名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 参観と髭を譲らぬ返答
然しながら、如何樣大身にはなればとて、大阪着岸の節は、此まで、秀賴公の御機嫌を伺ひしを、今更相止め、大阪を素通りに致したるとあらば、武士の本意に背きたることゝ思へば、相止め難きことに候、次に參觀の節、家來を減少致す樣にとあるは、我等の勝手と云ひ、家中の爲め旁々以て左樣に致度は存ずれども、西國の大名共は、何んぞ御用之ある節は、召寄せらるべく間、夫までは、國元に休息罷在る樣にと仰出され抔、之ある上ならば格別、箇樣に參觀交代を仰付らるゝとのことなれば、存ぜられ候通、我等知行所肥後の國は、海陸遙に相隔り居れば、國元の人數は、急用に相立兼ね申すべし、左すれば少しなりとも、手元に有合たる人數を以て、相應の御奉公をも申上べくとの心掛ならば、人數を減少致すことは相成兼ぬるなり。次に我等面に生へ候むだ鬚剝落しさつぱり致しなば、氣味能かるべしとは、朝夕存ぜざるにては之なけれども、若き時分、此鬚面に頰當を致し、冑の緒をしめたる時の快さ、只今以て忘れ難し、如何に治まりたる代なりとも是又剝兼ぬるなり、其元御申聞けのこと、一つも用ひ申さゞる段、如何と存ぜらるべく候へ共、御聞分け給はり度と言はれけり。正信もあきれはてゝ歸り、其段斯くと申しゝかば、家康聞て、清正と曰ふ者かと、計り言はれて、笑はれしとぞ。
新字:然しながら、如何様大身にはなればとて、大阪着岸の節は、此まで、秀頼公の御機嫌を伺ひしを、今更相止め、大阪を素通りに致したるとあらば、武士の本意に背きたることゝ思へば、相止め難きことに候、次に参観の節、家来を減少致す様にとあるは、我等の勝手と云ひ、家中の為め旁々以て左様に致度は存ずれども、西国の大名共は、何んぞ御用之ある節は、召寄せらるべく間、夫までは、国元に休息罷在る様にと仰出され抔、之ある上ならば格別、箇様に参観交代を仰付らるゝとのことなれば、存ぜられ候通、我等知行所肥後の国は、海陸遥に相隔り居れば、国元の人数は、急用に相立兼ね申すべし、左すれば少しなりとも、手元に有合たる人数を以て、相応の御奉公をも申上べくとの心掛ならば、人数を減少致すことは相成兼ぬるなり。次に我等面に生へ候むだ鬚剥落しさつぱり致しなば、気味能かるべしとは、朝夕存ぜざるにては之なけれども、若き時分、此鬚面に頬当を致し、冑の緒をしめたる時の快さ、只今以て忘れ難し、如何に治まりたる代なりとも是又剥兼ぬるなり、其元御申聞けのこと、一つも用ひ申さゞる段、如何と存ぜらるべく候へ共、御聞分け給はり度と言はれけり。正信もあきれはてゝ帰り、其段斯くと申しゝかば、家康聞て、清正と曰ふ者かと、計り言はれて、笑はれしとぞ。
書き下し
然しながら、如何樣大身にはなればとて、大阪着岸の節は、此まで、秀賴公の御機嫌を伺ひしを、今更相止め、大阪を素通りに致したるとあらば、武士の本意に背きたることゝ思へば、相止め難きことに候、次に參觀の節、家來を減少致す樣にとあるは、我等の勝手と云ひ、家中の爲め旁々以て左樣に致度は存ずれども、西國の大名共は、何んぞ御用之ある節は、召寄せらるべく間、夫までは、國元に休息罷在る樣にと仰出され抔、之ある上ならば格別、箇樣に參觀交代を仰付らるゝとのことなれば、存ぜられ候通、我等知行所肥後の國は、海陸遙に相隔り居れば、國元の人數は、急用に相立兼ね申すべし、左すれば少しなりとも、手元に有合たる人數を以て、相應の御奉公をも申上べくとの心掛ならば、人數を減少致すことは相成兼ぬるなり。次に我等面に生へ候むだ鬚剝落しさつぱり致しなば、氣味能かるべしとは、朝夕存ぜざるにては之なけれども、若き時分、此鬚面に頰當を致し、冑の緒をしめたる時の快さ、只今以て忘れ難し、如何に治まりたる代なりとも是又剝兼ぬるなり、其元御申聞けのこと、一つも用ひ申さゞる段、如何と存ぜらるべく候へ共、御聞分け給はり度と言はれけり。正信もあきれはてゝ歸り、其段斯くと申しゝかば、家康聞て、清正と曰ふ者かと、計り言はれて、笑はれしとぞ。
現代語訳
