名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 評・虎退治の人気
戰國時代の武將の中で、信長、秀吉、家康を除いて一番有名なのは、加藤清正であらう。芝居にも屢々出て來るし、古來繪草紙繪本などでも子供達に親しまれてゐる。その原因の一つは虎退治である。しかし、虎を退治したのは清正一人でなく、後藤又兵衞なども虎退治してゐるし、第一清正は片鎌槍でなく、鐵砲で射つたと云ふのである。が、後世清正が人氣があるために、虎退治は、清正に限ることになつてしまつたのである。また法華經信者であるために、日蓮宗の方などで、清正を宣傳に利用したゝめに、清正はいよ〳〵人氣者になつたのであらう。 清正は、大閤のまたいとこである。賤ヶ嶽で、例の七本槍の福島、加藤(嘉明)、平野權平、脇坂甚内、糟谷助右衞門、片桐孫作などと一しよに、三千石が增されて、舊知を加へて三千四百七十石であつたのが、天正十六年に肥後半國二十五萬石貰つたのが、二十七才の時である。いくら、功名手柄は勝手次第の時代とは云へ、異常な出世である。
新字:戦国時代の武将の中で、信長、秀吉、家康を除いて一番有名なのは、加藤清正であらう。芝居にも屡々出て来るし、古来絵草紙絵本などでも子供達に親しまれてゐる。その原因の一つは虎退治である。しかし、虎を退治したのは清正一人でなく、後藤又兵衛なども虎退治してゐるし、第一清正は片鎌槍でなく、鉄砲で射つたと云ふのである。が、後世清正が人気があるために、虎退治は、清正に限ることになつてしまつたのである。また法華経信者であるために、日蓮宗の方などで、清正を宣伝に利用したゝめに、清正はいよ〳〵人気者になつたのであらう。 清正は、大閤のまたいとこである。賤ヶ嶽で、例の七本槍の福島、加藤(嘉明)、平野権平、脇坂甚内、糟谷助右衛門、片桐孫作などと一しよに、三千石が增されて、旧知を加へて三千四百七十石であつたのが、天正十六年に肥後半国二十五万石貰つたのが、二十七才の時である。いくら、功名手柄は勝手次第の時代とは云へ、異常な出世である。
書き下し
戰國時代の武將の中で、信長、秀吉、家康を除いて一番有名なのは、加藤清正であらう。芝居にも屢々出て來るし、古來繪草紙繪本などでも子供達に親しまれてゐる。その原因の一つは虎退治である。しかし、虎を退治したのは清正一人でなく、後藤又兵衞なども虎退治してゐるし、第一清正は片鎌槍でなく、鐵砲で射つたと云ふのである。が、後世清正が人氣があるために、虎退治は、清正に限ることになつてしまつたのである。また法華經信者であるために、日蓮宗の方などで、清正を宣傳に利用したゝめに、清正はいよ〳〵人氣者になつたのであらう。 清正は、大閤のまたいとこである。賤ヶ嶽で、例の七本槍の福島、加藤(嘉明)、平野權平、脇坂甚内、糟谷助右衞門、片桐孫作などと一しよに、三千石が增されて、舊知を加へて三千四百七十石であつたのが、天正十六年に肥後半國二十五萬石貰つたのが、二十七才の時である。いくら、功名手柄は勝手次第の時代とは云へ、異常な出世である。
現代語訳
戦国時代の武将の中で、信長、秀吉、家康を除いて一番有名なのは、加藤清正であろう。芝居にもしばしば出てくるし、古来、絵草紙や絵本などでも子供たちに親しまれている。その原因の一つは虎退治である。しかし、虎を退治したのは清正一人ではなく、後藤又兵衛なども虎退治をしているし、そもそも清正は片鎌槍でなく、鉄砲で撃ったというのである。が、後世、清正が人気があるために、虎退治は清正に限ることになってしまったのである。また、法華経信者であるために、日蓮宗の方などで清正を宣伝に利用したため、清正はいよいよ人気者になったのであろう。 清正は、太閤のまたいとこである。賤ヶ岳で、例の七本槍の福島、加藤(嘉明)、平野権平、脇坂甚内、糟屋助右衛門、片桐孫作などと一緒に、三千石が増されて、旧知を加えて三千四百七十石であったのが、天正十六年に肥後半国二十五万石をもらったのが、二十七歳の時である。いくら功名手柄は勝手次第の時代とはいえ、異常な出世である。
解説

