名将言行録 / 『名将言行録』小西行長 小西行長の出自
堺藥商清兵衞壽德の子彌九郎と稱す。後攝津守に任じ、肥後半國二十四萬石に封ぜられ、宇土城に住す。慶長五年十月朔日死。 ○行長剛勇にして機警あり、好みて兵書を讀み、策略に長ぜり。備前岡山の賈人某の養子と爲る、家頗る富めり、毎に宇喜田氏に出入す。上下貴重す。天正七年、秀吉播磨陣の時、直家衆人の中より行長を選び擧ぐ、是より先、直家使者を京師に遣はすに、毎に壽德に依り、貨を織田氏の諸貴に贈くる、壽德曰く、右府の親昵を欲せば、羽柴氏に倚るに若くはなしと、直家之を聞き、行長嘗て、秀吉と相親しきを以て命じて三木に適かしめ、秀吉を見る。秀吉喜び、爲めに之を信長に言ふ。信長乃ち使者を引見し厚く賞して之を遺る。使者遂に幣を公卿庶尹に發す。行長京畿に往反し、其事を措辨し周旋甚だ忙し。直家乃ち行長を京師に置き、以て行人と爲す。秀吉、行長の才を愛し、召して祿二百石を與ふ。 ○秀吉征韓のこと、兼ねてより思立ち、行長を商賈の體に爲し、朝鮮へ遣はし、朝鮮人の分限より海陸の遠近を能く量られしとぞ。
新字:堺薬商清兵衛寿徳の子弥九郎と称す。後摂津守に任じ、肥後半国二十四万石に封ぜられ、宇土城に住す。慶長五年十月朔日死。 ○行長剛勇にして機警あり、好みて兵書を読み、策略に長ぜり。備前岡山の賈人某の養子と為る、家頗る富めり、毎に宇喜田氏に出入す。上下貴重す。天正七年、秀吉播磨陣の時、直家衆人の中より行長を選び挙ぐ、是より先、直家使者を京師に遣はすに、毎に寿徳に依り、貨を織田氏の諸貴に贈くる、寿徳曰く、右府の親昵を欲せば、羽柴氏に倚るに若くはなしと、直家之を聞き、行長嘗て、秀吉と相親しきを以て命じて三木に適かしめ、秀吉を見る。秀吉喜び、為めに之を信長に言ふ。信長乃ち使者を引見し厚く賞して之を遺る。使者遂に幣を公卿庶尹に発す。行長京畿に往反し、其事を措弁し周旋甚だ忙し。直家乃ち行長を京師に置き、以て行人と為す。秀吉、行長の才を愛し、召して禄二百石を与ふ。 ○秀吉征韓のこと、兼ねてより思立ち、行長を商賈の体に為し、朝鮮へ遣はし、朝鮮人の分限より海陸の遠近を能く量られしとぞ。
書き下し
堺藥商清兵衞壽德の子彌九郎と稱す。後攝津守に任じ、肥後半國二十四萬石に封ぜられ、宇土城に住す。慶長五年十月朔日死。 ○行長剛勇にして機警あり、好みて兵書を讀み、策略に長ぜり。備前岡山の賈人某の養子と爲る、家頗る富めり、毎に宇喜田氏に出入す。上下貴重す。天正七年、秀吉播磨陣の時、直家衆人の中より行長を選び擧ぐ、是より先、直家使者を京師に遣はすに、毎に壽德に依り、貨を織田氏の諸貴に贈くる、壽德曰く、右府の親昵を欲せば、羽柴氏に倚るに若くはなしと、直家之を聞き、行長嘗て、秀吉と相親しきを以て命じて三木に適かしめ、秀吉を見る。秀吉喜び、爲めに之を信長に言ふ。信長乃ち使者を引見し厚く賞して之を遺る。使者遂に幣を公卿庶尹に發す。行長京畿に往反し、其事を措辨し周旋甚だ忙し。直家乃ち行長を京師に置き、以て行人と爲す。秀吉、行長の才を愛し、召して祿二百石を與ふ。 ○秀吉征韓のこと、兼ねてより思立ち、行長を商賈の體に爲し、朝鮮へ遣はし、朝鮮人の分限より海陸の遠近を能く量られしとぞ。
現代語訳
堺の薬商、清兵衛寿徳の子で、弥九郎と称した。後に摂津守に任じ、肥後半国二十四万石に封ぜられ、宇土城に住んだ。慶長五年十月一日死去。 行長は剛勇で機警があり、好んで兵書を読み、策略に長じていた。備前岡山の商人某の養子となり、家はすこぶる富んでいた。つねに宇喜多氏に出入りし、上下に重んじられた。天正七年、秀吉の播磨の陣の時、直家が衆人の中から行長を選び挙げた。これより先、直家は使者を京都に遣わすのに、つねに寿徳に頼り、財貨を織田氏の諸貴人に贈っていた。寿徳は、右府と親しくしたいなら、羽柴氏に頼るのが一番だと言った。直家はこれを聞き、行長がかつて秀吉と相親しかったことから、命じて三木に行かせ、秀吉に会わせた。秀吉は喜び、そのために行長のことを信長に言った。