名将言行録 / 『名将言行録』可兒吉長 笹の葉の首と先陣
才藏と稱し、福島正則に仕ふ、慶長十八年六月二十四日卒、年六十。 ○吉長、初め森長一に仕ふ。長一諏訪山の城及び、大森上惠等の塞を拔き、梶田に屯し、首級を檢し、四百六十餘級を獲たり。吉長僅に三首を提げ來りて言ふ、十六級を獲たりと、長一其故を問ふ。對て曰く、獲る所多く之を棄つと、長一曰く、四百六十餘盡く獲主あり、子が獲る所證あるか。曰く、臣獲る所皆篠の葉を啣ませたりと。是に於て長一命じて點檢せしむるに、首十三級を得たり。是より世に篠才藏と稱すと云ふ。 ○長湫の役、秀次味方敗れし由を聞て、急に旗本を進めらる。此時吉長は秀次の近習にて遙に先きに掛りしが、其儘馬を乘返し來るに付、秀次見て、才藏日頃の口に違ひ還なし返せと言はる。吉長此敵は鎗のなる敵にて之なし、御馬を返され候へと申せども、夫にも構はず三度まで返せと言はる。吉長、勝てば勝つ程、備固まり、段々後勢次第に續き來り候、是に達ては鎗を致すべき樣なしと申せども、猶承引なし、吉長腹を立、屎食はしめせと言て引退きたり。果して其言の如く、秀次の勢一溜りもせず、敗軍し、池田信輝を始め、戰死せり。 ○吉長の臣に、竹內久右衞門と曰ふ者あり。覺の士なり、何つにても吉長地行の半を分ち與ふ。長湫の役、秀次敗軍せしを、秀吉怒て吉長を咎む、之に依り、吉長日陰者になりて居けるを、正則七百石にて召抱へり、吉長卽ち三百五十石を分けて久右衞門に與へり。
新字:才蔵と称し、福島正則に仕ふ、慶長十八年六月二十四日卒、年六十。 ○吉長、初め森長一に仕ふ。長一諏訪山の城及び、大森上恵等の塞を抜き、梶田に屯し、首級を検し、四百六十余級を獲たり。吉長僅に三首を提げ来りて言ふ、十六級を獲たりと、長一其故を問ふ。対て曰く、獲る所多く之を棄つと、長一曰く、四百六十余尽く獲主あり、子が獲る所証あるか。曰く、臣獲る所皆篠の葉を啣ませたりと。是に於て長一命じて点検せしむるに、首十三級を得たり。是より世に篠才蔵と称すと云ふ。 ○長湫の役、秀次味方敗れし由を聞て、急に旗本を進めらる。此時吉長は秀次の近習にて遥に先きに掛りしが、其儘馬を乗返し来るに付、秀次見て、才蔵日頃の口に違ひ還なし返せと言はる。吉長此敵は鎗のなる敵にて之なし、御馬を返され候へと申せども、夫にも構はず三度まで返せと言はる。吉長、勝てば勝つ程、備固まり、段々後勢次第に続き来り候、是に達ては鎗を致すべき様なしと申せども、猶承引なし、吉長腹を立、屎食はしめせと言て引退きたり。果して其言の如く、秀次の勢一溜りもせず、敗軍し、池田信輝を始め、戦死せり。 ○吉長の臣に、竹内久右衛門と曰ふ者あり。覚の士なり、何つにても吉長地行の半を分ち与ふ。長湫の役、秀次敗軍せしを、秀吉怒て吉長を咎む、之に依り、吉長日陰者になりて居けるを、正則七百石にて召抱へり、吉長即ち三百五十石を分けて久右衛門に与へり。
書き下し
才藏と稱し、福島正則に仕ふ、慶長十八年六月二十四日卒、年六十。 ○吉長、初め森長一に仕ふ。長一諏訪山の城及び、大森上惠等の塞を拔き、梶田に屯し、首級を檢し、四百六十餘級を獲たり。吉長僅に三首を提げ來りて言ふ、十六級を獲たりと、長一其故を問ふ。對て曰く、獲る所多く之を棄つと、長一曰く、四百六十餘盡く獲主あり、子が獲る所證あるか。曰く、臣獲る所皆篠の葉を啣ませたりと。是に於て長一命じて點檢せしむるに、首十三級を得たり。是より世に篠才藏と稱すと云ふ。 ○長湫の役、秀次味方敗れし由を聞て、急に旗本を進めらる。此時吉長は秀次の近習にて遙に先きに掛りしが、其儘馬を乘返し來るに付、秀次見て、才藏日頃の口に違ひ還なし返せと言はる。吉長此敵は鎗のなる敵にて之なし、御馬を返され候へと申せども、夫にも構はず三度まで返せと言はる。吉長、勝てば勝つ程、備固まり、段々後勢次第に續き來り候、是に達ては鎗を致すべき樣なしと申せども、猶承引なし、吉長腹を立、屎食はしめせと言て引退きたり。果して其言の如く、秀次の勢一溜りもせず、敗軍し、池田信輝を始め、戰死せり。 ○吉長の臣に、竹內久右衞門と曰ふ者あり。覺の士なり、何つにても吉長地行の半を分ち與ふ。長湫の役、秀次敗軍せしを、秀吉怒て吉長を咎む、之に依り、吉長日陰者になりて居けるを、正則七百石にて召抱へり、吉長卽ち三百五十石を分けて久右衞門に與へり。
