名将言行録 / 『名将言行録』後藤基次 去った後の敵将の問い
○基次、黑田家を去りし時、隣國なる細川忠興、鳥銃二百に士を副へて迎ひしかば、長政大に怒り、旣に戰に及ぶべかりしを、江戸より和平せられ、基次を何國になりとも送られよとありしかば、忠興、基次を餞して酒宴あり、松井佐渡、有吉賴母並び居たりしに、忠興、我黑田の家と不和なれば、是より後の事計り難し、長政の軍立能知りたらん、如何にせば、擊勝つべきやと問ふ。基次曰く、兩方に加勢もなくて軍あらば國の大小と申し、必ず甲斐守擊勝なん、去れども容易く勝べき計一つあり、甲斐守は人に越えたる勇將にて、何つも先を掛らるゝなり。鳥銃に勝れたる士五十人許り撰みて鎗の合ふ頃、敵五人打取りなば、其中に必ず甲斐守あるべしと答へり。忠興さばかり長政を恨みて出奔せしに、今長政の武勇を譽揚つるぞかしと言て感歎せり。 ○基次、姫路に居る時、長政より討手出でたりと沙汰あり、又不審なる者、此中に見ゆると雖も。基次一向搆はず、出で歩行く。小舅三浦主水、討手出たりと言ふに、出歩行は如何と言ければ、基次曰く、此事は筑前にて常に甲斐守と詮議したることなり、罪人一人を討つには、一人毎に五六人づゝの積りにて然るべくと申したり、我等も下人二十人餘なれば、討手百人餘なければ、日頃の積りに合はず、其百人餘の討手何方に隱くし置申すべきや、討手出でたりと言ふは、虛喝なり、討手出たりと言ふに怖て、又兵衞めが猶出でゝはならずと言て出歩行けり。
新字:○基次、黒田家を去りし時、隣国なる細川忠興、鳥銃二百に士を副へて迎ひしかば、長政大に怒り、既に戦に及ぶべかりしを、江戸より和平せられ、基次を何国になりとも送られよとありしかば、忠興、基次を餞して酒宴あり、松井佐渡、有吉頼母並び居たりしに、忠興、我黒田の家と不和なれば、是より後の事計り難し、長政の軍立能知りたらん、如何にせば、撃勝つべきやと問ふ。基次曰く、両方に加勢もなくて軍あらば国の大小と申し、必ず甲斐守撃勝なん、去れども容易く勝べき計一つあり、甲斐守は人に越えたる勇将にて、何つも先を掛らるゝなり。鳥銃に勝れたる士五十人許り撰みて鎗の合ふ頃、敵五人打取りなば、其中に必ず甲斐守あるべしと答へり。忠興さばかり長政を恨みて出奔せしに、今長政の武勇を誉揚つるぞかしと言て感嘆せり。 ○基次、姫路に居る時、長政より討手出でたりと沙汰あり、又不審なる者、此中に見ゆると雖も。基次一向搆はず、出で歩行く。小舅三浦主水、討手出たりと言ふに、出歩行は如何と言ければ、基次曰く、此事は筑前にて常に甲斐守と詮議したることなり、罪人一人を討つには、一人毎に五六人づゝの積りにて然るべくと申したり、我等も下人二十人余なれば、討手百人余なければ、日頃の積りに合はず、其百人余の討手何方に隠くし置申すべきや、討手出でたりと言ふは、虚喝なり、討手出たりと言ふに怖て、又兵衛めが猶出でゝはならずと言て出歩行けり。
書き下し
○基次、黑田家を去りし時、隣國なる細川忠興、鳥銃二百に士を副へて迎ひしかば、長政大に怒り、旣に戰に及ぶべかりしを、江戸より和平せられ、基次を何國になりとも送られよとありしかば、忠興、基次を餞して酒宴あり、松井佐渡、有吉賴母並び居たりしに、忠興、我黑田の家と不和なれば、是より後の事計り難し、長政の軍立能知りたらん、如何にせば、擊勝つべきやと問ふ。基次曰く、兩方に加勢もなくて軍あらば國の大小と申し、必ず甲斐守擊勝なん、去れども容易く勝べき計一つあり、甲斐守は人に越えたる勇將にて、何つも先を掛らるゝなり。鳥銃に勝れたる士五十人許り撰みて鎗の合ふ頃、敵五人打取りなば、其中に必ず甲斐守あるべしと答へり。忠興さばかり長政を恨みて出奔せしに、今長政の武勇を譽揚つるぞかしと言て感歎せり。 ○基次、姫路に居る時、長政より討手出でたりと沙汰あり、又不審なる者、此中に見ゆると雖も。基次一向搆はず、出で歩行く。小舅三浦主水、討手出たりと言ふに、出歩行は如何と言ければ、基次曰く、此事は筑前にて常に甲斐守と詮議したることなり、罪人一人を討つには、一人毎に五六人づゝの積りにて然るべくと申したり、我等も下人二十人餘なれば、討手百人餘なければ、日頃の積りに合はず、其百人餘の討手何方に隱くし置申すべきや、討手出でたりと言ふは、虛喝なり、討手出たりと言ふに怖て、又兵衞めが猶出でゝはならずと言て出歩行けり。