信長はそこで使者を引見し、厚く賞してこれを贈った。使者はついに幣物を公卿や諸役人に発した。行長は京畿を往復し、その事を取り計らい、周旋はなはだ忙しかった。直家はそこで行長を京都に置き、使者とした。秀吉は行長の才を愛し、召して禄二百石を与えた。 秀吉の朝鮮出兵のことは、かねてより思い立っており、行長を商人の体にして、朝鮮へ遣わし、朝鮮人の分限より海陸の遠近をよく測らせたという。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』小西行長 評・異色の出世人○三成と同じく關ヶ原の西軍の主腦部で、德川時代の御用學者から貶された。加藤清正と、朝鮮で先陣爭ひをしたことなどが崇つて、人氣のない人である。しかし、一藥種商の出身で、肥後半國の大名になつた丈に、相當の人物であつたことが分る。關ヶ原の戰敗れて自殺しなかつたのは、クリスチャンであつた爲かも知れない。頭腦と才覺だけで出世した人だけに、戰國の武將の中では、異彩のある存在である。
-
名将言行録・『名将言行録』小西行長 行長の最期と町人の評去る程に、行長は家子、郎從に申渡す樣は、斯る臆病者とは知らず、三成に頼まれ一味して犬死せん口惜さよ、今に於ては是非なし、是と言ふも行長が人を知らざる故なれば、恨むる樣もなし、汝等數年の軍功を無に爲さんこと、返々無念なれども、去りながら、前世の約束と思切り、今度は最後の軍なれば、遠かに討死し、名を後代に留めよと、最後の酒盛せんと互に打解け亂舞して、其後靜に手分をし、明るを遲しと待居たり。 明れば、十五日上方の軍悉く敗れければ、頓て行長も生捕れ、終に斬られにけり。行長死に臨み顏色平生の如し、見る者其膽力に服せり。 ○堺の町人、行長を批判して曰く、小西攝州、肥後にて知行三十萬石取られけれども、未だ銀子一貫目も溜まり申さずとの沙汰なり、長崎の陶安は知行は取らずとも、銀子十貫目餘持ければ、武士程何の益もなき者はなきと言たりしとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』小西行長 釜山攻めと旗の返答○征韓の役、行長加藤清正と共に先鋒の將を命ぜらる。此時清正に跳題目の旗を賜はる。清正は法華宗の信心者なれば、大に喜び、有り難き旨拜謝して退き、諸將列座の中にて、行長に向ひ、此度妙法蓮華經の旗を賜はりたり。朝鮮は申すに及ばず、明までも此旗を翻し、日本の武威を耀かすべし。貴方には、如何なる旗を用らるゝにやと申せば行長取あへず、我等は世人の知りたる通、元來堺の藥屋なれば、紙袋に朱丸付けたる旗を用ひ候と返答せり。左しもの清正も張り合拔たり。清正平日行長を侮る氣象ある故に、行長其機を察し、斯く答て爭はず、其氣を油斷させ、遂に壹岐風本より拔掛し、行長一列諸軍に先立、釜山浦に着す。行長船中にて下知して曰く、武具の外は何にても上ぐべからず、只敵城を攻落しなば、兵糧器械は何程も城中にあるべし、夫こそ我物なれ、只々進みて城を攻拔くべしと、衆を勵まし一鼓して釜山浦を拔き、再鼓して東萊を陥れたり、府史宗象賢座ながら刄を受て死す。長行象賢が死守を嘉みし、棺斂して以て、城外に埋め、標を立て之を識せり。 ○此役、行長王城を取りし時、諸軍先を爭ひ込み入らんとす。部將之を制することを得ず、行長馬を驅寄せ、長刀を以て込み入る輕卒を掛倒し、大の眼を見出し、亂暴すべからず、酒家に入らざれ、拔掛けすなと、二萬に及ぶ軍勢を啐と取鎭め、若しやの一戰を心に備へたり。其作法尤も嚴正なり。是等を始めとして、明韓の兵と戰し軍功枚擧するに遑あらず。
-
