名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 信綱を弁護した一言
○松平信綱、島原にての指麾宜しからずと聞えしかば、歸府の後、家光目見なし、時に宗茂、家光の前に出、島原のこと申述、偖今度若き伊豆守差下されし義、如何と存ぜし所に、物每に痒き所に手の屆く樣に、捌き申したるを見聞仕り、驚入候と申しゝ時、家光伊豆守こと不屈なることゝ之ある樣、承はり及びし所に、其方申分相違の樣に存ずると言はる。宗茂、箇樣の大なることに端々の者まで殘らず能きと申には成り申さゞるものにて候、善惡ともに落着の首尾合ふ合はぬにて、御勘辨あるべき義かと申ければ、尤もの由言はれて、信綱目見申付られたり。宗茂退出の後、立花が壽命長くしても、長かれかしと存ずると言はれしとぞ。 ○立花壹岐、宗茂に向ひ、何某事數年御奉公を能く相勤候、少地にても賜はり候はゞ、如何あろべきやと申ければ、宗茂聞て、此以前結城宰相殿、家康公へ、戸田三郎右衞門は數年の間、御奉公能く仕候間、御加恩仰付られ然るべきやとの取合に、家康公仰られ候は、小刀は度々便ひて用を達すれども、さして馳走せず、刀脇差は一代多くて、五度か三度か命をかばふ用に立つる故、殊の外崇敬するなりと計り仰せられけると言けるとぞ。 ○宗茂曰く、數年試みるに、人々戰場にて働きたることを、後には是非ともに飾立て申たがるものなり、是は我身ながらも、少し足らぬと存ずる故、申すにて之あるべし、未だ足らぬ働きと思はず、誠の侍たる道を存ぜしものなり。少しの働きを自慢することの多きは、是非に及ばざることなりと。
新字:○松平信綱、島原にての指麾宜しからずと聞えしかば、帰府の後、家光目見なし、時に宗茂、家光の前に出、島原のこと申述、偖今度若き伊豆守差下されし義、如何と存ぜし所に、物毎に痒き所に手の届く様に、捌き申したるを見聞仕り、驚入候と申しゝ時、家光伊豆守こと不屈なることゝ之ある様、承はり及びし所に、其方申分相違の様に存ずると言はる。宗茂、箇様の大なることに端々の者まで残らず能きと申には成り申さゞるものにて候、善悪ともに落着の首尾合ふ合はぬにて、御勘弁あるべき義かと申ければ、尤もの由言はれて、信綱目見申付られたり。宗茂退出の後、立花が寿命長くしても、長かれかしと存ずると言はれしとぞ。 ○立花壱岐、宗茂に向ひ、何某事数年御奉公を能く相勤候、少地にても賜はり候はゞ、如何あろべきやと申ければ、宗茂聞て、此以前結城宰相殿、家康公へ、戸田三郎右衛門は数年の間、御奉公能く仕候間、御加恩仰付られ然るべきやとの取合に、家康公仰られ候は、小刀は度々便ひて用を達すれども、さして馳走せず、刀脇差は一代多くて、五度か三度か命をかばふ用に立つる故、殊の外崇敬するなりと計り仰せられけると言けるとぞ。 ○宗茂曰く、数年試みるに、人々戦場にて働きたることを、後には是非ともに飾立て申たがるものなり、是は我身ながらも、少し足らぬと存ずる故、申すにて之あるべし、未だ足らぬ働きと思はず、誠の侍たる道を存ぜしものなり。少しの働きを自慢することの多きは、是非に及ばざることなりと。
書き下し
○松平信綱、島原にての指麾宜しからずと聞えしかば、歸府の後、家光目見なし、時に宗茂、家光の前に出、島原のこと申述、偖今度若き伊豆守差下されし義、如何と存ぜし所に、物每に痒き所に手の屆く樣に、捌き申したるを見聞仕り、驚入候と申しゝ時、家光伊豆守こと不屈なることゝ之ある樣、承はり及びし所に、其方申分相違の樣に存ずると言はる。宗茂、箇樣の大なることに端々の者まで殘らず能きと申には成り申さゞるものにて候、善惡ともに落着の首尾合ふ合はぬにて、御勘辨あるべき義かと申ければ、尤もの由言はれて、信綱目見申付られたり。宗茂退出の後、立花が壽命長くしても、長かれかしと存ずると言はれしとぞ。 ○立花壹岐、宗茂に向ひ、何某事數年御奉公を能く相勤候、少地にても賜はり候はゞ、如何あろべきやと申ければ、宗茂聞て、此以前結城宰相殿、家康公へ、戸田三郎右衞門は數年の間、御奉公能く仕候間、御加恩仰付られ然るべきやとの取合に、家康公仰られ候は、小刀は度々便ひて用を達すれども、さして馳走せず、刀脇差は一代多くて、五度か三度か命をかばふ用に立つる故、殊の外崇敬するなりと計り仰せられけると言けるとぞ。 ○宗茂曰く、數年試みるに、人々戰場にて働きたることを、後には是非ともに飾立て申たがるものなり、是は我身ながらも、少し足らぬと存ずる故、申すにて之あるべし、未だ足らぬ働きと思はず、誠の侍たる道を存ぜしものなり。少しの働きを自慢することの多きは、是非に及ばざることなりと。
現代語訳
松平信綱は、島原での指揮がよくなかったと聞こえたので、江戸に帰った後、家光は目通りを許さなかった。そのとき宗茂が家光の前に出て、島原のことを申し述べ、さて今度、若い伊豆守が差し下されたことは、どうかと思っておりましたところ、何事も痒いところに手が届くようにさばきましたのを見聞して、驚き入りました、と申したとき、家光は、伊豆守について不届きなことがあるように聞いているが、そなたの申し分は相違するように思う、と言われた。宗茂は、このような大きなことで、端々の者まで残らずよいと言われるようにはならないものです、善悪ともに落着の首尾が合うか合わないかで、ご判断なさるべきことかと存じます、と申すと、もっともだと言われて、信綱に目通りを許された。宗茂が退出した後、立花は寿命が長くても、いっそう長くあってほしいと思う、と言われたということである。 立花壱岐が宗茂に向かって、何某は数年のご奉公をよく勤めました、少しでも知行を賜ったらいかがでしょう、と言うと、宗茂は聞いて、以前、結城宰相殿が家康公へ、戸田三郎右衛門は数年の間ご奉公をよく勤めたので、ご加恩を仰せ付けられてはいかがか、と持ちかけたところ、家康公は、小刀は度々使って用を足すけれどもさして馳走せず、刀・脇差は一代でせいぜい五度か三度、命をかばう用に立てるので、ことのほか崇敬するのだ、とだけ仰せられたそうだ、と言ったということである。 宗茂は言う。数年試みてみると、人々は戦場で働いたことを、後には是非とも飾り立てて言いたがるものだ。これは我が身ながらも、少し足らぬと思うゆえ言うのであろう。まだ足らぬ働きとは思わず、まことの侍たる道を心得た者である。少しの働きを自慢することが多いのは、是非もないことだ、と。
解説

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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 秀忠に道理を説く○大阪夏役、家康伏見より、本多正信を使にて、宗茂へ早々越され候樣に、とのことなり。其時正信に、秀忠年若なれば、律義にして功の入りたる年盛の者、相談の向ふ座になくては成らざるものなり、立花は左のみ心易くすべき者にはなけれども、弓箭執て功者なり、殊に物を變改せぬ氣立なれば、今度秀忠談合相手に致すべき趣、其方より申聞くべしとのことなり、宗茂には先に大阪に上りし故、伏見に參りし所、正信右の通申通ぜり。宗茂卽ち秀忠の前に出ければ委細の義は、佐渡守より相傳申べく候、今度福島、加藤其外毛利、淺野以下別條之有間敷や、加藤、福島は其方數年の舊友にて、心だても存じたるべしと思ふに付、尋ぬるとのことなり。宗茂、加藤、福島義別條之有間敷候、惣て太閤御取立の者共、先年其女房共を登城仰付られし後は、太閤にも內心の憤り之あり、某事太閤御恩淺からぬ身にて、只今箇樣の義あからさまに申上ぐることは如何なれども、一切の物は道理と申所之ある時は、一旦惡くしても、後は善きことに成り申なり、太閤の御子孫に向ひ、弓を彎き申こと、一身に取て憚に似て候へ共、關ヶ原合戰の刻まで、秀賴公の爲めには、旣に身命を捨て、家を潰し申たり。