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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 虎を自ら討つ胆力○此役、清正大山の麓に陣せしことあり、或夜虎來て馬を中に引提げ虎落の上に飛出たり。清正口惜きことゝなりと怒りけるに、小姓上月左膳をも、虎來て噛み殺せり。清正夜明くると均く山を取卷て虎を狩りたるに、一疋の虎、生茂りたる萱原を掻き分け、清正目掛けて來る。清正大なる岩の上に在りて、鳥銃を持ち狙はるゝに、其間三十間計り、虎、清正を睨みて立止る。人々鳥銃を揃て打んとするを、清正下知して打せず、自ら打た殺さんとの志なり、斯くて虎間近く猛り來り、口を開て飛掛る所を打ちたりしに、咽に打込みたれば、そこに倒れ、起上らんとせしかども、痛手なれば遂に死せり。 ○在韓の諸將連署して、書を秀吉に奉る時、清正の花押の點畫甚だ繁くして、漸々手間取りければ、福島正則冷笑て、死に臨み遺狀を作るに遠かになるべからずと言ふ。清正聞て、我は左は存ぜず、屍を戰場に暴すとも、褥の上にて死んとは思ひ設けず候、左れば遺狀何かし候べきと言ひしかば、正則詞なかりけり。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 譲る心と先に立つ勇彈正右衞門兵衞清忠の子、虎之助と稱す。後從四位下に敍し侍從兼肥後守に任ず。肥後七十二萬石に封ぜられ、熊本城に住す。慶長十六年六月二十四日卒、年五十一。 ○天正九年、秀吉因幡、鳥取を攻めし時、蜂須賀家政を遣はし形勢を覘はしむ。清正之に從ふ、清正曰く、城東の林莽恐くは伏兵あらん、君何ぞ衆を率ゐて往かざる、家政從はず、旣にして伏兵起ろ、清正弓を腰より取り、左右馳射し、敵進むこと能はず、乃ち馬より下り刀を揮ひ、家政と奮戰して、各首二級を獲て還る。秀吉喜びて曰く、清正少なりと雖も、懇懃に、氣雄なり、家政殆んど及ばずと、黃金一鎰を賜はり、秩百石を加ふ。 ○十一年、秀吉、瀧川一益を攻め、龜山を圍む、士卒爭ひ城に登る、城兵近江新七、士衆を勵まし、銃を發し拒戰す。木村十三郎鎗を擧て之を刺んとす、清正旁より馳至り、新七の肩を縱す、十三郎大に怒り其腹を貫く、新七斃る、清正顧みて、我先きに刺すと雖も、之を斃す者は予なりと言て其頭を取らず、秀吉其能く讓るを嘉みし、各賞あり。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 評・朝鮮出兵の武功小田原征伐の時も、從軍しなかつたから、國内戰ではたいした武功はないのである。たゞ、肥後の殘り半國を領してゐた小西行長の一揆退治に加勢して、天草島の猛將木山彈正を十文字槍でかけ倒した位である。この時、十文字槍が折れて、片鎌槍になつたと云ひ、いな最初から、片鎌槍であつたと云ふ兩說である。が、後說が正しい、のであつて、十文字槍が折れたとしても、十文字槍が便利だと思へば、代品はいくらでもあるのだから、折れた槍をそのまゝ片鎌槍で使ふなんて、そんな馬鹿な話はあるわけはない。ことに、折れるやうな槍は、そのまゝ捨てるのが常識である。 清正の武功は、主として朝鮮出兵の時に、立てられたものである。會寧府で、兩王子を擒にして、しかもこれを優遇して、日本武將の襟度を見せたり、蔚山籠城で、頑張つて遂に明軍を擊退して、日本の武威を輝してゐる。 然し、明や朝鮮で清正のことを鬼上官と、云つたなどと云ふのは、怪しいのであつて、日本では鬼は怖しいものになつてゐるが、支那では鬼は幽鬼のことで、鬼と云ふことは、武將の武勇を現はす言葉ではないからである。 清正が、秀頼守護に相當忠實であつたことは事實であり、清正在世中は、家康が大阪城に手を着けなかつたのも、清正を憚つたものと考へられるが、しかし清正が爾後二三十年生きてゐたとしても、豐家の命脈が、續いたかどうかは疑問である。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 三千石から肥後の大国へ○十六年、肥後國主佐々陸奧守成政死を賜はり、讃岐國主尾藤甚右衞門知定國除せらる。