名将言行録 / 『名将言行録』藤堂高虎 領国経営と首の扱い
○十三年、高虎、伊賀に轉封し、伊勢半國を併せ領す。九月封に就き伊勢津の城に居り、城池を修し、道橋を治め、郊野を經し、疆圉を固くし、本を惇し末を抑へ、民をして方を知らしめ、制令簡明封內悅服せり。津城五年庚子の兵燹に罹り、市井蕭索五百戶に滿たず、依て帑金を給し移る者に資す、數年の間商賈輻輳し、遂に大都會となる。上野は地僻にして街市利少く、城外に曠野あり、高虎命じ開墾せしめ永く貢稅を免ぜり。是に於て農商並び務め、亦富庶を致せり。 ○大阪の役前田利常、北川久兵衞を以て高虎方へ申越すことあり、久兵衞高虎の陣に來り、用事相濟み立歸らんとする時、早や合戰始まりければ、其場にて拔軍の高名し、首を高虎に見せたり。高虎其首は前田殿への土產にせらるべしと言ふ。北川卽ち首を提げ歸り、利常の實檢に入る。他の手にての働故、差したる賞美もなし、高虎彼れ功の入りたる者ならば、首を當手の首數に入られ候へと言て、態と捨置て歸るべし、左あればとて、彼が高名を見ながら、其分に捨置くべきにあらず、久兵衞が働を印に副へて申送らでは叶はず、然らば彼が働證據分明にして利常も賞すべし、彼が高名の印を此方に留置くべき謂はれなき故、持參せよと言たれば、其儘持歸りたるは殘念のことなりと言ひしが、果して然り。
新字:○十三年、高虎、伊賀に転封し、伊勢半国を併せ領す。九月封に就き伊勢津の城に居り、城池を修し、道橋を治め、郊野を経し、疆圉を固くし、本を惇し末を抑へ、民をして方を知らしめ、制令簡明封内悦服せり。津城五年庚子の兵燹に罹り、市井蕭索五百戸に満たず、依て帑金を給し移る者に資す、数年の間商賈輻輳し、遂に大都会となる。上野は地僻にして街市利少く、城外に曠野あり、高虎命じ開墾せしめ永く貢税を免ぜり。是に於て農商並び務め、亦富庶を致せり。 ○大阪の役前田利常、北川久兵衛を以て高虎方へ申越すことあり、久兵衛高虎の陣に来り、用事相済み立帰らんとする時、早や合戦始まりければ、其場にて抜軍の高名し、首を高虎に見せたり。高虎其首は前田殿への土産にせらるべしと言ふ。北川即ち首を提げ帰り、利常の実検に入る。他の手にての働故、差したる賞美もなし、高虎彼れ功の入りたる者ならば、首を当手の首数に入られ候へと言て、態と捨置て帰るべし、左あればとて、彼が高名を見ながら、其分に捨置くべきにあらず、久兵衛が働を印に副へて申送らでは叶はず、然らば彼が働証拠分明にして利常も賞すべし、彼が高名の印を此方に留置くべき謂はれなき故、持参せよと言たれば、其儘持帰りたるは残念のことなりと言ひしが、果して然り。
書き下し
○十三年、高虎、伊賀に轉封し、伊勢半國を併せ領す。九月封に就き伊勢津の城に居り、城池を修し、道橋を治め、郊野を經し、疆圉を固くし、本を惇し末を抑へ、民をして方を知らしめ、制令簡明封內悅服せり。津城五年庚子の兵燹に罹り、市井蕭索五百戶に滿たず、依て帑金を給し移る者に資す、數年の間商賈輻輳し、遂に大都會となる。上野は地僻にして街市利少く、城外に曠野あり、高虎命じ開墾せしめ永く貢稅を免ぜり。是に於て農商並び務め、亦富庶を致せり。 ○大阪の役前田利常、北川久兵衞を以て高虎方へ申越すことあり、久兵衞高虎の陣に來り、用事相濟み立歸らんとする時、早や合戰始まりければ、其場にて拔軍の高名し、首を高虎に見せたり。高虎其首は前田殿への土產にせらるべしと言ふ。北川卽ち首を提げ歸り、利常の實檢に入る。他の手にての働故、差したる賞美もなし、高虎彼れ功の入りたる者ならば、首を當手の首數に入られ候へと言て、態と捨置て歸るべし、左あればとて、彼が高名を見ながら、其分に捨置くべきにあらず、久兵衞が働を印に副へて申送らでは叶はず、然らば彼が働證據分明にして利常も賞すべし、彼が高名の印を此方に留置くべき謂はれなき故、持參せよと言たれば、其儘持歸りたるは殘念のことなりと言ひしが、果して然り。
