名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 評・三成への悪評
清正を賞め上げる講釋師などは、定まつて石田三成を貶した。頼山陽でさへ、日本外史で三成を筆誅してゐる。まして、徳川時代の御用史學者が、彼を鎌倉時代の梶原景時に比して、佞奸邪智の標本のやうに云ふのは、當然である。景時と云へば、(ゲヂ〳〵と云ふ言葉は、景時が、(頼朝の下知を笠に着て威張つた事から)景時のことをゲヂ〳〵と云つたのが、始まりだと云ふ説さへある。しかし、そんな男なら、三十六國四十餘人の大名を糾合して、天下分け目の一戰を企て得るわけはない。 三成君に對する讒誣は、大抵は史實的にウソが多いのである。當時に傑出した才幹を有し、人間も比較的に公正である。たゞ、文治派出身の彼が、武功派の清正などは、元來ソリが合はない上に、一方が淀君派であり、一方が北政所派である以上、分裂するのは、止むを得なかつたらしい。しかも、家康が、老狡な手段で、その間隙に乗ずるのだから、いよ〳〵うまく行かないわけである。 關ヶ原の役に、清正とか正則とが、西軍にゐたら、豐家の天下は動かなかつたであらう。 島津とか毛利とか長曾我部とか、秀吉に一度は反抗した連中が西軍の中心で、秀吉取立の連中が、家康の方で働くなど、馬鹿々々しいことである。これは、三成だけの責任でなく、愚直な連中が、天下の大勢を察することが出來ず、家康にうまく籠絡されたゝめであらう。
新字:清正を賞め上げる講釈師などは、定まつて石田三成を貶した。頼山陽でさへ、日本外史で三成を筆誅してゐる。まして、徳川時代の御用史学者が、彼を鎌倉時代の梶原景時に比して、佞奸邪智の標本のやうに云ふのは、当然である。景時と云へば、(ゲヂ〳〵と云ふ言葉は、景時が、(頼朝の下知を笠に着て威張つた事から)景時のことをゲヂ〳〵と云つたのが、始まりだと云ふ説さへある。しかし、そんな男なら、三十六国四十余人の大名を糾合して、天下分け目の一戦を企て得るわけはない。 三成君に対する讒誣は、大抵は史実的にウソが多いのである。当時に傑出した才幹を有し、人間も比較的に公正である。たゞ、文治派出身の彼が、武功派の清正などは、元来ソリが合はない上に、一方が淀君派であり、一方が北政所派である以上、分裂するのは、止むを得なかつたらしい。しかも、家康が、老狡な手段で、その間隙に乗ずるのだから、いよ〳〵うまく行かないわけである。 関ヶ原の役に、清正とか正則とが、西軍にゐたら、豊家の天下は動かなかつたであらう。 島津とか毛利とか長曽我部とか、秀吉に一度は反抗した連中が西軍の中心で、秀吉取立の連中が、家康の方で働くなど、馬鹿々々しいことである。これは、三成だけの責任でなく、愚直な連中が、天下の大勢を察することが出来ず、家康にうまく籠絡されたゝめであらう。
書き下し
清正を賞め上げる講釋師などは、定まつて石田三成を貶した。頼山陽でさへ、日本外史で三成を筆誅してゐる。まして、徳川時代の御用史學者が、彼を鎌倉時代の梶原景時に比して、佞奸邪智の標本のやうに云ふのは、當然である。景時と云へば、(ゲヂ〳〵と云ふ言葉は、景時が、(頼朝の下知を笠に着て威張つた事から)景時のことをゲヂ〳〵と云つたのが、始まりだと云ふ説さへある。しかし、そんな男なら、三十六國四十餘人の大名を糾合して、天下分け目の一戰を企て得るわけはない。 三成君に對する讒誣は、大抵は史實的にウソが多いのである。當時に傑出した才幹を有し、人間も比較的に公正である。たゞ、文治派出身の彼が、武功派の清正などは、元來ソリが合はない上に、一方が淀君派であり、一方が北政所派である以上、分裂するのは、止むを得なかつたらしい。しかも、家康が、老狡な手段で、その間隙に乗ずるのだから、いよ〳〵うまく行かないわけである。 關ヶ原の役に、清正とか正則とが、西軍にゐたら、豐家の天下は動かなかつたであらう。 島津とか毛利とか長曾我部とか、秀吉に一度は反抗した連中が西軍の中心で、秀吉取立の連中が、家康の方で働くなど、馬鹿々々しいことである。これは、三成だけの責任でなく、愚直な連中が、天下の大勢を察することが出來ず、家康にうまく籠絡されたゝめであらう。
