名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 元忠の首と古今伝授
○三成等、伏見城を陷れ、元忠を斬り、之を梟首す。京の吳服所佐野四郎右衞門は、元忠の恩を受けし者なり。報恩の爲め、元忠の首を盜みて之を葬る、時に奉行の人々京大阪に命して、元忠が首を盜みし者を探索す。佐野之を聞て、外より顯はれたらんには口惜かるべしと思ひ、三成が方に來り自首す、三成却て四郎右衞門が義勇を感歎し、宥めて之を歸せり。 ○庚子の亂起りし時、細川藤孝より、古今の傳授を飛脚にて京へ上せける時、西國方にて、關を據ゑ、人を一圓通さず、飛脚の者大に難儀しける、三成之を聞き、古今傳授とあるを通さば、末代まで不道の名を得ん。縱令細川籌策の爲め僞り、古今傳授と申すとも、苦しからず通すべしとて通しけり。 ○關ヶ原の時、三成九日に出陣と究めし所、福束の城より、丸毛三郎兵衞來て、明日は惡日なれば首途然るべからざる由諫めける、三成此返答をばせずして、幼君より各各へ惡日に領地十萬石も賜はるに於ては、辭退に及ぶやと問ふ。丸茂、夫は別段のこと辭するに及ばずと答ふ、三成打笑ひ、此度の干戈は天下分目の戰なり、豈に凶日なればとて、一日の猶豫なるべきやとて、佐和山を出馬せり。
新字:○三成等、伏見城を陥れ、元忠を斬り、之を梟首す。京の呉服所佐野四郎右衛門は、元忠の恩を受けし者なり。報恩の為め、元忠の首を盗みて之を葬る、時に奉行の人々京大阪に命して、元忠が首を盗みし者を探索す。佐野之を聞て、外より顕はれたらんには口惜かるべしと思ひ、三成が方に来り自首す、三成却て四郎右衛門が義勇を感嘆し、宥めて之を帰せり。 ○庚子の乱起りし時、細川藤孝より、古今の伝授を飛脚にて京へ上せける時、西国方にて、関を拠ゑ、人を一円通さず、飛脚の者大に難儀しける、三成之を聞き、古今伝授とあるを通さば、末代まで不道の名を得ん。縦令細川籌策の為め偽り、古今伝授と申すとも、苦しからず通すべしとて通しけり。 ○関ヶ原の時、三成九日に出陣と究めし所、福束の城より、丸毛三郎兵衛来て、明日は悪日なれば首途然るべからざる由諫めける、三成此返答をばせずして、幼君より各各へ悪日に領地十万石も賜はるに於ては、辞退に及ぶやと問ふ。丸茂、夫は別段のこと辞するに及ばずと答ふ、三成打笑ひ、此度の干戈は天下分目の戦なり、豈に凶日なればとて、一日の猶予なるべきやとて、佐和山を出馬せり。
書き下し
○三成等、伏見城を陷れ、元忠を斬り、之を梟首す。京の吳服所佐野四郎右衞門は、元忠の恩を受けし者なり。報恩の爲め、元忠の首を盜みて之を葬る、時に奉行の人々京大阪に命して、元忠が首を盜みし者を探索す。佐野之を聞て、外より顯はれたらんには口惜かるべしと思ひ、三成が方に來り自首す、三成却て四郎右衞門が義勇を感歎し、宥めて之を歸せり。 ○庚子の亂起りし時、細川藤孝より、古今の傳授を飛脚にて京へ上せける時、西國方にて、關を據ゑ、人を一圓通さず、飛脚の者大に難儀しける、三成之を聞き、古今傳授とあるを通さば、末代まで不道の名を得ん。縱令細川籌策の爲め僞り、古今傳授と申すとも、苦しからず通すべしとて通しけり。 ○關ヶ原の時、三成九日に出陣と究めし所、福束の城より、丸毛三郎兵衞來て、明日は惡日なれば首途然るべからざる由諫めける、三成此返答をばせずして、幼君より各各へ惡日に領地十萬石も賜はるに於ては、辭退に及ぶやと問ふ。丸茂、夫は別段のこと辭するに及ばずと答ふ、三成打笑ひ、此度の干戈は天下分目の戰なり、豈に凶日なればとて、一日の猶豫なるべきやとて、佐和山を出馬せり。
現代語訳
三成らは伏見城を陥れ、元忠を斬り、さらし首にした。京の呉服所、佐野四郎右衛門は、元忠の恩を受けた者である。報恩のため、元忠の首を盗んでこれを葬った。時に奉行の人々は、京、大坂に命じて、元忠の首を盗んだ者を探索させた。佐野はこれを聞き、外から露見するのは口惜しいだろうと思い、三成のところに来て自首した。三成はかえって四郎右衛門の義勇に感嘆し、なだめてこれを帰した。 庚子の乱が起きた時、細川藤孝から古今伝授を飛脚で京へ上せる際、西国方では関所を据え、人を一切通さず、飛脚の者は大いに難儀した。三成はこれを聞き、古今伝授とあるのを通さなければ、末代まで不道の名を得よう。たとえ細川の策略のために偽り、古今伝授と申しても、差し支えない、通せと言って、通した。 関ヶ原の時、三成は九日に出陣と決めたところ、福束の城から丸毛三郎兵衛が来て、明日は悪日なので出発はよくない旨を諫めた。三成はこの返答をせずに、幼君から各々へ、悪日に領地十万石も賜るとしたら、辞退に及ぶかと問うた。丸毛は、それは別のこと、辞するには及ばないと答えた。三成は打ち笑い、この度の干戈は天下分け目の戦いである。どうして凶日だからといって、一日の猶予があろうかと言って、佐和山を出馬した。
解説

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