名将言行録 / 『名将言行録』藤堂高虎 高虎の若き日
源助虎高の子、與右衞門と稱す。後從四位下に叙し、左近衞少將兼和泉守に任ず。伊賀及び伊勢半國三十二萬九百五十石に封ぜられ、安濃津城に住す。寬永七年十月五日卒。年七十五。 ○高虎生れて魁偉哺乳人を兼ぬ。之に依り乳母數人を置けり。八九歳の頃、幾んど成人の如し、勇力豪强士氣壯武なり、父虎高之を奇なりとして曰く、吾家を興さん者は、必ず此兒ならんと。高虎十三歲の時、小谷の賊臣命を抗し家に匿れし者あり、虎高之を誅せんとし、長子高則と共に往く、高虎も共に行んと請ひしかども、虎高許さず、依て母に請て父の副刀を取り、潜に赴て其後徑に伏せり。賊果して垣を踰て走らんとす、高虎躍出で之を斬る。虎高大に之を感じ、己が名を反覆して、之に名づけ、高虎と曰ふ。 ○高虎山本嘉助と爭論し、之を斬殺し、淺井家を立退く。所の者高虎を追ふ、時に高虎大紋の羽織を着せり、追手の物の物色するを慮り羽織を裏返しに着せり。果して追手の者大紋の羽織着たる人は通り申さゞるやと尋ねければ、茶無紋の羽織着たる人計り通り候と答へし故、偖は山道ならんとて、慕ひし者引返せり。夫故高虎靜かに退き課せたり。時に年十七。
新字:源助虎高の子、与右衛門と称す。後従四位下に叙し、左近衛少将兼和泉守に任ず。伊賀及び伊勢半国三十二万九百五十石に封ぜられ、安濃津城に住す。寛永七年十月五日卒。年七十五。 ○高虎生れて魁偉哺乳人を兼ぬ。之に依り乳母数人を置けり。八九歳の頃、幾んど成人の如し、勇力豪強士気壮武なり、父虎高之を奇なりとして曰く、吾家を興さん者は、必ず此児ならんと。高虎十三歳の時、小谷の賊臣命を抗し家に匿れし者あり、虎高之を誅せんとし、長子高則と共に往く、高虎も共に行んと請ひしかども、虎高許さず、依て母に請て父の副刀を取り、潜に赴て其後径に伏せり。賊果して垣を踰て走らんとす、高虎躍出で之を斬る。虎高大に之を感じ、己が名を反覆して、之に名づけ、高虎と曰ふ。 ○高虎山本嘉助と争論し、之を斬殺し、浅井家を立退く。所の者高虎を追ふ、時に高虎大紋の羽織を着せり、追手の物の物色するを慮り羽織を裏返しに着せり。果して追手の者大紋の羽織着たる人は通り申さゞるやと尋ねければ、茶無紋の羽織着たる人計り通り候と答へし故、偖は山道ならんとて、慕ひし者引返せり。夫故高虎静かに退き課せたり。時に年十七。
書き下し
源助虎高の子、與右衞門と稱す。後從四位下に叙し、左近衞少將兼和泉守に任ず。伊賀及び伊勢半國三十二萬九百五十石に封ぜられ、安濃津城に住す。寬永七年十月五日卒。年七十五。 ○高虎生れて魁偉哺乳人を兼ぬ。之に依り乳母數人を置けり。八九歳の頃、幾んど成人の如し、勇力豪强士氣壯武なり、父虎高之を奇なりとして曰く、吾家を興さん者は、必ず此兒ならんと。高虎十三歲の時、小谷の賊臣命を抗し家に匿れし者あり、虎高之を誅せんとし、長子高則と共に往く、高虎も共に行んと請ひしかども、虎高許さず、依て母に請て父の副刀を取り、潜に赴て其後徑に伏せり。賊果して垣を踰て走らんとす、高虎躍出で之を斬る。虎高大に之を感じ、己が名を反覆して、之に名づけ、高虎と曰ふ。 ○高虎山本嘉助と爭論し、之を斬殺し、淺井家を立退く。所の者高虎を追ふ、時に高虎大紋の羽織を着せり、追手の物の物色するを慮り羽織を裏返しに着せり。果して追手の者大紋の羽織着たる人は通り申さゞるやと尋ねければ、茶無紋の羽織着たる人計り通り候と答へし故、偖は山道ならんとて、慕ひし者引返せり。夫故高虎靜かに退き課せたり。時に年十七。
