名将言行録 / 『名将言行録』黒田長政 評・如水の天下への賭け
關ヶ原の時、如水は豐前中津にゐたが、三成の擧兵を聞くと、平素蓄積した金銀を散じて、四方に兵を募り、豐後を切り取つてゐる。關ヶ原の合戰が長引いたら、九州全土を斬り取つて自家の勢力を張るつもりで居たらしい。だから、長政などが、ムキになつて關ヶ原で奮鬪したのが、氣に入らなかつたのである。 如水は政治家であり、軍略家であり、しかも經濟觀念に富んでゐた。家臣に、物を賣るなど、ほゝゑましき話である。而して、妄りに人を殺さゞる點なども、秀吉と同じである。
新字:関ヶ原の時、如水は豊前中津にゐたが、三成の挙兵を聞くと、平素蓄積した金銀を散じて、四方に兵を募り、豊後を切り取つてゐる。関ヶ原の合戦が長引いたら、九州全土を斬り取つて自家の勢力を張るつもりで居たらしい。だから、長政などが、ムキになつて関ヶ原で奮闘したのが、気に入らなかつたのである。 如水は政治家であり、軍略家であり、しかも経済観念に富んでゐた。家臣に、物を売るなど、ほゝゑましき話である。而して、妄りに人を殺さゞる点なども、秀吉と同じである。
書き下し
關ヶ原の時、如水は豐前中津にゐたが、三成の擧兵を聞くと、平素蓄積した金銀を散じて、四方に兵を募り、豐後を切り取つてゐる。關ヶ原の合戰が長引いたら、九州全土を斬り取つて自家の勢力を張るつもりで居たらしい。だから、長政などが、ムキになつて關ヶ原で奮鬪したのが、氣に入らなかつたのである。 如水は政治家であり、軍略家であり、しかも經濟觀念に富んでゐた。家臣に、物を賣るなど、ほゝゑましき話である。而して、妄りに人を殺さゞる點なども、秀吉と同じである。
現代語訳
関ケ原のとき、如水は豊前中津にいたが、三成の挙兵を聞くと、平素蓄積した金銀を散じて、四方に兵を募り、豊後を切り取っている。関ケ原の合戦が長引いたら、九州全土を斬り取って自家の勢力を張るつもりでいたらしい。だから、長政などが、ムキになって関ケ原で奮闘したのが、気に入らなかったのである。 如水は政治家であり、軍略家であり、しかも経済観念に富んでいた。家臣に物を売るなど、ほほえましき話である。而して、妄りに人を殺さざる点なども、秀吉と同じである。
解説

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名将言行録・『名将言行録』黒田長政 評・二世の長政と如水英雄の資格の大部分は、人心を收攬し、人の使ひ方の上手な點にあると思ふが、孝高は、その點で苦勞人で、わけ知りて、秀吉以上の大人である。中國征伐のとき、播州の三木城が陷ちたとき、信長は秀吉の功を賞して鞍置き馬一頭を與へると、秀吉は功は黒田にありと云つて、それを孝高に與へた。すると、孝高は、またそれを家臣の、母里太兵衞に與へてゐる。彼が、手腕を十二分に發揮したのは、この中國陣と天正十八年の小田原陣で、小田原開城はその手腕に依るところが多かつたのである。子の長政は、攻戰の大將で、武功は彼以上である。戰國武將の第二世が、たいてい凡くらで、家國へ失つた者が多いのに比べると、長政などは細川忠興と同じやうに、立派な第二世である。 家來の後藤又兵衞などと武勇爭ひをするあたりは、大人氣ないが、關ヶ原の時などは政治的にも相當働いて、筑前五十餘萬石の基礎を築いてゐるのである。 孝高は、四十四才で、第一線から退いて、如水圓清と號した。恐らく當時擡頭しかかつてゐた石田三成と、うまく行かなかつたのかも知れない。朝鮮出兵の時に再び活躍したが、やはり石田と衝突してゐる。才人同志であるだけに、相容れなかつたのであらう。もし、石田が、如水と仲がよく、關ヶ原の時など、如水を謀主として、迎へることが出來たら、東西の勝利は轉倒してゐたかも知れない。當時、家康に對抗し得る人物は、如水の外になかつたかも知れないのだ。
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名将言行録・『名将言行録』石田三成 評・失敗の中の器量家康と三成とが、同じ位の器量としても、一方は佐和山二十四萬石で、片一方は、關八州二百五十萬石だし、それに平生の威望が違ふのだから、戰の數は自ら定まつてゐたわけである。と、云つてあの時期を失したら、家康の勢力は、如何ともしがたくなつたに違ひない。 豐臣の天下が、德川に移つたのは、三成だけの責任ではなく、秀吉が小牧山の戰を、いゝ加減にして、家康を徹底的に叩きつけなかつたことに、その遠因があるとも云へるし、秀吉取立の大名の政治的無自覺にあるとも云へるのである。 文弱のやうに云はれてゐるが、佐和山の居城などは、質素剛健で、壁は荒壁のまゝであつたと云ふし、關ヶ原では、島左近初、旗下の士が決死奮鬪してゐるところを見ると、武將としても堂々たるものである。 戰國時代の人物としては、その失敗にも拘はらず、五指の中に數へてもいゝ人である。
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名将言行録・『名将言行録』小西行長 評・異色の出世人○三成と同じく關ヶ原の西軍の主腦部で、德川時代の御用學者から貶された。加藤清正と、朝鮮で先陣爭ひをしたことなどが崇つて、人氣のない人である。しかし、一藥種商の出身で、肥後半國の大名になつた丈に、相當の人物であつたことが分る。關ヶ原の戰敗れて自殺しなかつたのは、クリスチャンであつた爲かも知れない。頭腦と才覺だけで出世した人だけに、戰國の武將の中では、異彩のある存在である。
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