名将言行録 / 『名将言行録』藤堂高虎 旧恩を忘れぬ人柄
○高虎人となり、忠厚故舊に篤し、肥後の國除せらるゝや、高虎、清正の好みを念ひ、京師本國寺に清正の位牌あり、然れども祭る者なし、高虎爲めに茶園を宇治に置き、以て其供に給し、歲貢今に至り絶せず。 ○高虎、初め織田七兵衞信澄に仕へ、八十石賜はり保侶役を勤めり、後去て秀吉に仕へ、家を起したり。信澄の子蘆尾庄九郎昌隆と稱し、落魄して居たりしを、高虎之を德川家に薦め、終に廕下と爲し、織田主水信重と改め、二千石を賜はらせぬ。人皆高虎の舊を忘れざるを稱せり。 ○高虎、嘗て黑田長政と隙あり、客あり長政を誹謗す、高虎色を變じ、某彼と惡しゝ、其臧否口を絶て言はず、子が意彼を詆られれば、則ち我嘉ばんと思はるゝやと言ければ、客之を謝せり。 ○高虎、德川三代の恩遇日に加はり、燕居に召さるゝこと、月として之なきはなし。高虎の邸に臨宴せられしこと歲率ね一再、凡そ駕を諸大名の邸に枉らるゝことあれば必ず召し、宴に陪せしめらる。元旦、饗宴、猪日、試樂及び玄猪會、皆毎に宗藩に伴し、永く恩例となれり。劔馬金帛及び、諸寶器の如き、恩賜頻繁最も勝て計ふべからず、未だ嘗て功に伐らず、大阪の事平らぎ、益封を賜ふ。僧天海來り賀し、竊に其薄きを歎ず、高虎色を正して曰く、天下の爲めに力を効す、固より其職分なり、豈に敢て報を望まんや、功を以て利と爲すこと、吾が聞く所にあらざるなりと。
新字:○高虎人となり、忠厚故旧に篤し、肥後の国除せらるゝや、高虎、清正の好みを念ひ、京師本国寺に清正の位牌あり、然れども祭る者なし、高虎為めに茶園を宇治に置き、以て其供に給し、歳貢今に至り絶せず。 ○高虎、初め織田七兵衛信澄に仕へ、八十石賜はり保侶役を勤めり、後去て秀吉に仕へ、家を起したり。信澄の子蘆尾庄九郎昌隆と称し、落魄して居たりしを、高虎之を徳川家に薦め、終に廕下と為し、織田主水信重と改め、二千石を賜はらせぬ。人皆高虎の旧を忘れざるを称せり。 ○高虎、嘗て黒田長政と隙あり、客あり長政を誹謗す、高虎色を変じ、某彼と悪しゝ、其臧否口を絶て言はず、子が意彼を詆られれば、則ち我嘉ばんと思はるゝやと言ければ、客之を謝せり。 ○高虎、徳川三代の恩遇日に加はり、燕居に召さるゝこと、月として之なきはなし。高虎の邸に臨宴せられしこと歳率ね一再、凡そ駕を諸大名の邸に枉らるゝことあれば必ず召し、宴に陪せしめらる。元旦、饗宴、猪日、試楽及び玄猪会、皆毎に宗藩に伴し、永く恩例となれり。剣馬金帛及び、諸宝器の如き、恩賜頻繁最も勝て計ふべからず、未だ嘗て功に伐らず、大阪の事平らぎ、益封を賜ふ。僧天海来り賀し、窃に其薄きを嘆ず、高虎色を正して曰く、天下の為めに力を効す、固より其職分なり、豈に敢て報を望まんや、功を以て利と為すこと、吾が聞く所にあらざるなりと。
書き下し
○高虎人となり、忠厚故舊に篤し、肥後の國除せらるゝや、高虎、清正の好みを念ひ、京師本國寺に清正の位牌あり、然れども祭る者なし、高虎爲めに茶園を宇治に置き、以て其供に給し、歲貢今に至り絶せず。 ○高虎、初め織田七兵衞信澄に仕へ、八十石賜はり保侶役を勤めり、後去て秀吉に仕へ、家を起したり。信澄の子蘆尾庄九郎昌隆と稱し、落魄して居たりしを、高虎之を德川家に薦め、終に廕下と爲し、織田主水信重と改め、二千石を賜はらせぬ。人皆高虎の舊を忘れざるを稱せり。 ○高虎、嘗て黑田長政と隙あり、客あり長政を誹謗す、高虎色を變じ、某彼と惡しゝ、其臧否口を絶て言はず、子が意彼を詆られれば、則ち我嘉ばんと思はるゝやと言ければ、客之を謝せり。 ○高虎、德川三代の恩遇日に加はり、燕居に召さるゝこと、月として之なきはなし。高虎の邸に臨宴せられしこと歲率ね一再、凡そ駕を諸大名の邸に枉らるゝことあれば必ず召し、宴に陪せしめらる。元旦、饗宴、猪日、試樂及び玄猪會、皆毎に宗藩に伴し、永く恩例となれり。劔馬金帛及び、諸寶器の如き、恩賜頻繁最も勝て計ふべからず、未だ嘗て功に伐らず、大阪の事平らぎ、益封を賜ふ。僧天海來り賀し、竊に其薄きを歎ず、高虎色を正して曰く、天下の爲めに力を効す、固より其職分なり、豈に敢て報を望まんや、功を以て利と爲すこと、吾が聞く所にあらざるなりと。
現代語訳
○高虎の人となりは忠実で人情に厚く、旧知に篤い人でした。肥後の国が取り上げられたとき、高虎は清正との親しみを思い、京都の本国寺に清正の位牌があるのに祭る者がいないので、高虎はそのために宇治に茶園を置いて供養の費用を賄わせ、年貢は今に至るまで絶えていないということです。 ○高虎は初め織田七兵衛信澄に仕え、八十石を賜って保侶役を務めました。後に去って秀吉に仕え、家を起こしました。信澄の子は蘆尾庄九郎昌隆と称し、落ちぶれて暮らしていたのを、高虎が徳川家に推薦し、ついに家臣とし、織田主水信重と改めて二千石を賜わせました。人々は皆、高虎が旧恩を忘れないことを称えました。 ○高虎は以前、黒田長政と仲たがいをしていました。ある客が長政を悪く言いました。高虎は顔色を変え、私は彼と仲が悪いが、その善し悪しについては口に出さない。あなたの考えでは、彼をそしれば私が喜ぶと思われたのか、と言ったので、客は謝りました。 ○高虎は徳川三代から日ごとに厚い恩遇を受け、くつろぎの席に召されない月はありませんでした。高虎の屋敷に臨んで宴をされることは、年におおむね一、二度、大名の屋敷にお出ましになるときには必ず召されて宴に陪席しました。元旦、饗宴、猪の日、試楽、玄猪の会など、いつも宗藩とともに伴うことが、永く恩例となりました。剣、馬、金、絹、諸々の宝器などの下賜は頻繁で、数えきれないほどでしたが、功を誇ることは一度もありませんでした。大坂のことが平らぎ、加増を賜りました。僧の天海が来て祝い、ひそかにその少なさを嘆きました。高虎は顔色を改めて言いました。天下のために力を尽くすのは、もとよりその職分である。どうして報いを望もうか。功をもって利とすることは、私の聞くところではない、と。
解説

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