名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 不仲の相手を迎えに行く
○清正、小西行長と中惡しゝ、秀吉薨じ、諸將皆還り、行長獨り去ること能はず、清正諸將を勵まし反り行長を迎ふ。行長泣て曰く、思はざりき、君の義愛に至らんとは、願くは前憾を釋んと、清正笑て、我國の爲めにして、貴殿の爲めにせず、且つ貴殿は三成に善くして、吾に善きこと能はず、と言はれけり。 ○清正、朝鮮より歸り、或日夜話の時、森本儀太夫、飯田角兵衞、庄林隼人抔、朝鮮在陣中、何事に付ても武功になるべき道筋を見覺えたるやと尋ね、別に是ぞ珍敷と存することなし、但し三ヶ條心得にもなるべきこと之あると申す。清正、我等も三ヶ條あり、去らば面々入札に書て其心を知るべきと。主從四人面々に之を書き見合はせけるに各一致にてありしとぞ。其三條知るものなし。或人曰く、兩山の谷間に蘆の茂りたる處あり、其山上を押通るに、敵三人向ふの山上にて、馬をきり〱と輪乘してありけり。偖は相圖にてこそあるらめとて、蘆の中を探せしに、果して伏兵ありけりと、其三ヶ條の一なりと、殘る二條は知らずと云ふ。
新字:○清正、小西行長と中悪しゝ、秀吉薨じ、諸将皆還り、行長独り去ること能はず、清正諸将を励まし反り行長を迎ふ。行長泣て曰く、思はざりき、君の義愛に至らんとは、願くは前憾を釈んと、清正笑て、我国の為めにして、貴殿の為めにせず、且つ貴殿は三成に善くして、吾に善きこと能はず、と言はれけり。 ○清正、朝鮮より帰り、或日夜話の時、森本儀太夫、飯田角兵衛、庄林隼人抔、朝鮮在陣中、何事に付ても武功になるべき道筋を見覚えたるやと尋ね、別に是ぞ珍敷と存することなし、但し三ヶ条心得にもなるべきこと之あると申す。清正、我等も三ヶ条あり、去らば面々入札に書て其心を知るべきと。主従四人面々に之を書き見合はせけるに各一致にてありしとぞ。其三条知るものなし。或人曰く、両山の谷間に蘆の茂りたる処あり、其山上を押通るに、敵三人向ふの山上にて、馬をきり〱と輪乗してありけり。偖は相図にてこそあるらめとて、蘆の中を探せしに、果して伏兵ありけりと、其三ヶ条の一なりと、残る二条は知らずと云ふ。
書き下し
○清正、小西行長と中惡しゝ、秀吉薨じ、諸將皆還り、行長獨り去ること能はず、清正諸將を勵まし反り行長を迎ふ。行長泣て曰く、思はざりき、君の義愛に至らんとは、願くは前憾を釋んと、清正笑て、我國の爲めにして、貴殿の爲めにせず、且つ貴殿は三成に善くして、吾に善きこと能はず、と言はれけり。 ○清正、朝鮮より歸り、或日夜話の時、森本儀太夫、飯田角兵衞、庄林隼人抔、朝鮮在陣中、何事に付ても武功になるべき道筋を見覺えたるやと尋ね、別に是ぞ珍敷と存することなし、但し三ヶ條心得にもなるべきこと之あると申す。清正、我等も三ヶ條あり、去らば面々入札に書て其心を知るべきと。主從四人面々に之を書き見合はせけるに各一致にてありしとぞ。其三條知るものなし。或人曰く、兩山の谷間に蘆の茂りたる處あり、其山上を押通るに、敵三人向ふの山上にて、馬をきり〱と輪乘してありけり。偖は相圖にてこそあるらめとて、蘆の中を探せしに、果して伏兵ありけりと、其三ヶ條の一なりと、殘る二條は知らずと云ふ。
現代語訳
清正は小西行長と仲が悪くありました。秀吉が亡くなり、諸将が皆帰国する中、行長だけが去ることができずにいました。清正は諸将を励まして引き返し、行長を迎えました。行長は泣いて言いました。「思いませんでした。君が義愛にまで至ろうとは。どうか以前の恨みを解かせてください」。清正は笑って、「我が国のためにするのであって、貴殿のためにするのではない。しかも貴殿は三成には良くしても、私に良くすることはできなかった」と言われました。 清正が朝鮮から帰り、ある日、夜話の折、森本儀太夫、飯田角兵衛、庄林隼人などに、朝鮮在陣の間、何事につけ武功になるべき道筋を見て覚えたことがあるかと尋ねました。彼らは、「別にこれは珍しいと思うことはありません。ただし心得になるようなことが三か条あります」と申しました。清正は、「我らにも三か条がある。それならば皆、入札に書いて、その心を知ろう」と言いました。主従四人がそれぞれこれを書き、見合わせると、各々一致していたということです。その三条は知る者がありません。ある人が言うには、両山の谷間に芦の茂った所があり、その山上を押し通ると、敵が三人、向こうの山上で馬をきりきりと輪乗りしていた。さては合図であろうと、芦の中を探すと、はたして伏兵がいた、それがその三か条の一つで、残る二条は知らない、とのことです。
解説

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