現代語訳
基次が黒田家を去ったとき、隣国の細川忠興は鉄砲二百挺に士を添えて迎えたので、長政は大いに怒り、すでに戦に及ぶところでしたが、江戸から和平を命じられ、基次をどこの国にでも送り届けよとありましたので、忠興は基次に餞別して酒宴を開きました。松井佐渡、有吉頼母も並んでいたところで、忠興が言いました。我は黒田の家と不和であるから、これより後のことは計りがたい、長政の軍立てはよく知っているだろう、どうすれば撃ち勝てるか。基次は答えました。両方に加勢がなく戦えば、国の大小から見て、必ず甲斐守殿が撃ち勝つでしょう。ただし容易に勝てる計略が一つあります。甲斐守は人に越えた勇将で、いつも先に掛かられます。鉄砲に優れた士を五十人ほど選んで、槍の合う頃に敵を五人撃ち取れば、その中に必ず甲斐守がいるはずです、と答えました。忠興は、あれほど長政を恨んで出奔したのに、今、長政の武勇を褒めあげているではないかと言って感嘆しました。 基次が姫路にいたとき、長政から討手が出たという噂があり、また不審な者がこの中に見えましたが、基次は一向に構わず、出歩いていました。小舅の三浦主水が、討手が出たというのに出歩くのはどうかと言うと、基次は言いました。このことは筑前で常に甲斐守と議論したことで、罪人一人を討つには、一人につき五、六人ずつの見積もりが適当だと申しました。我らも下人が二十人余りなので、討手が百人余りいなければ日頃の見積もりに合いません。その百人余りの討手をどこに隠しておくというのか。討手が出たというのは、はったりである。討手が出たと言うのに怖じて、又兵衛め、なお出てはならぬと思って出歩く、と。
解説

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名将言行録・『名将言行録』後藤基次 恩に報いる死に方○此役、基次平野に陣す。家康及び、秀忠より相國寺揚西堂を使にて、平野へ遣はし、今度味方致し候はゞ播磨の國を賜はるべきとのことなり、基次承はり忝き次第身に餘りし間、御請申度こと山々なり、但し東方御手弱ならば兎も角もなれども、東方は朝日の出る如きの御勢、大阪は落城十日二十日に過ぐべからず、此節に臨みて心替はり致さんこと、武士の本意にあらず、其上去年より大阪の扶持を得て、別心は罷成らざる間、此段は御免し賜はるべしとて承引せず、少時して、是は御返事にては之なし、御使僧まで申達するなり、日本士多しと雖も、我等に勝れる者之なし、其仔細は、去年より賴まれ奉りたる御主は、誰かと存ずれば、唐まで御手を延されたる豐國大明神の御子秀賴公なり、又今度御味方致しなば、大國賜はるべくと仰下されしは、神の位に等しき駿河江戶の兩御所なり、去りながら右にも申す通、御馴染なれば秀賴公の御手を引申べきなり、但し兩御所の忝き御意は水には致さず、其御恩報には戰始まりなば、一日も早く討死致すべし、其譯は基次存命ならば、一日にも落べき大阪十日掛り申べく、又我等討死致しなば、十日掛る大阪も一日に落申べし、之を恩報に致すべくと言ひしかば、聞く者涙に咽びたり。果して戰始まると基次討死す、爰を以て兩將軍にも殊の外感稱せられたり。後秀忠、黑田長政を召し後藤又兵衞は忠節者なれば、子供を免し候へとのことなり、長政畏り、假令又兵衞罷在るとも免し申べきに、死後を申し、如何にも御請申上たる由答申たり。嫡子、隱岐守は、大阪役後切腹、次男又市は細川忠興に仕へ、末子は三浦次兵衞と名乘り、松平光伸に仕ふと云ふ。
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