現代語訳
源助虎高の子で、与右衛門と称しました。後に従四位下に叙され、左近衛少将兼和泉守に任ぜられました。伊賀及び伊勢の半国三十二万九百五十石に封ぜられ、安濃津城に住みました。寛永七年十月五日に亡くなりました。年七十五。 ○高虎は生まれつき体が大きく、乳母を数人つけたほどでした。八、九歳の頃にはほとんど大人のようで、勇力にすぐれ気性が強く、士気が盛んでした。父の虎高はこれを不思議な子だとして、わが家を興す者は必ずこの子だろうと言いました。高虎が十三歳のとき、小谷の賊臣が命令に逆らい、家に隠れていました。虎高はこれを誅しようとし、長子の高則と共に行きました。高虎も共に行きたいと願いましたが、虎高は許しませんでした。そこで母に頼んで父の脇差を取り、ひそかに赴いて、その後ろの小道に伏せていました。賊は案のじょう垣を越えて走り出そうとし、高虎は躍り出てこれを斬りました。虎高は大いにこれに感心し、自分の名を反転させて高虎と名づけました。 ○高虎は山本嘉助と争論して斬り殺し、浅井家を立ち退きました。その土地の者が高虎を追いました。そのとき高虎は大紋の羽織を着ていましたが、追手の者に探されることを恐れ、羽織を裏返しに着ました。はたして追手の者が、大紋の羽織を着た人は通りませんでしたかと尋ねたところ、紋のない茶色の羽織を着た人だけが通りましたと答えたので、それでは山道だろうと追手は引き返しました。そのため高虎は静かに退き去りました。このとき年十七。
解説

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名将言行録・『名将言行録』藤堂高虎 領国経営と首の扱い○十三年、高虎、伊賀に轉封し、伊勢半國を併せ領す。九月封に就き伊勢津の城に居り、城池を修し、道橋を治め、郊野を經し、疆圉を固くし、本を惇し末を抑へ、民をして方を知らしめ、制令簡明封內悅服せり。津城五年庚子の兵燹に罹り、市井蕭索五百戶に滿たず、依て帑金を給し移る者に資す、數年の間商賈輻輳し、遂に大都會となる。上野は地僻にして街市利少く、城外に曠野あり、高虎命じ開墾せしめ永く貢稅を免ぜり。是に於て農商並び務め、亦富庶を致せり。 ○大阪の役前田利常、北川久兵衞を以て高虎方へ申越すことあり、久兵衞高虎の陣に來り、用事相濟み立歸らんとする時、早や合戰始まりければ、其場にて拔軍の高名し、首を高虎に見せたり。高虎其首は前田殿への土產にせらるべしと言ふ。北川卽ち首を提げ歸り、利常の實檢に入る。他の手にての働故、差したる賞美もなし、高虎彼れ功の入りたる者ならば、首を當手の首數に入られ候へと言て、態と捨置て歸るべし、左あればとて、彼が高名を見ながら、其分に捨置くべきにあらず、久兵衞が働を印に副へて申送らでは叶はず、然らば彼が働證據分明にして利常も賞すべし、彼が高名の印を此方に留置くべき謂はれなき故、持參せよと言たれば、其儘持歸りたるは殘念のことなりと言ひしが、果して然り。