名将言行録・『名将言行録』小西行長 前田邸の夜と行長の献策○慶長四年三月、家康伏見より大阪へ下向ありて、前田利家の病を訪はる。時に細川忠興、淺野幸長等の人々相集り、石田三成が背語に及ぶ所に、三成唐突に入れり。人々大に驚愕す、利家怒り、三成を殺んとせしを、家康扱ありて故なく事濟みたり。此の夜、家康、藤堂高虎の中の島の營に止宿なり、行長、三成等は宇喜田秀家の邸に集り種々評議しけるが、三成吾前田の邸に往て、不意に座席に入りし時、人々仰天せり。是は合戰の評定ありし所に、我等參りし故、興を醒ましたるなるべし、其内に内府は聊か驚く氣色もなく、尋常の如く挨拶せり。如何樣戰近きにあらんかと言ければ、行長聞て、否々内府の方より兵を起さんこと思ひも寄らず、其故は、近々軍を發せんと評定せし所へ、敵の棟梁只一人來りしを、誰か助けて歸すべき、貴殿を助け戻せしは内府の策に紛れなし、五奉行の其一人を殺害あらば、世擧げて逆意と稱し、起請文を破り、兵を起すに於ては、戰ふとも利あらずと、天理を深く敬ひ、世の誹を受けざらんことを常に嗜む人なれば是より後も軍を發せず、若し此方より兵を起さば、却て謀叛人と稱し、攻滅さんと相議せし條疑ふ所なし、兎に角謀叛人の名を蒙らんと思ひ定め軍せらるべくんば、今宵味方の勢を集め、藤堂の邸を襲ひ攻め運を天に任せらるべし、内府は旅營なり、藤堂は小身なれば、弓銃も寡なからん、一定味方の勝利たるべしと、一向に勸めけれども異議區々にして決せず、行長大に憤り、己が宿所へ歸りけり。
-
名将言行録・『名将言行録』小西行長 大垣城の撤退論○五年九月、行長、宇喜田、島津、石田等の人々と大垣城に在り、三成岐阜城東軍の爲めに只一日に攻破られ、又我先手、島左近は有馬、中村と戰ひ、軍は利あるに似たりと雖も、味方大勢討死す。之を見て味方は氣を失ひ、敵は兩所の軍に勝て、勢既に天地を呑み、敵味方の兵氣雲泥の差別あり。今多からぬ勢を以て、勝誇りたる東軍と戰ふとも利あるまじ、先づ關ヶ原まで引退き、味方の多勢と合して、廣野に於て軍せん、如何あらんと申けるに、何れも尤もと同じける時に、行長只一人聞かぬ振にて居たりしが、諸將の評議を聞き、怒て高らかに申す樣、偖々臆病なる人々の評議哉、凡そ軍の勝負は五度も、十度も戰負け一度の勝に大利を定むるは、皆是軍の習なり、今日本二つに相分れ合戰を致さんに、十度二十度の勝敗の替はりはあるべし、且つ味方の負と言ふは、岐阜の軍計りなり、杭瀨川の戰は、味方多く死すると雖も、軍利を得て大敵を追拂へば、更に負とは覺えず、偖敵の負と言ふは、大津、田邊、阿濃津、伏見等の城是皆敵方負けならずや、東國勢は多しと雖も、七萬五千三百餘人、味方の勢は十三萬八千六百餘人、左すれば、若干倍せずや、此大軍を味方に持て、岐阜落城に物懲し逃支度致さんには、何にとして、軍に勝べき、只今當所の軍勢を以て、東軍と戰はんに、さらに不足は候まじ、然れ共、覺束なくば、關ヶ原の軍兵等を此處へ招き寄せ快く一戰し、萬一勝利なきならば大阪へ楯籠り、人數を所々へ分配し、城々に籠置きなば、敵手分をして、之を攻ん、多からぬ東軍を諸方へ分けさせ、其後油斷を見て内府の旗本へ擊て掛るものならば、爭か勝利を得ざるべき、然るに岐阜落城に物懲し、味方臆したり、敵は氣に乘りたり。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 三千石から肥後の大国へ○十六年、肥後國主佐々陸奧守成政死を賜はり、讃岐國主尾藤甚右衞門知定國除せらる。之に依り、知定が武器殘らず、清正に下し賜ひ、讃岐國を領すべきや、肥後にて二十五萬石領すべきや、兎角の遲答を申べきとの議なり、此時清正知行三千石なり、近き內に、秀吉征韓の內意之ある由、淺野長政窃に告げゝれば、清正此先鋒を望まん爲め、御請に有り難き段、骨髓に徹し存奉り候、同くは肥後の國にて、拜領仕度と申ければ、秀吉聞て、大氣者哉出來したり、去らば小西攝津守をも呼び候へとて、兩人に肥後國五十四萬石の所を、二十五萬石清正、二十四萬石行長に賜はり、殘りは兩人に預けられたり。諸人皆餘りに過分の望み哉と言ひたるに、秀吉聞て、老功の佐々陸奧守さへ治め兼ねたる大國を、若輩なる、主計頭が望みしは、如何樣見所ある者なりと言はれけり。清正熊本へ入部の時、羽翼の臣三十七騎あり、此三十七騎の者、其節俄に抱へたるにはあらず、皆三千石の身上にて、內々扶持し置きたる者なり、三千石より二十五萬石に封ぜられしは古今希なる出身なり、清正時に年二十八。