名将言行録 / 『名将言行録』黒田長政 評・二世の長政と如水
英雄の資格の大部分は、人心を收攬し、人の使ひ方の上手な點にあると思ふが、孝高は、その點で苦勞人で、わけ知りて、秀吉以上の大人である。中國征伐のとき、播州の三木城が陷ちたとき、信長は秀吉の功を賞して鞍置き馬一頭を與へると、秀吉は功は黒田にありと云つて、それを孝高に與へた。すると、孝高は、またそれを家臣の、母里太兵衞に與へてゐる。彼が、手腕を十二分に發揮したのは、この中國陣と天正十八年の小田原陣で、小田原開城はその手腕に依るところが多かつたのである。子の長政は、攻戰の大將で、武功は彼以上である。戰國武將の第二世が、たいてい凡くらで、家國へ失つた者が多いのに比べると、長政などは細川忠興と同じやうに、立派な第二世である。 家來の後藤又兵衞などと武勇爭ひをするあたりは、大人氣ないが、關ヶ原の時などは政治的にも相當働いて、筑前五十餘萬石の基礎を築いてゐるのである。 孝高は、四十四才で、第一線から退いて、如水圓清と號した。恐らく當時擡頭しかかつてゐた石田三成と、うまく行かなかつたのかも知れない。朝鮮出兵の時に再び活躍したが、やはり石田と衝突してゐる。才人同志であるだけに、相容れなかつたのであらう。もし、石田が、如水と仲がよく、關ヶ原の時など、如水を謀主として、迎へることが出來たら、東西の勝利は轉倒してゐたかも知れない。當時、家康に對抗し得る人物は、如水の外になかつたかも知れないのだ。
新字:英雄の資格の大部分は、人心を収攬し、人の使ひ方の上手な点にあると思ふが、孝高は、その点で苦労人で、わけ知りて、秀吉以上の大人である。中国征伐のとき、播州の三木城が陥ちたとき、信長は秀吉の功を賞して鞍置き馬一頭を与へると、秀吉は功は黒田にありと云つて、それを孝高に与へた。すると、孝高は、またそれを家臣の、母里太兵衛に与へてゐる。彼が、手腕を十二分に発揮したのは、この中国陣と天正十八年の小田原陣で、小田原開城はその手腕に依るところが多かつたのである。子の長政は、攻戦の大将で、武功は彼以上である。戦国武将の第二世が、たいてい凡くらで、家国へ失つた者が多いのに比べると、長政などは細川忠興と同じやうに、立派な第二世である。 家来の後藤又兵衛などと武勇争ひをするあたりは、大人気ないが、関ヶ原の時などは政治的にも相当働いて、筑前五十余万石の基礎を築いてゐるのである。 孝高は、四十四才で、第一線から退いて、如水円清と号した。恐らく当時擡頭しかかつてゐた石田三成と、うまく行かなかつたのかも知れない。朝鮮出兵の時に再び活躍したが、やはり石田と衝突してゐる。才人同志であるだけに、相容れなかつたのであらう。もし、石田が、如水と仲がよく、関ヶ原の時など、如水を謀主として、迎へることが出来たら、東西の勝利は転倒してゐたかも知れない。当時、家康に対抗し得る人物は、如水の外になかつたかも知れないのだ。
書き下し
英雄の資格の大部分は、人心を收攬し、人の使ひ方の上手な點にあると思ふが、孝高は、その點で苦勞人で、わけ知りて、秀吉以上の大人である。中國征伐のとき、播州の三木城が陷ちたとき、信長は秀吉の功を賞して鞍置き馬一頭を與へると、秀吉は功は黒田にありと云つて、それを孝高に與へた。すると、孝高は、またそれを家臣の、母里太兵衞に與へてゐる。彼が、手腕を十二分に發揮したのは、この中國陣と天正十八年の小田原陣で、小田原開城はその手腕に依るところが多かつたのである。子の長政は、攻戰の大將で、武功は彼以上である。戰國武將の第二世が、たいてい凡くらで、家國へ失つた者が多いのに比べると、長政などは細川忠興と同じやうに、立派な第二世である。 家來の後藤又兵衞などと武勇爭ひをするあたりは、大人氣ないが、關ヶ原の時などは政治的にも相當働いて、筑前五十餘萬石の基礎を築いてゐるのである。 孝高は、四十四才で、第一線から退いて、如水圓清と號した。恐らく當時擡頭しかかつてゐた石田三成と、うまく行かなかつたのかも知れない。朝鮮出兵の時に再び活躍したが、やはり石田と衝突してゐる。才人同志であるだけに、相容れなかつたのであらう。もし、石田が、如水と仲がよく、關ヶ原の時など、如水を謀主として、迎へることが出來たら、東西の勝利は轉倒してゐたかも知れない。當時、家康に對抗し得る人物は、如水の外になかつたかも知れないのだ。
現代語訳
