名将言行録 / 『名将言行録』福島正則 弓は袋に入る
○元和五年六月、正則罪ありて、安藝、備後兩國悉く收公せられて、津輕の地に移さるゝの命あり。正則其旨を承はり、漸々ありて後、大御所世に座ます時ならば、正則申すべきことありなん、當代に向ひ參らせて、何事をか申すべき、兎も角にも仰にこそ從ふべけれと申しければ、聞く人感涙をぞ催しける、秀忠も此由を聞き、哀れにや思はれけん、同七月三日津輕のことは餘りに遠境なればとて、信濃國河中島に安置せられ、越後、信濃の國々にて、七萬石の所領を賜はりける。 ○此時正則の家臣、正則に向ひ、去りとは是程までの御武功にて渡らせ給ふを、如何なることにやと申しければ、正則聞て、弓を見よ、敵ある時は重寶言ふべからず、治國なれば袋に入れて土藏に入るなり、我は弓なり、亂世の用なり、今治世なれば、川中島の土藏に入れらるゝなりと言ひしとぞ。
新字:○元和五年六月、正則罪ありて、安芸、備後両国悉く収公せられて、津軽の地に移さるゝの命あり。正則其旨を承はり、漸々ありて後、大御所世に座ます時ならば、正則申すべきことありなん、当代に向ひ参らせて、何事をか申すべき、兎も角にも仰にこそ従ふべけれと申しければ、聞く人感涙をぞ催しける、秀忠も此由を聞き、哀れにや思はれけん、同七月三日津軽のことは余りに遠境なればとて、信濃国河中島に安置せられ、越後、信濃の国々にて、七万石の所領を賜はりける。 ○此時正則の家臣、正則に向ひ、去りとは是程までの御武功にて渡らせ給ふを、如何なることにやと申しければ、正則聞て、弓を見よ、敵ある時は重宝言ふべからず、治国なれば袋に入れて土蔵に入るなり、我は弓なり、乱世の用なり、今治世なれば、川中島の土蔵に入れらるゝなりと言ひしとぞ。
書き下し
○元和五年六月、正則罪ありて、安藝、備後兩國悉く收公せられて、津輕の地に移さるゝの命あり。正則其旨を承はり、漸々ありて後、大御所世に座ます時ならば、正則申すべきことありなん、當代に向ひ參らせて、何事をか申すべき、兎も角にも仰にこそ從ふべけれと申しければ、聞く人感涙をぞ催しける、秀忠も此由を聞き、哀れにや思はれけん、同七月三日津輕のことは餘りに遠境なればとて、信濃國河中島に安置せられ、越後、信濃の國々にて、七萬石の所領を賜はりける。 ○此時正則の家臣、正則に向ひ、去りとは是程までの御武功にて渡らせ給ふを、如何なることにやと申しければ、正則聞て、弓を見よ、敵ある時は重寶言ふべからず、治國なれば袋に入れて土藏に入るなり、我は弓なり、亂世の用なり、今治世なれば、川中島の土藏に入れらるゝなりと言ひしとぞ。
現代語訳
元和五年六月、正則は罪があって、安芸、備後の両国をことごとく没収され、津軽の地へ移されるとの命があった。正則はその旨を承って、しばらくたって、大御所(家康)が世におられる時であれば、正則に申すべきこともあろうが、当代(秀忠)に向かって何を申すことがあろう。ともかくも仰せに従うまでだ、と申したので、聞く人は感涙を催した。秀忠もこのことを聞き、哀れに思われたのだろうか、同じ七月三日、津軽は余りに遠い辺境だとして、信濃国川中島に安置され、越後、信濃の国々で七万石の所領を賜った。 このとき正則の家臣が、正則に向かって、これほどのご武功のおありになるのに、どうしてこのようなことになるのでしょう、と申したところ、正則は聞いて、弓を見よ。敵のあるときは重宝というまでもないが、国が治まれば袋に入れて土蔵に納める。我は弓なのだ。乱世の用なのだ。今は治世であるから、川中島の土蔵に入れられるのだ、と言ったという。
解説

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名将言行録・『名将言行録』福島正則 狭間潜りに散った家臣○安藝、備後兩國收公の由、廣島へ聞えければ、老臣福島丹波守治重家中の士共へ、今度兩國受取りとして數輩下向之ある由聞えけれども、主君の生死不分明に依り、何れも籠城して主君の生死を糾すべし、面々妻子引具して、申の下刻までに籠城あるべし、右の刻限延引せば狹間潜りの帳に記すべしと相觸る。諸士七つ時前に悉く城に籠る。其内馬廻の士二人、遠方へ出て知らず。此觸を下人走り行て告ぐ、二人驚き馳せ歸ると雖も、刻限過ぎたる故、門を閉ぢて入れざるに付、一人は力なくして歸る。今一人は種々詫ると雖も、用ひざる時に、高聲に呼で申様、吾遠方に行き心ならず延引す、然るに理不盡に門に入れず、入らざらんと欲せば、狹間潜りの數なり、豈勇士たる者、名に於て生きらるべきやと言て、自害す。番人驚き出で之を差留むと雖も、忽ち死す。治重聞て甚だ之を惜む。其士は林龜之丞と曰ふ者なり。正則の士を養ふの厚きの致す所、率ね斯の如し。