名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 捕らわれても変わらぬ挨拶
○關ヶ原の役敗れしかば、三成鎭西に行き、島津と共に再擧を計らんと欲し、所々間行せしが、既に食を斷つこと一二日、漸く稻穗を拾ひ食ひければ、脾腑を損じ、泄痢して、淺井郡脇坂と曰ふ所に、綴衣を着し、草刈鎌を腰に指し、破笠を以て面を隱くし樵夫の形となり、蘆原の中に伏居たりしが、終に田中吉政の手に擒にせらる。吉政、江州井の口にて、三成に對面し、貴殿此度一方の武將となり、上方の諸將を手に付けて勝負を爭はれしこと、誠に末代の聞えならん、凡そ軍の勝敗は、古今珍しからぬことなり、十五日の合戰に打負け給ひ、御素志忽ち空しくなるとも、今は御後悔なかるべしと、懃懃に挨拶ありければ、三成面色打解けて、事新敷樣なれども、我等は太閤の重恩を蒙りたれば、秀賴公の御爲めに秀家、景勝、輝元以下と相談して天下の安危を謀ると雖も、一戰に利を失ひ、敵に頭を揚げさすること言語に絶て無念なり、去りながら、斯く成り果るも、皆報恩の爲めと思へば今は左まで、後悔なし、又今日まで身を放さで、殊に秘藏せし脇差は先年太閤より賜はりたる切刃貞宗の珍器なり、紀念に參らすると言ひて贈りぬ。三成常に、田中兵部を田兵と言て、如何にもおとしめたる會釋なりしが、此時繩に掛りながら、挨拶は日頃に替はらざりしとぞ。
新字:○関ヶ原の役敗れしかば、三成鎮西に行き、島津と共に再挙を計らんと欲し、所々間行せしが、既に食を断つこと一二日、漸く稲穂を拾ひ食ひければ、脾腑を損じ、泄痢して、浅井郡脇坂と曰ふ所に、綴衣を着し、草刈鎌を腰に指し、破笠を以て面を隠くし樵夫の形となり、蘆原の中に伏居たりしが、終に田中吉政の手に擒にせらる。吉政、江州井の口にて、三成に対面し、貴殿此度一方の武将となり、上方の諸将を手に付けて勝負を争はれしこと、誠に末代の聞えならん、凡そ軍の勝敗は、古今珍しからぬことなり、十五日の合戦に打負け給ひ、御素志忽ち空しくなるとも、今は御後悔なかるべしと、懃懃に挨拶ありければ、三成面色打解けて、事新敷様なれども、我等は太閤の重恩を蒙りたれば、秀頼公の御為めに秀家、景勝、輝元以下と相談して天下の安危を謀ると雖も、一戦に利を失ひ、敵に頭を揚げさすること言語に絶て無念なり、去りながら、斯く成り果るも、皆報恩の為めと思へば今は左まで、後悔なし、又今日まで身を放さで、殊に秘蔵せし脇差は先年太閤より賜はりたる切刃貞宗の珍器なり、紀念に参らすると言ひて贈りぬ。三成常に、田中兵部を田兵と言て、如何にもおとしめたる会釈なりしが、此時縄に掛りながら、挨拶は日頃に替はらざりしとぞ。
書き下し
○關ヶ原の役敗れしかば、三成鎭西に行き、島津と共に再擧を計らんと欲し、所々間行せしが、既に食を斷つこと一二日、漸く稻穗を拾ひ食ひければ、脾腑を損じ、泄痢して、淺井郡脇坂と曰ふ所に、綴衣を着し、草刈鎌を腰に指し、破笠を以て面を隱くし樵夫の形となり、蘆原の中に伏居たりしが、終に田中吉政の手に擒にせらる。吉政、江州井の口にて、三成に對面し、貴殿此度一方の武將となり、上方の諸將を手に付けて勝負を爭はれしこと、誠に末代の聞えならん、凡そ軍の勝敗は、古今珍しからぬことなり、十五日の合戰に打負け給ひ、御素志忽ち空しくなるとも、今は御後悔なかるべしと、懃懃に挨拶ありければ、三成面色打解けて、事新敷樣なれども、我等は太閤の重恩を蒙りたれば、秀賴公の御爲めに秀家、景勝、輝元以下と相談して天下の安危を謀ると雖も、一戰に利を失ひ、敵に頭を揚げさすること言語に絶て無念なり、去りながら、斯く成り果るも、皆報恩の爲めと思へば今は左まで、後悔なし、又今日まで身を放さで、殊に秘藏せし脇差は先年太閤より賜はりたる切刃貞宗の珍器なり、紀念に參らすると言ひて贈りぬ。三成常に、田中兵部を田兵と言て、如何にもおとしめたる會釋なりしが、此時繩に掛りながら、挨拶は日頃に替はらざりしとぞ。
現代語訳
関ヶ原の戦いに敗れると、三成は鎮西に行き、島津と共に再挙を図ろうと思い、所々を間道で行ったが、すでに食を断つこと一二日、ようやく稲穂を拾って食べたので、脾腑を損じ、下痢して、浅井郡脇坂という所に、綴り衣を着、草刈り鎌を腰に差し、破れ笠で顔を隠し、樵夫の姿となって、芦原の中に伏していたが、ついに田中吉政の手に捕らえられた。吉政は江州井の口で三成に対面し、貴殿はこの度一方の武将となり、上方の諸将を味方に付けて勝負を争われたこと、まことに末代の聞こえとなりましょう。およそ軍の勝敗は、古今珍しくないことです。十五日の合戦に打ち負けられ、ご素志がたちまち空しくなっても、今はご後悔はありますまいと、丁寧に挨拶すると、三成は面色が打ち解けて、今さらのようだが、私は太閤の重恩を蒙っているので、秀頼公のために秀家、景勝、輝元以下と相談して天下の安危を謀ったとはいえ、一戦に利を失い、敵に頭を上げさせたこと、言語に絶して無念である。しかしながら、このように成り果てるのも、皆報恩のためと思えば、今はさほど後悔はない。また今日まで身を離さず、ことに秘蔵した脇差は、先年太閤から賜った切刃貞宗の珍器である。記念に差し上げると言って、贈った。三成はつねに田中兵部を田兵と言って、いかにもおとしめた応対であったが、この時、縄に掛かりながら、挨拶は日頃と変わらなかったという。
解説

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