之に依り、知定が武器殘らず、清正に下し賜ひ、讃岐國を領すべきや、肥後にて二十五萬石領すべきや、兎角の遲答を申べきとの議なり、此時清正知行三千石なり、近き內に、秀吉征韓の內意之ある由、淺野長政窃に告げゝれば、清正此先鋒を望まん爲め、御請に有り難き段、骨髓に徹し存奉り候、同くは肥後の國にて、拜領仕度と申ければ、秀吉聞て、大氣者哉出來したり、去らば小西攝津守をも呼び候へとて、兩人に肥後國五十四萬石の所を、二十五萬石清正、二十四萬石行長に賜はり、殘りは兩人に預けられたり。諸人皆餘りに過分の望み哉と言ひたるに、秀吉聞て、老功の佐々陸奧守さへ治め兼ねたる大國を、若輩なる、主計頭が望みしは、如何樣見所ある者なりと言はれけり。清正熊本へ入部の時、羽翼の臣三十七騎あり、此三十七騎の者、其節俄に抱へたるにはあらず、皆三千石の身上にて、內々扶持し置きたる者なり、三千石より二十五萬石に封ぜられしは古今希なる出身なり、清正時に年二十八。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 だまされた飯田直景○飯田覺兵衞直景は、武功の士なり、初めは角と云ふ字なりしに、秀吉、覺の字に書替させられし程の者なり、直景曰く、我一生主計頭にだまされたり、初めて軍に出て功名しける時、朋輩多く鳥銃に中りて死したり、危きことよ、早や是までにて、武士の仕へは致す間敷と思ひたるに、歸ろや否、主計頭、時を移さず、今日の働、神妙言はん方なしとて、刀を賜はりき。斯の如く毎度其場を去つては後悔すれども、主計頭、其時を移さず陣羽織、或は感狀を與へ、人々も皆羨みて褒め立たりし故、夫に牽れて止むことを得ず、麾を取り、侍大將と言はれしは、主計頭にだまされて、本意を失ひたるなりと。加藤氏亡て後、京に引籠り再び仕を求めずして居たる時、語りけるとぞ。 ○清正の臣、木村又藏、膂力絶倫なり。大阪の輔臣、秀頼の爲めに一勇夫を選み、之が師と爲さんと欲す。衆又藏を推す、又藏之を聞て曰く、吾生平誓ひ、二君に仕へず、征韓の行、母氏と訣る、亦此言を以て其意を安んず、今我君に後る、而て東大阪に食す、是二君に事るなりと、肚を割て死す。聞く者又藏の志を哀み、而て清正の善く士を養ふを偉なりとす。 ○加藤氏亡びて後ち、熊本は細川氏の治城たり。往年、城墻風雨の爲めに壞らる、將に其柱を易んとす、其柱に隱々に文字あり曰く、是良材得易からざるなり、城外某澤中に沈め置けり。後世之を易る者は取りて用ふべしとなり、依て人を遣はし、其澤を探るに、卽ち材木果して山積其深慮斯の如し。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 刺客を臆病と叱って召す○清正肥後入部の後、一日放鷹に出づ。木陰より誰とも知らぬ大の男走出で、刀を拔て駕籠の眞中を突通す、清正宵の酒に草臥れ、後ろに寄掛り睡眠して居たりし故、身に當らず、駕籠側の者、右の男を搦取る、清正駕籠を据ゑ、何者なれば狼藉なりと尋ねしに、某は所もなく名字もなく、親も子もなく、國右衞門と申者なりと答ふ、子細を嚴しく糺すに、元來棄子にて人となりし故、親兄弟を問へども知らず、一門加藤清正の爲めに亡されたりと云傳ふ計りなり、然らば一度清正を討つて、仇を報ぜんと年來狙ひ廻れども御威勢に壓されて空く月日を送れり、此節を幸に一太刀と思ひ込みけれども、御運に負けて本意を遂げず、無念千萬、言語同斷なり、早や首を刎らるべしと言ふ。清正、聞て天晴肝に毛の生たる曲者哉、汝が一命を助くべし、一念を飜し清正が家來になれと言ふ、國右衞門曰く、忝き仰なれども、御請罷成らず候、其故は一旦御恩を存じ、御奉公仕るとも、數年存込たる念力なれば、逆心を存すべきは必定に候、然らば、早く死を賜はれと望む、其時清正大聲揚げ、兩眼に角を立、己今までは、大剛の者と思ひしに、卑怯千萬の臆病者なりと叱ければ、國右衞門齒噛を爲し臆病とは是非なきことゝ立上る。清正曰く、汝最前一命を捨てずや、實に一命を捨たらば舊染の念は殘すべからず。捨てざる所を臆病とは言ふなり、と瞋て申しゝ時、國右衞門落涙し、有り難き御一言に、乍ち一念晴候、則ち御家來に罷成り御恩を報ずべしと言ふ。清正喜び駕籠より下り是より徒歩にて行くべし、國右衞門刀持てと、腰物を渡し、終日放鷹し、其後彌々側を離れず、段々祿を與へ懇に召使ふ、國右衞門其恩に感じ、蔚山の城にて戰死せり。