現代語訳
才蔵と称し、福島正則に仕えた。慶長十八年六月二十四日に没した。年は六十。 吉長は、初め森長一に仕えた。長一が諏訪山の城および大森、上恵らの砦を攻め落とし、梶田に陣を構え、首級を検分したところ、四百六十余の首級を得ていた。吉長はわずかに三つの首を提げてきて、十六の首級を得たと言った。長一がその理由を尋ねると、答えて、得た首は多かったのですがこれを捨てました、と言った。長一が、四百六十余はみな取った主がいる。おまえが取ったという証拠があるのか、と言うと、臣が取った首にはみな笹の葉をくわえさせてあります、と言った。そこで長一が命じて点検させると、十三の首が得られた。このときから世に笹の才蔵と称されたという。 長久手の役で、秀次は味方が敗れたことを聞いて、急いで旗本を進めた。このとき吉長は秀次の近習で、はるか先に進んでいたが、そのまま馬を乗り返してきたので、秀次はこれを見て、才蔵、日ごろの言葉と違い、引き返してきたのか、返せ、と言われた。吉長は、この敵は槍の合う敵ではございません、お馬をお返しくださいと申したが、それでも聞き入れず、三度まで返せと言われた。吉長は、勝てば勝つほど備えが固まり、段々と後勢が続いて来ます、こうなってはもう槍を使うべきようもありませんと言ったが、なお承引しなかった。吉長は腹を立て、糞食らえと言って引き退いた。はたしてその言葉どおり、秀次の勢はひとたまりもなく敗軍し、池田信輝をはじめ戦死した。 吉長の家臣に、竹内久右衛門という者がいた。覚えのある士であった。どんなときにも吉長の知行の半分を分け与えた。長久手の役で秀次が敗軍したことを、秀吉が怒って吉長を咎めた。このため、吉長は日陰者となっていたのを、正則が七百石で召し抱えた。吉長はすぐに三百五十石を分けて久右衛門に与えた。
解説

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名将言行録・『名将言行録』可兒吉長 年寄っても人による○吉長は隱れなき覺の者にて、篠の指物せし故、世に篠の才藏と曰はれたり、廣島に在りし時、若士共集まり、語つて曰く、何程の覺の者も、老衰してはなるべからず。心こそ猛くとも、若年とは違はめと。吉長聞て、年寄ても人に寄るべしと言ふ。若士曰く、何程剛の者にても、足手弱くして叶ふべからずと。吉長聞て、否々人に寄るべしと言たり。吉長老年まで甲冑兵仗を帶し、馬に乘り走り廻はるに、若士にも越えたり、少年より愛宕を信仰して、常々我は愛宕の緣日に死なんと語りしが、果して六月二十四日、身を清め、物具して長刀を持ち、床几に腰を掛けながら息絶えたり。遺言にて、廣島矢賀に葬る。銘に曰く、尾州羽黑郡住人、可兒才藏吉長と書付けたり。往來の人、心あるは墓前にて馬より下りしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』福島正則 槍の錆と鞘の中○正則の士、夫銀取過ぎたりとて、廣島の百姓六人江戸へ來り、目安を以て訴へたり。正則之を聞き、臺所役人に、遠方罷越せしことなれば、隨分馳走せよと申付ける、百姓共は大に喜び居たりしが、士は肩唾を呑みて居たりけり。四五日過ぎしかば、彼百姓六人を白洲に呼出し、悉く首を剿たり。正則曰く、銀五百目や、六百目のことにて、正則が先途を見屆けんとて、不便なる妻子を捨る士共へ迷惑させんこと思ひも寄らず、愕々懼き百姓共哉と言はれければ、諸士皆感涙を流せり。 ○正則、或日城を出る時、門外の石垣に鎗立掛けあるを見て、あれは誰が鎗なるぞ、日當りに立置きては、汗をかくものなれば、置き直せと申けるを、歩行者狼狽へ、尚ほ日當りに持行きたり。正則腹立し、自身取て置直すとて、鞘を拔て見るに、赤く鏽たり。正則皆拔くに及ばず、士の一本道具を鏽さする腰拔奴、誰が鎗なるぞと罵りて投捨る、其鎗は可兒才藏吉長の鎗なり、吉長憤怒し、先を見給へと言ふ。正則叉取つて先を見るに、鎗先三寸程氷の如く研立たり。吉長憤り、鎗は先にて突くものにて候と言ふ。正則大に驚き、其儘鞘に納め、押戴て自身立掛け置しとぞ。