是太閤への報恩なり。其後生命の爲めに、御當家より少地にても賜はりし間、何樣御奉公仕るべく所存なり、御人數の內誰彼と申とすも、少しも御心置かれ間敷、太閤の御子孫斷絕の時節到來にて候と申す。重ねて太閤子孫斷絕の時節到來とは如何樣のことゝぞ尋らる。宗茂、最前申上る通に、物には凡て道理と申もの之あり候、太閤は信長の取立なりし所、信長の子孫を、或は死罪或は流罪に行はれたり、譬ば御當家太閤の御恩厚く蒙らせ給ふとも、太閤の非義子孫に報ふ所其遁れ有間敷候、况や御當家は少しも太閤の御恩御蒙りと申ことなければ、今度の御利運露程も御疑ひ有間敷と言ふ。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 清き心立ての誓い秀忠にも納得せられ、申し聞けらるゝ所一々尤もに存ずる上は、早々大坂へ罷歸るべき由仰出されたり。正信、御苦勞に候へ共、只今御意の通り、加藤、福島抔は心中の計略計り難たければ、大坂にて自然のこと御聞き及び候はゞ、早々御注進之ある樣にと申す。宗茂、只今御前にて申上げし通、太閤御子孫に弓箭申ことは憚に候へ共、道理に依てのことなり、加藤、福島も拙者同前の所存たるべし、然るに、御當家に至り、忠節振りに、彼者共が口をむしり、心を引見る樣なること、弓箭八幡も照覽あれ、毛頭致間敷、彼人々千萬に一つ野心之あるに於ては、某に申聞かせぬことはよも之有間敷、其時右の道理を以て一應申談ずべく、夫にても承引致さずば、將軍家へ斯の如く申上げたることなれば、某に於ては此所存變改致間敷由申べし、福島にても、加藤にても、相手を逃さず、卽座に差違へ申べく、某差違たりと御聞きあらば、生殘りたる加藤にても、福島にても、御隔心御尤もと申し、早々大阪へ歸りたり。此事秀忠聞かれ弓箭執る程の者が、左樣淸き心立なくてはなり難しと、再三感稱せられけり。 ○元和六年十一月、秀忠、宗茂に柳川の舊封を賜りて曰く、曩者に僻遠の小邑に封じ置きしかども怨みず愠らず、能く義命に安んじ居りし段、滿足せり、之に依り今度柳川の舊封を賜ふ間能く武備を修めよとなり、宗茂、落淚して其恩を拜せり。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 幼い日の言葉と勘○宗茂十歲の時、鎭種家中の者に、重科の者ありしを、萩尾某に命じて討せけるに、萩尾、彼者に行逢て、後より只一太刀に切留ける、是を傍輩共聞て、後より切ることは易きことなれば左して手柄と言ひ難し抔囁きけるを、宗茂聞き、行逢たることなれば、前後は論ぜず、逃さず易く打留たるこそ手柄なれ、敵を打つに易き所を差置き、打惡きことをして、仕損ぜんや、汝等如き者は我成長の後、軍利の障はりと成るべしと言はれければ、人皆慚服せり。 ○宗茂十一歲の時、立花に往く。鑑連饗應し、其上壯者を召して、弓を射させて覗せしめ、戲に調て曰く、子、猶幼なり、恐くは能はずと。宗茂、卽ち側なる弓を挽きて弱はしと言ひ、鑑連床上に在る勁弓を請て射るに、四發三中せり。 ○宗茂十二歲の時、鷹を手に据ゑ、同じ年頃の童子を召連れて野外に出て遊びしに、猛犬急に吠掛りけるに、宗茂少しも怖れず、刀を抜き飛び違て棟打にしたゝかに打ちければ、犬は怖れて逃げ去りぬ。鎭種聞て、汝刀を抜て防ぐ程ならば何ぞ其犬を切留めざると言ければ、宗茂打笑ひ、太刀にては敵を切るとこそ承はり候びねと申ければ、鎭種、涙を流し、我子ながらも器量雄才拔群なり、汝成長の後、才に誇ること勿れとぞ敎へられける。
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