名将言行録 / 『名将言行録』小西行長 評・異色の出世人
○三成と同じく關ヶ原の西軍の主腦部で、德川時代の御用學者から貶された。加藤清正と、朝鮮で先陣爭ひをしたことなどが崇つて、人氣のない人である。しかし、一藥種商の出身で、肥後半國の大名になつた丈に、相當の人物であつたことが分る。關ヶ原の戰敗れて自殺しなかつたのは、クリスチャンであつた爲かも知れない。頭腦と才覺だけで出世した人だけに、戰國の武將の中では、異彩のある存在である。
新字:○三成と同じく関ヶ原の西軍の主脳部で、徳川時代の御用学者から貶された。加藤清正と、朝鮮で先陣争ひをしたことなどが崇つて、人気のない人である。しかし、一薬種商の出身で、肥後半国の大名になつた丈に、相当の人物であつたことが分る。関ヶ原の戦敗れて自殺しなかつたのは、クリスチャンであつた為かも知れない。頭脳と才覚だけで出世した人だけに、戦国の武将の中では、異彩のある存在である。
書き下し
○三成と同じく關ヶ原の西軍の主腦部で、德川時代の御用學者から貶された。加藤清正と、朝鮮で先陣爭ひをしたことなどが崇つて、人氣のない人である。しかし、一藥種商の出身で、肥後半國の大名になつた丈に、相當の人物であつたことが分る。關ヶ原の戰敗れて自殺しなかつたのは、クリスチャンであつた爲かも知れない。頭腦と才覺だけで出世した人だけに、戰國の武將の中では、異彩のある存在である。
現代語訳
三成と同じく関ヶ原の西軍の主脳部で、徳川時代の御用学者からけなされた。加藤清正と、朝鮮で先陣争いをしたことなどが祟って、人気のない人である。しかし、一薬種商の出身で、肥後半国の大名になっただけに、相当の人物であったことが分かる。関ヶ原の戦に敗れて自殺しなかったのは、クリスチャンであったためかもしれない。頭脳と才覚だけで出世した人だけに、戦国の武将の中では、異彩のある存在である。
解説

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