現代語訳
○慶長十三年、高虎は伊賀に転封され、伊勢の半国を併せて領しました。九月に領地に入り、伊勢津の城に居て、城や堀を修め、道や橋を整え、野を治め、境界を固め、根本を大切にして末を抑え、民に生きる方向を知らせ、制度と命令は簡明で、領内は心から服しました。津城は五年の庚子の戦火に遭い、市街はさびれて五百戸にも満たなかったので、そこで金を支給して移り住む者を助けました。数年の間に商人が集まり、ついに大都会となりました。上野は土地が辺鄙で、街の市は利が少なく、城外に広い野原があったので、高虎は命じて開墾させ、永く年貢を免除しました。そのため農と商がともに励み、豊かになりました。 ○大坂の役で、前田利常が北川久兵衛を使いとして高虎の方へ申し入れることがありました。久兵衛は高虎の陣に来て、用事が済んで帰ろうとしたとき、すでに合戦が始まっていたので、その場で抜け駆けの手柄を立て、首を高虎に見せました。高虎は、その首は前田殿への土産になさいと言いました。北川はすぐに首を提げて帰り、利常の首実検に入れました。他の者の隊での働きだったため、さしたる賞賛もありませんでした。高虎は、その者に功があるのなら、首を当方の首数に入れなさいと言って、わざと捨て置いて帰るべきだった。そうなれば、その手柄を見ながらそのままにしておくべきではなく、久兵衛の働きを証拠として添えて申し送らなければならない。そうすれば彼の働きの証拠が明らかになり、利常も賞しただろう。彼の手柄の証拠をこちらに留め置く道理もないので、持参せよと言ったところ、そのまま持ち帰ったのは残念なことだと言いましたが、はたしてそのとおりでした。
解説

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名将言行録・『名将言行録』藤堂高虎 高虎の先鋒○天平九年、高虎、羽柴秀長に從て、但馬の土寇を伐し時、高虎家臣、居相政貞と共に夜忍び往て賊壘を覘ふ。遞卒物音を聞き、籬を隔てゝ、鎗にて突きしに、高虎、股に傷けり。高虎傷つきながら、靜に衣袖を以て拭ひし故、血付かず、賊其鋒に血付かざるを見て、人にあらずと思ひ去れり。高虎遂に壘に入り巡視して歸らんとせし時、賊二人刀を舞はし追尾す。高虎政貞と共に、其賊を斬り左右に首を提て歸れり。 ○西海の役、島津家久歩騎一萬五千を以て、宮部繼潤を目白の砦に攻ること急なり。秀長の營と一里計りを隔てり、秀長之を聞き、赴き援はんとす、護軍尾藤左衞門尉知定固く之を止む、高虎先鋒に在り、奮て、寡は衆に敵せずと雖も、前軍の敗を座視せば何を以て人に見えんやと言て、其兵數百人を引具し、直ちに圍を潰て營に入る。行々大呼して曰く、大和大納言の大軍、今將に來らんとす、其先鋒藤堂與右衞門先づ至ると、高虎身長け六尺二寸唐冠樣の大兜鍪を蒙り叱咤風生じ、敵軍披靡せり。遂に纖潤を激し、門を開き突出づ、衆皆殊死戰す、黑田孝高、小早川隆景等繼ぎ至り、夾みて之を擊つ、家久敗れ身を挺して逃れり。是日高虎なかりせば、幾んど殆し、纖潤深く再造の恩を謝し、具に其狀を具上す。秀吉其豪武神速を稱す。役畢つて後、正五位佐渡守に爲されたり。