去ればにや、福島家の浪人餘多ありしと雖も、諸藩爭て召抱し故、一人も殘りし者なかりしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』福島正則 家老が選んだ家の存続○之に依り丹波石見、正勝の前に出て、丹波曰く、今度大阪に與力せられなば、其勢を以て大阪に服歸する者多からん、大阪方勝利ならんには、福島家の繁榮は勿論なり、又大阪方打負け自害すとも、武名後昆に傳はらん、關東に一味したりとも、定めて本意とは思はれじ、且つ世間の誹も口惜かるべし、石見は如何思はれしやとありければ、石見之を聞き、尤もなり、去れども、目前に父公を捨殺し給はんこと、天命の絶する所、人情の惡む所なり、天下の大軍を引受け、大阪方の勝利ならんこと、主の道、將の能を比するに千に一利もあるべからず、然らば即ち時勢を慮り家を立、身を存せんこそ宜しかるべけれ、と言ければ、石見が議に任せて、關東にぞ興しける。 ○太阪參役、正則江戸に在り、城堅固にて落難しと注進ありければ、正則聞き、要害宜き城に、名ある浪人共籠りし故と言ふ。又頓て落去に及ぶべしとありければ、正則城は持手貴手に寄れば、覺悟の前よと言ふ、又扱に成り、無事に濟むと申すとの注進を聞や否や、氣を打ち南無三寶、去ればこそして、城は取られたると言はれけり。 ○正則曰く、馬上にて鎗を以て人を突く時は、不圖落馬することあり、馬に突せたるが宜しと。又曰く、馬は小なるが宜し、具足著て大馬に乘り惡きものなり。又鎗を短くすべからず、廣場足入船軍杯には、一寸も長くしたきものなりと。
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名将言行録・『名将言行録』福島正則 降った者に手を出させない(註:吉田は、今の豐橋である。) ○此役、織田秀信力盡きて降參し、少勢にて諸將の備の中を通り、高野山に行かんとす。時に秀信を擒にすべしと言ふ者あり、正則之を聞き士は約に違ふを以て恥と爲す。和睦既に成て、軍を止めしを陷るは武の冥利盡る所なりと、固く制止せし故、事故なく何れも通せしとぞ。 ○此役、秀信の臣、木造左衞門佐長正奮戰し手負ひて、岐阜近き民家に居けるを、正則聞て使者を遣はし、今日の手負心元なし、醫師を申付べきやとありければ、長正、御懇志誠に忘れ難し、御邊見給ふ如く、薄手なれば、聊か御氣遣なき樣に申されて賜はるべしと言へり。其後前田利長招けども行かず、正則の招に應じて二萬石を食めり。
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名将言行録・『名将言行録』福島正則 評・正則の不覚と家臣の見事さ○大閤取立ての大名中、剛強を以て聞えた武將である。よく士心を得て、その旗下に剛強の士を多く集めたことを見ても、攻城野戰の大將としては、申分ないが、しかし、うまく德川のために操られて、使ふだけは使はれて、德川の天下が安定すると、手がるに改易されたのでは、あまりにダラシがない。蒲生にしろ、兩加藤にしろ、第二世になつて廢絶したのだが、福島だけは當人の在世中に、取り潰されたのだから、正則自身の不覺と云ふ外はない。當時、大阪城を見殺しにしたと云ふ非難も相當受けたらしい。當時、正則が乾坤一擲の氣持で、大阪へ入城したら、家康も相當手古ずつたに相違なく、形勢の推移に依つては、再び天下の大變となつて、豐臣家が再興されたかも分らない。また、たとひ敗れたとして、正則の武名は眞田幸村に數倍して、後世に傳はつただらう。大閤は、あまりにその家臣を大名に取り立て過ぎた。大名に取り立て、封土やそれ等を多く持たすと、やはり一身一家のことを考へ出すものだと云ふ批判があるのも、正則などの場合を云ふのであらう。正則が、大阪城を見殺しにしたゝめ、暗に天下の非難を蒙むると、德川の方はそれに乘じて取り潰しにかゝるのだから、敵はない。改易の時の家臣の態度が、見事であつた事は、正則として唯一の慰めであつたに違ひない。 家臣の中、可兒吉則、福島治金、大崎長行、吉村宣光などは、いづれも當時天下に聞えた侍大將であつた。その中可兒吉長だけを、載せて置く。
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名将言行録・『名将言行録』福島正則 槍の錆と鞘の中○正則の士、夫銀取過ぎたりとて、廣島の百姓六人江戸へ來り、目安を以て訴へたり。正則之を聞き、臺所役人に、遠方罷越せしことなれば、隨分馳走せよと申付ける、百姓共は大に喜び居たりしが、士は肩唾を呑みて居たりけり。四五日過ぎしかば、彼百姓六人を白洲に呼出し、悉く首を剿たり。正則曰く、銀五百目や、六百目のことにて、正則が先途を見屆けんとて、不便なる妻子を捨る士共へ迷惑させんこと思ひも寄らず、愕々懼き百姓共哉と言はれければ、諸士皆感涙を流せり。 ○正則、或日城を出る時、門外の石垣に鎗立掛けあるを見て、あれは誰が鎗なるぞ、日當りに立置きては、汗をかくものなれば、置き直せと申けるを、歩行者狼狽へ、尚ほ日當りに持行きたり。正則腹立し、自身取て置直すとて、鞘を拔て見るに、赤く鏽たり。正則皆拔くに及ばず、士の一本道具を鏽さする腰拔奴、誰が鎗なるぞと罵りて投捨る、其鎗は可兒才藏吉長の鎗なり、吉長憤怒し、先を見給へと言ふ。正則叉取つて先を見るに、鎗先三寸程氷の如く研立たり。吉長憤り、鎗は先にて突くものにて候と言ふ。正則大に驚き、其儘鞘に納め、押戴て自身立掛け置しとぞ。