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名将言行録・『名将言行録』藤堂高虎 高虎の先鋒○天平九年、高虎、羽柴秀長に從て、但馬の土寇を伐し時、高虎家臣、居相政貞と共に夜忍び往て賊壘を覘ふ。遞卒物音を聞き、籬を隔てゝ、鎗にて突きしに、高虎、股に傷けり。高虎傷つきながら、靜に衣袖を以て拭ひし故、血付かず、賊其鋒に血付かざるを見て、人にあらずと思ひ去れり。高虎遂に壘に入り巡視して歸らんとせし時、賊二人刀を舞はし追尾す。高虎政貞と共に、其賊を斬り左右に首を提て歸れり。 ○西海の役、島津家久歩騎一萬五千を以て、宮部繼潤を目白の砦に攻ること急なり。秀長の營と一里計りを隔てり、秀長之を聞き、赴き援はんとす、護軍尾藤左衞門尉知定固く之を止む、高虎先鋒に在り、奮て、寡は衆に敵せずと雖も、前軍の敗を座視せば何を以て人に見えんやと言て、其兵數百人を引具し、直ちに圍を潰て營に入る。行々大呼して曰く、大和大納言の大軍、今將に來らんとす、其先鋒藤堂與右衞門先づ至ると、高虎身長け六尺二寸唐冠樣の大兜鍪を蒙り叱咤風生じ、敵軍披靡せり。遂に纖潤を激し、門を開き突出づ、衆皆殊死戰す、黑田孝高、小早川隆景等繼ぎ至り、夾みて之を擊つ、家久敗れ身を挺して逃れり。是日高虎なかりせば、幾んど殆し、纖潤深く再造の恩を謝し、具に其狀を具上す。秀吉其豪武神速を稱す。役畢つて後、正五位佐渡守に爲されたり。
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名将言行録・『名将言行録』藤堂高虎 殉死と国替えの遺言○高虎、一つの箱を造りて書院に置き、領國伊賀、伊勢の士殉死せんと欲する者は、姓名を記して、此箱の中に入れよと言ければ簡を箱の中に入る者四十餘人あり。其後駿府にても、亦斯の如くするに三十餘人あり、高虎此簡を以て登城し、某が家人皆簡様に候、是某が子孫の代までも御先を承はらん時、御用に立つ者なり、願くは、上意を以て差止め候はんとて、家康の一覽に備へ、偕宿所に歸て斯く思ひ入れたる上は、殉死も同事なり、徳川公の嚴命背き難し、必ず思止まれと堅く制しけるに、一人右の腕に手に負て不具なる者あり、斯の如くなる身に候間、某は別儀を以て御免を蒙るべしと申す。家康聞かれ和泉は我世々の先手なり、下知に忤て強て殉殺せんと言はゞ、和泉が先手を取上ぐべしと言はれければ、彼者此上はとて止まりぬ。或時高虎、家康の座せられし所の障子を隔て土井利勝に對して曰く、我年老ぬ。我死せば我子大學頭高次、不肖なり、大事の地なれば、速かに國替を仰付られて然るべくとぞ語りける。利勝則ち言上す。家康、高虎を召て、其故を尋ねらる。高虎曰く、伊賀は上國にて然も國人勇氣あり、舟に乘て大和川を下れば、夜中に人知らずして大阪に到る。伊勢は近江、山城に鄰りて、是又大阪に師を出すに便ある地なり。斯る國を不肖の子に傳へ候はんこと、心許なく候、上意を承はりて死せば安堵仕るべしとて、國の繪圖を出しけるを、家康具に見られて、是他人を封ぜん國にあらず、彼の殉死せんと言ひし二心なき者共に守らせば、何ぞ思を勞することあらん、代々伊賀を易ゆべからずと言はれけるとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』藤堂高虎 旧恩を忘れぬ人柄○高虎人となり、忠厚故舊に篤し、肥後の國除せらるゝや、高虎、清正の好みを念ひ、京師本國寺に清正の位牌あり、然れども祭る者なし、高虎爲めに茶園を宇治に置き、以て其供に給し、歲貢今に至り絶せず。 ○高虎、初め織田七兵衞信澄に仕へ、八十石賜はり保侶役を勤めり、後去て秀吉に仕へ、家を起したり。信澄の子蘆尾庄九郎昌隆と稱し、落魄して居たりしを、高虎之を德川家に薦め、終に廕下と爲し、織田主水信重と改め、二千石を賜はらせぬ。人皆高虎の舊を忘れざるを稱せり。 ○高虎、嘗て黑田長政と隙あり、客あり長政を誹謗す、高虎色を變じ、某彼と惡しゝ、其臧否口を絶て言はず、子が意彼を詆られれば、則ち我嘉ばんと思はるゝやと言ければ、客之を謝せり。 ○高虎、德川三代の恩遇日に加はり、燕居に召さるゝこと、月として之なきはなし。高虎の邸に臨宴せられしこと歲率ね一再、凡そ駕を諸大名の邸に枉らるゝことあれば必ず召し、宴に陪せしめらる。元旦、饗宴、猪日、試樂及び玄猪會、皆毎に宗藩に伴し、永く恩例となれり。劔馬金帛及び、諸寶器の如き、恩賜頻繁最も勝て計ふべからず、未だ嘗て功に伐らず、大阪の事平らぎ、益封を賜ふ。僧天海來り賀し、竊に其薄きを歎ず、高虎色を正して曰く、天下の爲めに力を効す、固より其職分なり、豈に敢て報を望まんや、功を以て利と爲すこと、吾が聞く所にあらざるなりと。
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名将言行録・『名将言行録』藤堂高虎 敵将の助言と人材登用○石田三成、虜となる。高虎對面し、舊好のことゞもを語り、武士は相互ひなり、是非なきことゝ、懃懃に挨拶し、儲今度擒者備味方より見ては見え難し、敵方より見給ひて如何と思はるゝことあらば、古の好もあれば告げ給へ、後日の益あらんことを願ふ所なりと言ふ。三成、左言はるゝ上は、言を殘すべきにあらず、先手の鐵砲頭、働小身に見えたり、小身と大身と、働格別なるものなり、今度の働小身に見えて如何なり、自今以後大身にせられなば可ならんか、此外に申べきことなしと言ふ。是より高虎鐵砲頭を千石高にせり。 ○高虎、渡邊勘兵衞了を二萬石にて抱えたり。加藤嘉明之を聞き、和泉はむさとしたることをするもの哉、我ならば二萬石にて二百石取る待を百人抱ゆべし、如何に勘兵衞鬼神なりとも、侍百人向ひたらんには、微塵になるべしと言ふ、高虎之を聞て、左馬は何ぞ不智なることを言ふもの哉、平侍二百や三百堅めたる所は、人が踏破て通るべく、爰は勘兵衞が堅めたりと言ば、敵の肝を冷し、利ありと言はれけり。 ○高虎、家康の爲めに諸大名をして家室を致し、質と爲さしめんと欲し、先づ我より始め、天下の首唱となる。爰に於て諸大名皆家を攜へ江戸に至り、永く泰平の基を固くせり。
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名将言行録・『名将言行録』藤堂高虎 高虎の即日出立○慶長三年秀吉薨去に付、在韓の諸將歸朝致すべくの所、明の授兵に喰留められ、進退難儀に及ぶ由、聞えければ、大切の場合故、家康自身渡海致さるべくと言はれけれども、左にては內亂起り申べきとのことにて、前田利家達つて留められしに付、去らばとて諸將の內を撰ばるゝに、高虎、智勇才略其任に當りしとて、秀吉の遺命を奉じて、卽日首途す、是日暮に及びて、家康高虎へ、足下近日出帆たるべし、談し殘したることあり、今日か明朝の中來らるべしと申遣はさる。使の士高虎の邸に至り、是を達す、留守の臣高虎貴館より退き、急に行裝を爲し今日旣に出立すと答ふ。家康之を聞き大に感賞し、彼佐渡守は與右衞門と云へる微者なりしが、太閤の登用に預りて、漸々昇進したる者なれば、尋常の者にあらず、年壯の者は斯の如き手段を聞覺えて、後の龜鑑と爲すべしと、昵近の士に語られしとぞ。 ○四年、高虎、舊主秀長の爲めに、郡山の大光院を京都大德寺中に遷し建て、香花料を寄附し祀を修めり、是大和家亡て衰廢せしに依てなり、家康、其義擧を嘉みし、亦爲めに給せられし所あり。高虎上京せば、必ず參詣し、歲時家臣をして、追薦を致さしめり。