名将言行録 / 『名将言行録』大谷吉隆 寝返りの誘いを断る
○井伊直政、本多忠勝相議し、使者を我に遣はして曰く、太閤薨去ありて後、四人の大老、五人の奉行、内府の權柄を嫉み、動もすれば、徒黨を爲す所に、貴殿御同意なかりしこと、内々祝著あり、然るに、此度御志替はり、例の徒黨に組せらろ、是偏に御滅亡を招き給ふと言ふものなり。貴殿其先非を改め給ひ、内府と御一味あるに於ては、越前半國を知らせ給ふ樣に、兩人計らひ申べく、此事御疑候はゞ、連判の起請文を參らせ申べきとなり。吉隆返答に、太閤隱くれさせ給ひて後、四老五奉行相共に内府の私曲を正さん爲め、度々相談に及ぶと雖ども、我等は數年病氣なれば、彼密談に立入らず、是私の因を思ふて、内府を最屓するあらず、内府も此旨御存じの所なるに、常々祝著せられしとあるは、心得難き其一なり。次に此度義兵に屬し、天下の存亡を一擧に爭ふ、假令味方の謀に於て勝敗計り難くと雖も、降參不義の名を取らんや、然るに猥りに、我を誘する、是心得難き其二なり、次に内府の旗下に屬するに於ては、越前半國を賜はる樣に、兩人計らはるべきとあるに付、事新敷申すことなれども、大閤未だ御在世の時、越前敦賀の城主となり、六萬石餘の地を領し、奉行の列に備はりしこと、身に餘りし官祿なり、殊に拙者難治の病を受けて、勤仕成り難きに依て、官祿を辭退せしは、面々も知らるゝ所ならん。君より賜ふ地行と云ひ、然も御許容なかりしを强へ、度々辭したる病者なるに、内府の加恩に預るべきや、是心得難き其三なり。猶兩人に面談せば、言ふべき理あれども、人傳には無益のことなり。又井伊、本多兩人は、内府幼少より召使はれ、不便を加へらるゝ故、彼兩人も未だ外に主取と申ことなく、御取立故、斯くは内府に忠を入らるゝものなり、然らば、秀家、景勝、輝元の幼君の御爲めとせらるゝ志は、推量にもあるべきことなるに、一揆謀反人の扱も、兩人には似合はぬ計らひなり。
新字:○井伊直政、本多忠勝相議し、使者を我に遣はして曰く、太閤薨去ありて後、四人の大老、五人の奉行、内府の権柄を嫉み、動もすれば、徒党を為す所に、貴殿御同意なかりしこと、内々祝著あり、然るに、此度御志替はり、例の徒党に組せらろ、是偏に御滅亡を招き給ふと言ふものなり。貴殿其先非を改め給ひ、内府と御一味あるに於ては、越前半国を知らせ給ふ様に、両人計らひ申べく、此事御疑候はゞ、連判の起請文を参らせ申べきとなり。吉隆返答に、太閤隠くれさせ給ひて後、四老五奉行相共に内府の私曲を正さん為め、度々相談に及ぶと雖ども、我等は数年病気なれば、彼密談に立入らず、是私の因を思ふて、内府を最屓するあらず、内府も此旨御存じの所なるに、常々祝著せられしとあるは、心得難き其一なり。次に此度義兵に属し、天下の存亡を一挙に争ふ、仮令味方の謀に於て勝敗計り難くと雖も、降参不義の名を取らんや、然るに猥りに、我を誘する、是心得難き其二なり、次に内府の旗下に属するに於ては、越前半国を賜はる様に、両人計らはるべきとあるに付、事新敷申すことなれども、大閤未だ御在世の時、越前敦賀の城主となり、六万石余の地を領し、奉行の列に備はりしこと、身に余りし官禄なり、殊に拙者難治の病を受けて、勤仕成り難きに依て、官禄を辞退せしは、面々も知らるゝ所ならん。君より賜ふ地行と云ひ、然も御許容なかりしを強へ、度々辞したる病者なるに、内府の加恩に預るべきや、是心得難き其三なり。猶両人に面談せば、言ふべき理あれども、人伝には無益のことなり。又井伊、本多両人は、内府幼少より召使はれ、不便を加へらるゝ故、彼両人も未だ外に主取と申ことなく、御取立故、斯くは内府に忠を入らるゝものなり、然らば、秀家、景勝、輝元の幼君の御為めとせらるゝ志は、推量にもあるべきことなるに、一揆謀反人の扱も、両人には似合はぬ計らひなり。
書き下し