英雄の資格の大部分は、人心を収攬し、人の使い方の上手な点にあると思うが、孝高は、その点で苦労人で、わけ知りで、秀吉以上の大人である。中国征伐のとき、播州の三木城が陥ちたとき、信長は秀吉の功を賞して鞍置き馬一頭を与えると、秀吉は功は黒田にありと言って、それを孝高に与えた。すると、孝高は、またそれを家臣の母里太兵衛に与えている。彼が手腕を十二分に発揮したのは、この中国陣と天正十八年の小田原陣で、小田原開城はその手腕によるところが多かったのである。子の長政は、攻戦の大将で、武功は彼以上である。戦国武将の第二世が、たいてい凡くらで、家国を失った者が多いのに比べると、長政などは細川忠興と同じように、立派な第二世である。 家来の後藤又兵衛などと武勇争いをするあたりは、大人気ないが、関ケ原のときなどは政治的にも相当働いて、筑前五十余万石の基礎を築いているのである。 孝高は、四十四歳で、第一線から退いて、如水円清と号した。恐らく、当時台頭しかかっていた石田三成と、うまくいかなかったのかもしれない。朝鮮出兵のときに再び活躍したが、やはり石田と衝突している。才人同士であるだけに、相容れなかったのであろう。もし、石田が如水と仲がよく、関ケ原のときなど、如水を謀主として迎えることができたら、東西の勝利は転倒していたかもしれない。当時、家康に対抗し得る人物は、如水のほかになかったかもしれないのだ。
解説

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名将言行録・『名将言行録』黒田長政 評・孝高の人物と境遇戰國時代の武將の中で、その功業はともかくも、人物から云つて、何うしても五指の中に數へたくなるのは、黒田孝高である。その目先の利くことは、秀吉家康以上ではないかとさへ思はれるのである。長らく、秀吉の參謀長を勤めてゐたわけだが、あんまり頭がよすぎたので、さすが大氣の秀吉にさへ煙たがられて、大國などは與へられないで了つてゐる。これは、人物が相剋した爲ではないかと思はれる。もし、孝高が參謀長を勤めたならば、孝高自身も、大業を成すことが出來たであらうし、信長も、あゝもろくは挫折しなかつたのではないかと考へられる。 英雄は天下の形勢を創造するが、しかしそれは、大を成した後の話で、その出世は結局境遇に失敗されるわけで、孝高は播磨の一大名の被官で、頭角を現はした時は、もう秀吉と云ふ大物が、頭の上に控へてゐたのだから、結局あゝ云ふ經路を辿る外になかつたのであらう。孝高が最初から、せめて二十萬石位の大名であつたならば、宇喜多秀家などよりは、ずつと大封を得て、秀吉歿後の形勢を左右し得るやうな大勢力になつてゐたゞらう。
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名将言行録・『名将言行録』黑田孝高 黒田官兵衛の若き決断美濃守職隆の子、勘解由次官に任す。後髮を剃り、如水圓清と號す、豐前六郡に封ぜられ、中津城に住す、慶長九年三月二十日卒、年五十九。 ○孝高、幼名萬吉と曰ふ。七歳の時、父職隆、寺に入れ書を學ばしむ、孝高、性筆紙を好まず、只射御を事とせり。十四歳の時、母を喪ひ慟哭他人に超越せり。十七八歳より和歌を嗜み頗る精を勵ませり。僧圓滿之を諫む。依て中道にして廢し、之より專ら弓箭の道を勉勵せり。 ○小寺藤兵衞政職、一日麾下の者及び、老臣を集めて、今天下の形勢を見るに、織田、毛利、三好の三家鼎足の如し、何れへ附き家を興さばや、各々心底を包まず申すべしとありければ、孝高進み出で、向後天下の權を握らん者は、必ず織田ならん、三好は主君を弑したる罪あれば、天などか、之を亡さゞらん、毛利は、一門に吉川、小早川の羽翼ありと雖も、軍法果敢行かず、信長は尾張半國より起り、義昭を取立將軍と成すに依り、諸人思付き、今は早や山城も手に入りぬ。後年天下の權を執らん者は必ず此人ならんと言ふ。一座の人々皆之に同じければ、乃ち孝高を使として、信長に一味の信を通じけり。時に天正元年七月なり。信長大に喜び、談話刻を移せり。辭するに及びて、信長、他日我中國を伐つ時、必ず汝を以て先鋒と爲さんと言はる。孝高諾して歸れり。此時木下藤吉郎秀吉の英姿あるを見て、深く結納せり。五年、秀吉播磨へ下向ありし時、阿彌陀ヶ宿に出迎ひ、姫路の城を掃除して、秀吉を迎へ、中國に向て弓箭を執るべき三策を定めたり。秀吉、孝高の智謀に感じ、盟書を取交はし、兄弟の約を結ばれたり。
