より人倫に遠しなど云て、我意をふるまひ、召仕の者にあらく、武の武たる事をしらず、唯物毎ぶこつにして、沈勇溫毅ならざる武士あり、かならず愼むべし、柔なる中よりならでは、剛き事も出ず、靜なる中よりならでは、速き事も出ず、仁より出ざる勇は、勇とするにたらず、されば君恩にあらざれば、一族從者をも養ふ事あたわず、百姓にあらざれば、衣食の本を生る事なし、工商にあらざれば、衣も家も製しがたし、君の爲ならざれば死を致さじ、三民は我を以父のごとくおもふべし、我は三民を以て子のごとくすべしと、覺悟して遷らざるものを、仁義とは云也、常に本心かくのごとくならば、君は深く我を愛し、三民は厚く我を敬ふべし、
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『武備和訓』・卷一・楠正成の遺書に学ぶ義の重さ一武士たらん者の鑑とせん事は、遠く外國の例をかるにも不及、總角の童子までもよく識たる事まのあたりに多かるべし、唯義を重んじて二心なき人を、本心の師範とすべし、先吾國千古より武家におゐては、其節操といひ、兵法と云、楠正成のごとき武士は、無之よしなれば、武家かならず心に用捨して、太平記の旨を熟察し、楠公の心を汲み、忠勇の篤義をさとるべし、後醍醐天皇、正成の忠諫を用ひ給はず、尊氏の威武勢大にして、天命武家に歸するをさつし、死をきはめられし時、子息正行におくらるゝの狀、今度隼人差下候事非餘之儀、我等最期近々と覺候、願者貴殿成長之器量、見屆度候得共、義之重處更難遁候、成人之後、我等心中可被察候、不備、正成五月 日楠莊五郎殿義者は仁義忠信を務て、天理の必然に死するといへり、誠に君の最期の書牒、義を激せる事言外に餘れり、誰かは感淚をおとさゞるべけんや、
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『武備和訓』・卷一・子どもには幼いころから義理と学問を教える一武士の子どもに總卷の比より義理を敎て、假にも利に聰からん事を禁むべし、天下にも換がたき義の一字なるに、同じ武士にて明智光秀がごとく、雪と墨とにかわる事は、是利を重むじて、義をかろんずるが故也、(利とは道なくしてみだりに人の國郡をかすむるごときの軍術などを習聞をいへり、武士軍學する事は勿論の事なれば、まづ王覇の論を尋聞て七書の義をきはめ、其後和軍を習ふべし、)君君の道を盡す時、臣臣の道を致す事は勿論なれば、忠とするに足らず、君道なき時、臣二心なきを以忠とはいふ也、光秀其性勇敢にして、誠少く、學問に志ざれば、仁義の道をしらず、僅十餘日の天下を貪りて、其名を禽獸に同ふしたり、吁慮べしや、かならず、武士の子たらん者には、利慾を戒め、學問して、仁義の勇を曉さすべき事、間斷あるべからず、
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『講孟余話』盡心上 第五章余足利末路の史を読む毎に、其の勇義の人多きに感じ、又其の君を見ること逆旅の主人の如く、其の大節大義に闕けたる人多きを哀しむ。余因りて当時勇義の士を分ちて二等とし、一は全節伝とし、山中鹿之助幸盛の如く、始終一主の為めにせし人を収め、一は一節伝と云ひて、後藤又兵衛基次の勇義と云へども、初め黒田に仕へ、又細川に仕へ、後遂に大坂城に入りて節を尽くす、此の類の人を収め、二伝を以て世禄の士を諷せんと欲す。未だ及ぶこと能はず。是れを源平の時にて言はば、斎藤別当実盛の如き、白髪を染めて北陸にて戦死せしは勇々しけれども、関東の旧臣にてありながら、義朝の没落に死すること能はずして叛きて平氏に事へたれば、一節の人なり。上総五郎忠光の如きは、平家滅亡の後八年まで其の志を変ぜず、利刃を懐にして頼朝を刺さんとせしは、事成らずと云へども、真に全節の人と云ふべし。是等の処学問思弁の入る所なり。郷里無学の一善人にては覚束なし。此の章本文已に明らかにして、朱註又尽くせり。故に姑く言外の余意を論ず。第六章