現代語訳
清正をほめ上げる講釈師などは、決まって石田三成をけなした。頼山陽でさえ、日本外史で三成を筆誅している。ましてや、徳川時代の御用史学者が、彼を鎌倉時代の梶原景時になぞらえて、佞奸邪智の見本のように言うのは、当然である。景時といえば、(ゲヂゲヂという言葉は、景時が頼朝の下知を笠に着て威張ったことから)景時のことをゲヂゲヂと言ったのが始まりだという説さえある。しかし、そんな男なら、三十六国四十余人の大名を糾合して、天下分け目の一戦を企て得るわけはない。 三成君に対する讒誣は、大抵は史実的にウソが多いのである。当時傑出した才幹を有し、人間も比較的に公正である。ただ、文治派出身の彼が、武功派の清正などとは、元来ソリが合わない上に、一方が淀君派であり、一方が北政所派である以上、分裂するのは、やむを得なかったらしい。しかも、家康が、老獪な手段で、その間隙に乗ずるのだから、いよいようまく行かないわけである。 関ヶ原の役に、清正とか正則とかが西軍にいたら、豊家の天下は動かなかったであろう。 島津とか毛利とか長曽我部とか、秀吉に一度は反抗した連中が西軍の中心で、秀吉取り立ての連中が、家康の方で働くなど、馬鹿々々しいことである。これは、三成だけの責任でなく、愚直な連中が天下の大勢を察することができず、家康にうまく籠絡されたためであろう。
解説

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名将言行録・『名将言行録』大谷吉隆 勝算なき挙兵への諫言一豐、又內府平生の行跡を案ずるに、事急ならずして理に當ること多し、天理を專とし、人の和を本とす。是賢德の人ならん、必ず後には天下の主たるべきかと言ふ。吉隆笑て、誰が思慮するも同じかるべし、斯の如き事は、言ふべからずと言て、別れにけり。 ○會津の役、吉隆東下せんとし、其子大學助吉久、□木下山城守賴經等と、一千餘人を率ひ、伏見を出て、垂井の驛に至る。石田三成、樫原彦右衞門をして、之を要す。吉隆、樫原に逢ひ、其故を問ふ、對ふるに、三成が兵を擧るのことを以てす。吉隆、內府政を執り私ありと雖も、必ず秀賴公を廢するに至らず、今景勝同僚と謀を合はせ、內府をして、關東に赴かしむるは、良圖と言べし、然れども、事の成否豫め料る所にあらず、何にとなれば、三成才ありと雖も、而も世之を惡む者甚だ多し、是三成自ら取る所なり、今大事を擧げ人の上たらんと欲せば、衆心必ず悅服せず、宜しく、秀家輝元を以て主將とし、景勝と、定議し、東西夾擊せば、則ち志を得べし、若し然る能はずんば則ち數月の間、景勝、內府を牽制すと雖も、關西の軍輯睦なること能はず、內府旆を反し西上せば、則ち事甚だ危し、宜しく此言を以て、三成を諫むべし。我亦繼ぎ往ん、汝宜しく先づ歸るべしと言ふ。吉隆、父子繼ぎ、佐和山に至る、三成大に喜びて之を享す。吉隆、其方略を問ふ。三成、西國毛利一門、島津、小西、其餘豪傑、大阪に來集すること近きにあり。信濃に眞田あり、大家にあらずと雖も、勇武絕倫、且つ內府と怨隙あり、常陸に佐竹あり、下野に多賀谷あり、相馬、秋田の諸將に至つては、皆景勝と謀を通ず、內府兵を交ゆるの日に方り、關西の諸將旗を箱根に建て、東國の諸將と、三面より入り攻め、一擧して江戶を平定せんと言ふ。吉隆涙を流し今天下事なきに、故なく之を擾り竟に人手に落んとす、誠に悲むべきなり。貴殿の言はるゝ所、皆勝算にあらず、譬ば奕棋の如し。先づ成算あり、以爲く吾能く斯の如く、彼必ず斯の如くせんと、然る後、吾能く勝を制す。此中人の奕なり。
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