名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 冤罪を訴えて駆けつける
○慶長元年、明韓の使者海を渡る。我諸將兵を釜山に留めて、凱旋せり。小西行長、石田三成と共に清正を譛す。依て清正伏見に歸り至りしと雖も、秀吉謁見を許さず。清正增田長盛に就して申救を請ふ。長盛聞て、貴殿、三成と和親せずんば叶ふべからずと言ふ。清正、吾死するとも三成と和することは能はずと言て、第に歸り命を待つ。七月、京畿大風霾地大に震へり。伏見城壞れ、壓死する者數百人、清正吾寧ろ罪を犯すも座視するに忍びずと言て、卽ち卒二百人を從へ馳入て秀吉を警衞す。秀吉、婦人と地に席して座し、清正を見て、其幼き時の名を呼び、阿虎汝の來る何ぞ早かりしや、と言はれければ、清正進み寃を訴へ、地に畫して語り、其軍勢を陳せり。秀吉顧みて、夫人に謂て曰く、彼元と肥哲の丈夫なり、今朝鮮より至る、何ぞ驚且つ倅なると言ひ、則ち命じて門を守らしむ。三成以下踵ぎ至ると雖も、入ることを得ず。命を傳る者あり、特に三成を納れしむ。清正大聲に、其卒に命して曰く、短小の侫竪をして入らしめよと、且日秀吉、清正を召し見、海外の戰狀を推問し、泣を下て曰く、阿虎襁褓より我に育せり、則ち我に頼するなりとありて、遂に愛遇故の如し。
新字:○慶長元年、明韓の使者海を渡る。我諸将兵を釜山に留めて、凱旋せり。小西行長、石田三成と共に清正を譛す。依て清正伏見に帰り至りしと雖も、秀吉謁見を許さず。清正增田長盛に就して申救を請ふ。長盛聞て、貴殿、三成と和親せずんば叶ふべからずと言ふ。清正、吾死するとも三成と和することは能はずと言て、第に帰り命を待つ。七月、京畿大風霾地大に震へり。伏見城壊れ、圧死する者数百人、清正吾寧ろ罪を犯すも座視するに忍びずと言て、即ち卒二百人を従へ馳入て秀吉を警衛す。秀吉、婦人と地に席して座し、清正を見て、其幼き時の名を呼び、阿虎汝の来る何ぞ早かりしや、と言はれければ、清正進み冤を訴へ、地に画して語り、其軍勢を陳せり。秀吉顧みて、夫人に謂て曰く、彼元と肥哲の丈夫なり、今朝鮮より至る、何ぞ驚且つ倅なると言ひ、則ち命じて門を守らしむ。三成以下踵ぎ至ると雖も、入ることを得ず。命を伝る者あり、特に三成を納れしむ。清正大声に、其卒に命して曰く、短小の侫竪をして入らしめよと、且日秀吉、清正を召し見、海外の戦状を推問し、泣を下て曰く、阿虎襁褓より我に育せり、則ち我に頼するなりとありて、遂に愛遇故の如し。
書き下し
○慶長元年、明韓の使者海を渡る。我諸將兵を釜山に留めて、凱旋せり。小西行長、石田三成と共に清正を譛す。依て清正伏見に歸り至りしと雖も、秀吉謁見を許さず。清正增田長盛に就して申救を請ふ。長盛聞て、貴殿、三成と和親せずんば叶ふべからずと言ふ。清正、吾死するとも三成と和することは能はずと言て、第に歸り命を待つ。七月、京畿大風霾地大に震へり。伏見城壞れ、壓死する者數百人、清正吾寧ろ罪を犯すも座視するに忍びずと言て、卽ち卒二百人を從へ馳入て秀吉を警衞す。秀吉、婦人と地に席して座し、清正を見て、其幼き時の名を呼び、阿虎汝の來る何ぞ早かりしや、と言はれければ、清正進み寃を訴へ、地に畫して語り、其軍勢を陳せり。秀吉顧みて、夫人に謂て曰く、彼元と肥哲の丈夫なり、今朝鮮より至る、何ぞ驚且つ倅なると言ひ、則ち命じて門を守らしむ。三成以下踵ぎ至ると雖も、入ることを得ず。命を傳る者あり、特に三成を納れしむ。清正大聲に、其卒に命して曰く、短小の侫竪をして入らしめよと、且日秀吉、清正を召し見、海外の戰狀を推問し、泣を下て曰く、阿虎襁褓より我に育せり、則ち我に頼するなりとありて、遂に愛遇故の如し。
現代語訳
慶長元年、明と朝鮮の使者が海を渡って来ました。我が方の諸将は兵を釜山に残して凱旋しました。小西行長が石田三成とともに清正をそしりました。それで清正は伏見に帰り着きましたが、秀吉は謁見を許しません。清正は増田長盛に取りなしを頼みました。長盛は聞いて、「あなたは三成と和親しなければなりません」と言いました。清正は、「私が死んでも、三成と和することはできない」と言って、屋敷に帰って命を待ちました。七月、京畿に大風と砂塵が起こり、地が大いに震えました。伏見城が壊れ、圧死する者が数百人に及びました。清正は、「私はむしろ罪を犯すことになっても、座視するに忍びない」と言って、すぐに兵卒二百人を従えて駆け入り、秀吉を警衛しました。秀吉は夫人とともに地に席を敷いて座っており、清正を見ると、その幼いころの名を呼び、「阿虎、おまえの来るのはなんと早かったことか」と言われました。清正は進み出て冤罪を訴え、地に図を描いて語り、その軍勢を陳べました。秀吉は振り返り、夫人に、「彼はもとから肥えた立派な男だ。今、朝鮮から来て、どうして驚き、また慌てているのか」と言い、すぐに命じて門を守らせました。三成以下がかかとを接して至りましたが、入ることができません。命を伝える者があり、特に三成を入れさせようとしました。清正は大声で、その兵卒に、「短小の佞臣を入らせよ」と命じました。また、ある日、秀吉は清正を召し見て、海外の戦況を尋ね問い、涙を流して、「阿虎は産着のころから我が方に育った。つまり我に頼るのである」と言い、ついに愛遇は以前のようになりました。
解説

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