○井伊直政、本多忠勝相議し、使者を我に遣はして曰く、太閤薨去ありて後、四人の大老、五人の奉行、内府の權柄を嫉み、動もすれば、徒黨を爲す所に、貴殿御同意なかりしこと、内々祝著あり、然るに、此度御志替はり、例の徒黨に組せらろ、是偏に御滅亡を招き給ふと言ふものなり。貴殿其先非を改め給ひ、内府と御一味あるに於ては、越前半國を知らせ給ふ樣に、兩人計らひ申べく、此事御疑候はゞ、連判の起請文を參らせ申べきとなり。吉隆返答に、太閤隱くれさせ給ひて後、四老五奉行相共に内府の私曲を正さん爲め、度々相談に及ぶと雖ども、我等は數年病氣なれば、彼密談に立入らず、是私の因を思ふて、内府を最屓するあらず、内府も此旨御存じの所なるに、常々祝著せられしとあるは、心得難き其一なり。次に此度義兵に屬し、天下の存亡を一擧に爭ふ、假令味方の謀に於て勝敗計り難くと雖も、降參不義の名を取らんや、然るに猥りに、我を誘する、是心得難き其二なり、次に内府の旗下に屬するに於ては、越前半國を賜はる樣に、兩人計らはるべきとあるに付、事新敷申すことなれども、大閤未だ御在世の時、越前敦賀の城主となり、六萬石餘の地を領し、奉行の列に備はりしこと、身に餘りし官祿なり、殊に拙者難治の病を受けて、勤仕成り難きに依て、官祿を辭退せしは、面々も知らるゝ所ならん。君より賜ふ地行と云ひ、然も御許容なかりしを强へ、度々辭したる病者なるに、内府の加恩に預るべきや、是心得難き其三なり。猶兩人に面談せば、言ふべき理あれども、人傳には無益のことなり。又井伊、本多兩人は、内府幼少より召使はれ、不便を加へらるゝ故、彼兩人も未だ外に主取と申ことなく、御取立故、斯くは内府に忠を入らるゝものなり、然らば、秀家、景勝、輝元の幼君の御爲めとせらるゝ志は、推量にもあるべきことなるに、一揆謀反人の扱も、兩人には似合はぬ計らひなり。
現代語訳
井伊直政と本多忠勝が相談し、使者を私に遣わして言った。太閤が亡くなったあと、四人の大老と五人の奉行が内府の権力をねたみ、ともすれば徒党を組むなかで、貴殿が同意されなかったことを内々に喜んでいた。ところが今度は考えを変えられ、例の徒党に加わられた。これはひとえに御身の滅亡を招くものである。貴殿がこれまでの誤りを改め、内府と一味されるなら、越前半国を領されるよう両人が取り計らう。このことを疑われるなら、連判の起請文を差し上げよう、ということである。吉隆は返答した。太閤が亡くなったあと、四老五奉行がともに内府の私曲を正すために、たびたび相談はあったが、我らは数年来病気のため、その密談には立ち入らなかった。これは私の恩を思って内府をひいきしたわけではない。内府もこの旨はご存じのはずなのに、常々喜んでいたというのは、納得しがたい。その一である。次に、この度の義兵に属し、天下の存亡を一挙に争う。たとえ味方の謀で勝敗は計りがたくても、降参して不義の名を取るわけにはいかない。それなのにみだりに私を誘うのは、納得しがたい。その二である。次に、内府の旗下に属するなら越前半国を賜るよう両人が計らうというが、今さらのことながら、太閤がご在世のとき、越前敦賀の城主となり、六万石余りを領して奉行の列に加わったのは、身に余る官禄であった。ことに私は難治の病を受けて勤めを果たせなくなったため官禄を辞退したことは、皆も知っていよう。主君から賜った知行でさえ、お許しがないのに強いて度々辞退した病者が、内府の加恩にあずかることがあろうか。これは納得しがたい、その三である。なお両人に面談すれば言うべき理もあるが、人づてでは無益である。また井伊、本多の両人は、内府が幼少より召し使い、目をかけられたため、ほかに主取りをすることなく、取り立てられた恩ゆえに内府に忠を尽くしているのだ。ならば、秀家、景勝、輝元が幼君のためにと志す気持ちは推し量れるはずなのに、一揆、謀反人の扱いをするのは、両人に似合わない計らいである。
解説

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