名将言行録 / 『名将言行録』鍋島直茂 関ヶ原と家康との約束
○秀吉薨後、大阪の奉行等、家康を亡さんとて、大阪伏見の間騷動せり。直茂、伏見に至て、德川家の館を守護す。家康喜ぶこと淺からず、直茂曰く此度のことは僭置、直茂が死後に至るとも、子孫に遺訓し、直茂が家を以て、殿の御家と同く亡ぶべきにて候、恐ある申事にて候へ共、殿には、此由を御子孫に仰傳られ給はらんには、直茂が幸何事か之に過ぎ候べきと望みければ、家康大に感じ、中納言にも、其旨を申傳ふべき所なりとぞ言はれける、明れば、慶長五年、直茂の子、信濃守勝茂大阪の先陣して、伏見、阿濃津、松坂等の城を攻む。直茂國に在り此由を聞き、大に驚き、下村左馬介を以て、勝茂が許に使とし、熟々事の情を案ずるに、此度大阪の軍起ること、幼弱の君、如何ぞ此御結構やあるべき、偏に彼奉行等が私の怨を報ぜん爲め、内府を失はんとする所なり、我兼ねて内府と誓ひ申旨あり、相構て僻が事して、東國の御勢に向ひ弓を彎き、矢を放つべからず、兼ねては又、故太閤の仰置かれし如く、秀頼公に背き奉らず、内府の命を重んずべき所なりと制しければ、勝茂大に驚きて、先非を悔みて、其罪を謝す。家康聞て、家康彼が父直茂と約せし事あり、如何で其約に違はんやとて、立どころに其罪を赦されたり。
新字:○秀吉薨後、大阪の奉行等、家康を亡さんとて、大阪伏見の間騷動せり。直茂、伏見に至て、徳川家の館を守護す。家康喜ぶこと浅からず、直茂曰く此度のことは僭置、直茂が死後に至るとも、子孫に遺訓し、直茂が家を以て、殿の御家と同く亡ぶべきにて候、恐ある申事にて候へ共、殿には、此由を御子孫に仰伝られ給はらんには、直茂が幸何事か之に過ぎ候べきと望みければ、家康大に感じ、中納言にも、其旨を申伝ふべき所なりとぞ言はれける、明れば、慶長五年、直茂の子、信濃守勝茂大阪の先陣して、伏見、阿濃津、松坂等の城を攻む。直茂国に在り此由を聞き、大に驚き、下村左馬介を以て、勝茂が許に使とし、熟々事の情を案ずるに、此度大阪の軍起ること、幼弱の君、如何ぞ此御結構やあるべき、偏に彼奉行等が私の怨を報ぜん為め、内府を失はんとする所なり、我兼ねて内府と誓ひ申旨あり、相構て僻が事して、東国の御勢に向ひ弓を彎き、矢を放つべからず、兼ねては又、故太閤の仰置かれし如く、秀頼公に背き奉らず、内府の命を重んずべき所なりと制しければ、勝茂大に驚きて、先非を悔みて、其罪を謝す。家康聞て、家康彼が父直茂と約せし事あり、如何で其約に違はんやとて、立どころに其罪を赦されたり。
書き下し
○秀吉薨後、大阪の奉行等、家康を亡さんとて、大阪伏見の間騷動せり。直茂、伏見に至て、德川家の館を守護す。家康喜ぶこと淺からず、直茂曰く此度のことは僭置、直茂が死後に至るとも、子孫に遺訓し、直茂が家を以て、殿の御家と同く亡ぶべきにて候、恐ある申事にて候へ共、殿には、此由を御子孫に仰傳られ給はらんには、直茂が幸何事か之に過ぎ候べきと望みければ、家康大に感じ、中納言にも、其旨を申傳ふべき所なりとぞ言はれける、明れば、慶長五年、直茂の子、信濃守勝茂大阪の先陣して、伏見、阿濃津、松坂等の城を攻む。直茂國に在り此由を聞き、大に驚き、下村左馬介を以て、勝茂が許に使とし、熟々事の情を案ずるに、此度大阪の軍起ること、幼弱の君、如何ぞ此御結構やあるべき、偏に彼奉行等が私の怨を報ぜん爲め、内府を失はんとする所なり、我兼ねて内府と誓ひ申旨あり、相構て僻が事して、東國の御勢に向ひ弓を彎き、矢を放つべからず、兼ねては又、故太閤の仰置かれし如く、秀頼公に背き奉らず、内府の命を重んずべき所なりと制しければ、勝茂大に驚きて、先非を悔みて、其罪を謝す。家康聞て、家康彼が父直茂と約せし事あり、如何で其約に違はんやとて、立どころに其罪を赦されたり。