しかしながら、どれほど大身になったとしても、大坂着岸の折は今まで秀頼公のご機嫌を伺ってきたのを、今さらやめて大坂を素通りしたとなれば、武士の本意に背くことと思うので、やめがたいことです。次に、参勤の際に家来を減らすようにとのことは、私の勝手とも家中のためとも思い、そうしたいとは存じますが、西国の大名どもは、何か御用のある節は召し寄せるから、それまでは国元で休息しているようにと仰せ出されるなど、そうしたことがあれば格別、このように参勤交代を仰せ付けられるとのことなので、ご存じのとおり、私の知行所の肥後国は海陸はるかに隔たっていて、国元の人数は急用に間に合いかねましょう。そうであれば、少しでも手元に有り合わせの人数でもって、相応の御奉公をも申し上げようとの心掛けなら、人数を減らすことはできません。次に、私の顔に生えている無駄な鬚を剃り落としてさっぱりしたら気持ちがよかろうと、朝夕思わないではありませんが、若い時分、この鬚面に頬当てをして冑の緒を締めた時の快さは、ただ今でも忘れがたい。どれほど治まった世であっても、これもまた剃りかねます。あなたのお申し聞けを一つも用いない次第、いかがかと思われるでしょうが、お聞き分けいただきたい、と言った。正信もあきれ果てて帰り、その次第をかくかくと申したところ、家康は聞いて、清正という者か、とだけ言って、笑われたという。
解説

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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 倹約と家康への配慮○清正常に洗濯せし衣類を着し、障子は所々壞れたり所計りを、張替らる。斯る儉約の人なれども、武衞殿浪人の時、合力を庄林隼人に頼みし故、庄林米三百俵遺はさるべくやと申ければ、清正、玄米二千俵遺はすべくと言はれけり。 ○清正嘗て、自ら百姓を指揮し、溝洫を修理せり、時に午刻に及びしかば、何れも中食に就く、中に老農中食の菜に燔鰯を食へる者あり、清正見て汝年は幾くぞと問ひければ、六十有餘と申す。清正、最早六十に及べば、公役にも家僕を出し、身を安佚に爲すべきに、土民の身として、日に魚肉を食ふ、斯く飲食に奢る故、一生體を勞するなり、是口の爲めに、身を苦むるにあらずや、慎むべしと誡められけり。 ○家康、專ら武を偃せ、文を治め、諸大名の武事を講ずることを喜ばず、清正曰く、我深く徳川公の恩を受く、況や公子を以て、女婿と爲す、豈に異心あらんや。然れども、秀頼公、大阪に座まし、吾鎭西に在り、世人疑懼せん、徳川公老いたり、吾其心を安んぜざるべからずと、乃ち歌妓阿國なる者を國に召し、觀棚を造り士庶をして、縱觀せしむ、七日中元士庶に縱し、踏歌せしむ、士庶隊を分ち、演劇す。清正自ら臨觀して、樂みと爲す。又數々散樂を催し、之を視たり。
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名将言行録・『名将言行録』福島正則 大坂の使者を追い返す○此時、大阪より秀吉恩顧の諸大名に使ありける、中にも、正則へは別けての使、林伊兵衞を下さる。伊兵衞關東に着し、正則□兵部少輔を以て、書を正則に渡す。正則之を承はり、定めて今度のこと御頼み遊ばされ度とのことなるべし、我等こと爰許に罷在り候ては心に叶はず御返事申べき樣もなければ、御書見するに及ばず、伊兵衞遠方の所罷趣大儀に候へ共、逢て詞もあらざれば對面に及ばず、早々罷上り申上ぐべし、三年遲し、三年早し、詮なき思召立ち是非もなし、此上は早や返らぬことに候聞、太閤御遺言の如く、自然のことあらば、大阪の城枕と仰置れし通、御城にて御果て候より外なし、又家康、野合の一戰は上手なれども、城攻のことは左程にあらず、是一つ。又太閤御用意の御城無雙の要害是一つ。左すれば、城を御頼み成さるゝ計りなり、此由宜しく申上ぐべしとて、伊兵衞を返しけり。 ○此時、正則は江戸に在り、子備後守正勝は安藝に留守す。正則老臣福島丹波、尾關石見方に使を以て、我太閤の御厚恩を受けしこと、世に隱れなし、汝等兩人覺悟に依て、備後守が武將の譽あるべくは、吾を捨て殺せ、是本望なり、必ず□を残さゞれと、自筆の書を贈られぬ。