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名将言行録・『名将言行録』黒田長政 評・如水の天下への賭け關ヶ原の時、如水は豐前中津にゐたが、三成の擧兵を聞くと、平素蓄積した金銀を散じて、四方に兵を募り、豐後を切り取つてゐる。關ヶ原の合戰が長引いたら、九州全土を斬り取つて自家の勢力を張るつもりで居たらしい。だから、長政などが、ムキになつて關ヶ原で奮鬪したのが、氣に入らなかつたのである。 如水は政治家であり、軍略家であり、しかも經濟觀念に富んでゐた。家臣に、物を賣るなど、ほゝゑましき話である。而して、妄りに人を殺さゞる點なども、秀吉と同じである。
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名将言行録・『名将言行録』黑田孝高 子に勝る五つ、劣る二つ○孝高終りに臨み、長政に語て曰く、世の親に勝れる子はなしと雖も、其方は親に勝れること五つあり、第一に我は信長公、秀吉公の御意に違ひて、頭を剃り、三度まで籠居せり。其方は、秀吉公、家康公、秀忠公の御意に入り、御前を能く仕成したり、第二には、我一生に十二萬石、其方は五十餘萬石まで取上ぐる。第三に、我は手に掛けたる働なし、其方は自分の働き、直取の高名七八度、仕物も兩度致せり。第四に我は無分別なるに、其方は分別者なり、第五は我は其方只一人子を持ちたり、其方は右衞門佐、甲斐守、千之助とて三人まで男子あり、然れども、皆生れ勝りたり。去りながら我が其方に勝れること二つあり。今我死せば十二萬石の手勢は申に及ばず、其許の家中まで、偖も殘り多きやと歎くべし。若し又其許死して、我が生きて居るならば、逆樣なることとなれども、如水居らるゝ故、苦しかる間敷と、力を落す者あるまじ、人の思付、我に及ばず、是人の使ひ樣の惡き故なり、嗜むべし。次に我は博奕が上手なり、其方は下手なり、其子細は關ヶ原の時、家康公と、三成と取合百日も手間取らば、我九州より打上り勝、相模に入て天下を爭ふべし、其時は只一人の其許なれども、捨殺して一博奕に打入れんと思ひしなり。
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名将言行録・『名将言行録』黑田孝高 褒賞を辞して逍遙○孝高、九州を平げて後、大坂へ上りければ、家康、今度の大功を感じ、領地を賜はるべき間、望むべし、其上執奏して官位を進め賜はるべしと内意ありければ、孝高、尊命身に餘り有り難きことながら、年老、殊に病者にて、精力衰へ候ひぬ。愚息甲斐守に、筑前の國を下し賜はりし上は、甲斐守養育を受けて安樂に餘命を送り度、官祿の望は聊か之なく候、願くは身の暇賜はり、煙霞泉石を友とし、逍遙自適仕ること、是亦歸後の賜もの、何事か之に如んと申ければ、家康聞て深く感歎し、今の世に處し、古を行ふ者如水の外、又誰かあらんと言はれしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』黑田孝高 小田原の評と松田父子の処断○小田原の役、秀吉諸營を巡見し、歸りて近世斯の如き大軍を聞かず、昔頼朝、富士川へ寄せんとせし時の勢、二十萬騎と聞く、其後北條千劔破、吉野の兩城を攻めし時の兵、二十萬人と筆せり、夫は上代なれば、定めて百萬の軍兵をも引廻はす良將も多からん、今此多勢を自由に使はんずる者、恐らくは六十餘州の中にあるべしとは覺えず、と言はれしが、良々ありて、またも掛引して見ん者は、黑田勘解由なり、外には知らずと言はれり。 ○此役、北條氏の世臣、松田憲秀返忠のこと、初めは堀秀政に寄りて內通す。秀政死後は、孝高に寄れり、然るに憲秀の二男、左馬介、此事を氏直に訴へたる故、反逆露顯し、憲秀も嫡子笠原新六郎も押籠めらる。落城の後、秀吉、孝高を呼で松田が子は父を訴へし者なれば、誅戮せよと命ぜらる。孝高、聞違ひし振して、新六郎を殺し、左馬介を助け置く。秀吉聞て、何にとて新六郎を殺せしや、左馬介は我にこそ忠あれ、尾張父子を氏直へ訴へし憎き奴なれば、殺せと申付けしにとあり。孝高、某が承り違ひしは無念なり、去ながら、尾張新六は譜第の主人を背きし者なれば、武道に背き、先祖の顏まで穢し候へば忠孝ともになきものなり、左馬介は父には背き、主人には忠あり、左馬介と取違ひ、新六郎を殺したりとて、損とは申されまじと申しければ、秀吉聞て、又跛足めが空とぼけせしと言はれ、左馬介其分に差置かる。人皆孝高が計らひを稱美せり。