名将言行録 / 『名将言行録』後藤基次 負けても髻を払わず
孫兵衞某の子、又兵衞と稱す。元和元年五月六日戰死、年五十六。 ○黒田孝高豊前へ封ぜられたる時、所々に一揆起れり。孝高子、長政と共に大半打平げけれども、城井谷の宇都宮中務少輔鎭房一人從はず、孝高其剛兵なることを知て、固く長政を戒めて、城井谷を攻させず、然る處、天正十二年八月七日、長政手勢計りにて城井谷へ押掛け、散々に打負けて中津の城へ引取りたり。孝高大に怒りければ、長政迷惑して髻を拂ひ、寺へ引籠る。供せし人々皆髻を拂ひ逼塞す。然るに基次一人は髻をも拂はず、月代剃り立、中々何心なき體にて城へ出廻る。黒田惣兵衞密かに基次に向ひ、貴殿も髻を拂ひ蟄居然るべしと言ひければ、基次聞て、夫は何事に依てなりと言ふ。惣兵衞城井谷との一戰に負け給ふを口惜とて、長政君既に髻を拂ひ御引籠なり、之に依り下々殘らず髻を拂ひ蟄居致したるに、其方一人は何氣もなき體にて歩行廻らるゝ段、世の謗遁るべからずと言ふ。基次聞て、から〳〵と打笑ひ、凡そ負るも勝も軍の習なり、今負たらば、重ねての戰に勝つ樣にしてこそ然るべきに、一度負けたりとて、氣を屈すること士の器量と言はんや、軍に負ける度毎に、天窓を剃らば、髮の長きことは永代有間敷と言て、高笑せり、孝高之を聞き早々長政を免し、山居したる士共も殘らず呼び出せり。
新字:孫兵衛某の子、又兵衛と称す。元和元年五月六日戦死、年五十六。 ○黒田孝高豊前へ封ぜられたる時、所々に一揆起れり。孝高子、長政と共に大半打平げけれども、城井谷の宇都宮中務少輔鎮房一人従はず、孝高其剛兵なることを知て、固く長政を戒めて、城井谷を攻させず、然る処、天正十二年八月七日、長政手勢計りにて城井谷へ押掛け、散々に打負けて中津の城へ引取りたり。孝高大に怒りければ、長政迷惑して髻を払ひ、寺へ引籠る。供せし人々皆髻を払ひ逼塞す。然るに基次一人は髻をも払はず、月代剃り立、中々何心なき体にて城へ出廻る。黒田惣兵衛密かに基次に向ひ、貴殿も髻を払ひ蟄居然るべしと言ひければ、基次聞て、夫は何事に依てなりと言ふ。惣兵衛城井谷との一戦に負け給ふを口惜とて、長政君既に髻を払ひ御引籠なり、之に依り下々残らず髻を払ひ蟄居致したるに、其方一人は何気もなき体にて歩行廻らるゝ段、世の謗遁るべからずと言ふ。基次聞て、から〳〵と打笑ひ、凡そ負るも勝も軍の習なり、今負たらば、重ねての戦に勝つ様にしてこそ然るべきに、一度負けたりとて、気を屈すること士の器量と言はんや、軍に負ける度毎に、天窓を剃らば、髪の長きことは永代有間敷と言て、高笑せり、孝高之を聞き早々長政を免し、山居したる士共も残らず呼び出せり。
書き下し
孫兵衞某の子、又兵衞と稱す。元和元年五月六日戰死、年五十六。 ○黒田孝高豊前へ封ぜられたる時、所々に一揆起れり。孝高子、長政と共に大半打平げけれども、城井谷の宇都宮中務少輔鎭房一人從はず、孝高其剛兵なることを知て、固く長政を戒めて、城井谷を攻させず、然る處、天正十二年八月七日、長政手勢計りにて城井谷へ押掛け、散々に打負けて中津の城へ引取りたり。孝高大に怒りければ、長政迷惑して髻を拂ひ、寺へ引籠る。供せし人々皆髻を拂ひ逼塞す。然るに基次一人は髻をも拂はず、月代剃り立、中々何心なき體にて城へ出廻る。黒田惣兵衞密かに基次に向ひ、貴殿も髻を拂ひ蟄居然るべしと言ひければ、基次聞て、夫は何事に依てなりと言ふ。惣兵衞城井谷との一戰に負け給ふを口惜とて、長政君既に髻を拂ひ御引籠なり、之に依り下々殘らず髻を拂ひ蟄居致したるに、其方一人は何氣もなき體にて歩行廻らるゝ段、世の謗遁るべからずと言ふ。基次聞て、から〳〵と打笑ひ、凡そ負るも勝も軍の習なり、今負たらば、重ねての戰に勝つ樣にしてこそ然るべきに、一度負けたりとて、氣を屈すること士の器量と言はんや、軍に負ける度毎に、天窓を剃らば、髮の長きことは永代有間敷と言て、高笑せり、孝高之を聞き早々長政を免し、山居したる士共も殘らず呼び出せり。
現代語訳
孫兵衛某の子で、又兵衛と称しました。元和元年五月六日に戦死しました。年五十六。 ○黒田孝高が豊前に封ぜられたとき、所々で一揆が起こりました。孝高の子の長政と共に大半を平定しましたが、城井谷の宇都宮中務少輔鎮房一人だけは従いませんでした。孝高はその剛の兵であることを知っており、固く長政を戒めて城井谷を攻めさせませんでした。ところが天正十二年八月七日、長政は手勢ばかりで城井谷へ押しかけ、散々に打ち負けて中津の城へ引き取りました。孝高は大いに怒ったので、長政は迷惑して髻を払い、寺へ引き籠もりました。供をした人々も皆髻を払い、慎んで閉じこもりました。ところが基次一人は髻も払わず、月代を剃り立て、少しも気にかけないふうで城へ出入りしていました。黒田惣兵衛が密かに基次に向かって、貴殿も髻を払い、蟄居なさるのがよろしいと言ったところ、基次は聞いて、それは何のためですかと言いました。惣兵衛は、城井谷との一戦に負けたのを悔しがって、長政君がすでに髻を払ってお引き籠もりになっているので、下々は残らず髻を払って蟄居しているのに、あなた一人が何食わぬ様子で歩き回っているのは、世の謗りを免れません、と言いました。基次はこれを聞いて、からからと笑い、およそ負けるも勝つも戦の習いです。今負けたなら、次の戦で勝つようにしてこそよいのに、一度負けたといって気を屈することが、士の器量と言えましょうか。戦に負けるたびに頭を剃れば、髪の長いことは永遠にあるまいと言って、高笑いしました。孝高はこれを聞き、早々に長政を許し、山居していた士たちも残らず呼び出しました。
解説

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