名将言行録 / 『名将言行録』後藤基次 毛利を見抜いた理由
○此役、南宮山に陣を取りたる勢を見て、敵か味方かと詮議の時、基次來りければ、敵か味方かと先程より詮議のあることとなり、御邊は如何思はると問ければ、基次敵なりと答ふ。誰ぞと問へば、毛利なりと答ふ。敵と見、毛利と見らるゝことは何を以てなりと問ふ。基次曰く、毛利家とは朝鮮にて、七年まで一所に居て陣の取り樣、具に知りたり、山どりの高きを好むは毛利の風なり、聊か違ふべからずと答けるが、果して然り。 ○此役、基次長政に從つて、福島正則の備に行き、備の善惡色々利口を申す。正則氣に合はず、彼は何者にて候ふやと問ければ、長政我等家中の後藤又兵衞と申す者なりと答ふ。頓て合戰始まりければ、早く首を取て歸る。爰に於て正則機嫌直り、先の後藤が、箇樣の勇士なればこそ、先にも利口を言けるとて譽けるとなり。
新字:○此役、南宮山に陣を取りたる勢を見て、敵か味方かと詮議の時、基次来りければ、敵か味方かと先程より詮議のあることとなり、御辺は如何思はると問ければ、基次敵なりと答ふ。誰ぞと問へば、毛利なりと答ふ。敵と見、毛利と見らるゝことは何を以てなりと問ふ。基次曰く、毛利家とは朝鮮にて、七年まで一所に居て陣の取り様、具に知りたり、山どりの高きを好むは毛利の風なり、聊か違ふべからずと答けるが、果して然り。 ○此役、基次長政に従つて、福島正則の備に行き、備の善悪色々利口を申す。正則気に合はず、彼は何者にて候ふやと問ければ、長政我等家中の後藤又兵衛と申す者なりと答ふ。頓て合戦始まりければ、早く首を取て帰る。爰に於て正則機嫌直り、先の後藤が、箇様の勇士なればこそ、先にも利口を言けるとて誉けるとなり。
書き下し
○此役、南宮山に陣を取りたる勢を見て、敵か味方かと詮議の時、基次來りければ、敵か味方かと先程より詮議のあることとなり、御邊は如何思はると問ければ、基次敵なりと答ふ。誰ぞと問へば、毛利なりと答ふ。敵と見、毛利と見らるゝことは何を以てなりと問ふ。基次曰く、毛利家とは朝鮮にて、七年まで一所に居て陣の取り樣、具に知りたり、山どりの高きを好むは毛利の風なり、聊か違ふべからずと答けるが、果して然り。 ○此役、基次長政に從つて、福島正則の備に行き、備の善惡色々利口を申す。正則氣に合はず、彼は何者にて候ふやと問ければ、長政我等家中の後藤又兵衞と申す者なりと答ふ。頓て合戰始まりければ、早く首を取て歸る。爰に於て正則機嫌直り、先の後藤が、箇樣の勇士なればこそ、先にも利口を言けるとて譽けるとなり。
現代語訳
この戦で、南宮山に陣を取った軍勢を見て、敵か味方かと議論していたとき、基次が来ましたので、敵か味方かと先ほどから議論していることだ、御辺はどう思うかと尋ねました。基次は敵だと答えました。誰かと問うと、毛利だと答えます。敵と見、毛利と見るのは何によってかと問うと、基次は言いました。毛利家とは朝鮮で七年まで一所におり、陣の取り方を詳しく知っております。山取りの高いところを好むのは毛利の風です。少しも違うはずはありません、と答えましたが、はたしてその通りでした。 この戦で、基次は長政に従って福島正則の備えに行き、備えの善し悪しについて、いろいろ口を出しました。正則は気に入らず、あの者は何者かと尋ねたので、長政は、私の家中の後藤又兵衛という者ですと答えました。やがて合戦が始まると、基次は素早く首を取って帰りました。ここにおいて正則は機嫌を直し、先ほどの後藤がこのような勇士だからこそ、先に口を出したのだと言って褒めたということです。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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