現代語訳
秀吉の死後、大坂の奉行たちが家康を滅ぼそうとして、大坂と伏見の間が騒然となった。直茂は伏見に行って徳川家の館を守護した。家康が喜ぶこと並々でなかった。直茂は言った。「このたびのことはともかく、私が死んだ後も、子孫に遺訓して、私の家が殿のお家と運命を共にするようにいたします。恐れ多いことですが、殿もこのことをご子孫にお伝えくださるなら、私にとってこれ以上の幸せはありません」。家康は大いに感じ入り、中納言(秀忠)にもその旨を伝えようと言った。明けて慶長五年、直茂の子の信濃守勝茂が大坂方の先陣として伏見、安濃津、松坂などの城を攻めた。直茂は国元でこれを聞いて大いに驚き、下村左馬介を使者として勝茂のもとに遣わして言わせた。「よくよく事情を考えるに、このたび大坂で戦が起こったのは、幼い君主に何の深い考えがあってのことでもない。ひとえに彼ら奉行たちが私怨を晴らすために内府を倒そうとしているのである。私はかねて内府と誓った約束がある。決して間違ったことをして、東国の軍勢に向かって弓を引き矢を放ってはならない。同時に、亡き太閤の遺言どおり、秀頼公にも背かず、内府の命を重んじるべきである」と制した。勝茂は大いに驚き、先の非を悔いてその罪を謝した。家康はこれを聞いて、「私は彼の父直茂と約束したことがある。どうしてその約束に背こうか」と言い、たちどころに罪を許した。
解説

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孟子・萬章章句上萬章曰く、「堯は天下を以て舜に與う、と、諸れ有りや。」孟子曰く、「否。天子は天下を以て人に與うること能わず。」「然らば則ち舜の天下を有つや、孰か之を與えたる。」曰く、「天、之を與う。」「天の之を與うるは、諄(ジュン)諄然として之を命ずるか。」曰く、「否。天言わず。行いと事とを以て、之を示すのみ。」曰く、「行いと事とを以て、之を示すとは、之を如何。」曰く、「天子は能く人を天に薦むれども、天をして之に天下を與えしむること能わず。諸侯は能く人を天子薦むれども、天子をして之を諸侯を與えしむること能わず。大夫は能く人を諸侯に薦むれども、諸侯をして之に大夫を與えしむること能わず。昔者、堯、舜を天に薦めて、天、之を受く。之を民に暴わして、民之を受く。故に曰く、天、言わず、行いと事とを以て之を示すのみ、と。」曰く、「敢て問う、之を天に薦めて、天之を受け、之を民に暴わして、民之を受くとは、如何。」曰く、「之をして祭を主らしめて、百神之を享く。是れ天之を受くるなり。之をして事を主らしめて、事治まり、百姓之に安んず。是れ民之を受くるなり。天之を與え、人之を與う。故に曰く、天子は天下を以て人に與うること能わず、と。舜は堯に相たること二十有八載。人の能く為す所に非ざるなり。天なり。堯崩じ、三年の喪畢りて、舜、堯の子を南河の南に避く。天下の諸侯の朝覲する者、堯の子に之かずして、舜に之く。訟獄する者、堯の子に之かずして、舜に之く。謳歌する者、堯の子を謳歌せずして、舜を謳歌す。故に曰く、天なり、と。夫れ然る後、中國に之き、天子の位を踐めり。而し堯の宮に居り、堯の子に逼らば、是れ篡うなり。天の與うるに非ざるなり。泰誓に曰く、『天の視るは我が民に自りて視、天の聽くは我が民に自りての聽く。』此を之れ謂うなり。」
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