名将言行録 / 『名将言行録』黒田長政 評・孝高の人物と境遇
戰國時代の武將の中で、その功業はともかくも、人物から云つて、何うしても五指の中に數へたくなるのは、黒田孝高である。その目先の利くことは、秀吉家康以上ではないかとさへ思はれるのである。長らく、秀吉の參謀長を勤めてゐたわけだが、あんまり頭がよすぎたので、さすが大氣の秀吉にさへ煙たがられて、大國などは與へられないで了つてゐる。これは、人物が相剋した爲ではないかと思はれる。もし、孝高が參謀長を勤めたならば、孝高自身も、大業を成すことが出來たであらうし、信長も、あゝもろくは挫折しなかつたのではないかと考へられる。 英雄は天下の形勢を創造するが、しかしそれは、大を成した後の話で、その出世は結局境遇に失敗されるわけで、孝高は播磨の一大名の被官で、頭角を現はした時は、もう秀吉と云ふ大物が、頭の上に控へてゐたのだから、結局あゝ云ふ經路を辿る外になかつたのであらう。孝高が最初から、せめて二十萬石位の大名であつたならば、宇喜多秀家などよりは、ずつと大封を得て、秀吉歿後の形勢を左右し得るやうな大勢力になつてゐたゞらう。
新字:戦国時代の武将の中で、その功業はともかくも、人物から云つて、何うしても五指の中に数へたくなるのは、黒田孝高である。その目先の利くことは、秀吉家康以上ではないかとさへ思はれるのである。長らく、秀吉の参謀長を勤めてゐたわけだが、あんまり頭がよすぎたので、さすが大気の秀吉にさへ煙たがられて、大国などは与へられないで了つてゐる。これは、人物が相剋した為ではないかと思はれる。もし、孝高が参謀長を勤めたならば、孝高自身も、大業を成すことが出来たであらうし、信長も、あゝもろくは挫折しなかつたのではないかと考へられる。 英雄は天下の形勢を創造するが、しかしそれは、大を成した後の話で、その出世は結局境遇に失敗されるわけで、孝高は播磨の一大名の被官で、頭角を現はした時は、もう秀吉と云ふ大物が、頭の上に控へてゐたのだから、結局あゝ云ふ経路を辿る外になかつたのであらう。孝高が最初から、せめて二十万石位の大名であつたならば、宇喜多秀家などよりは、ずつと大封を得て、秀吉歿後の形勢を左右し得るやうな大勢力になつてゐたゞらう。
書き下し
戰國時代の武將の中で、その功業はともかくも、人物から云つて、何うしても五指の中に數へたくなるのは、黒田孝高である。その目先の利くことは、秀吉家康以上ではないかとさへ思はれるのである。長らく、秀吉の參謀長を勤めてゐたわけだが、あんまり頭がよすぎたので、さすが大氣の秀吉にさへ煙たがられて、大國などは與へられないで了つてゐる。これは、人物が相剋した爲ではないかと思はれる。もし、孝高が參謀長を勤めたならば、孝高自身も、大業を成すことが出來たであらうし、信長も、あゝもろくは挫折しなかつたのではないかと考へられる。 英雄は天下の形勢を創造するが、しかしそれは、大を成した後の話で、その出世は結局境遇に失敗されるわけで、孝高は播磨の一大名の被官で、頭角を現はした時は、もう秀吉と云ふ大物が、頭の上に控へてゐたのだから、結局あゝ云ふ經路を辿る外になかつたのであらう。孝高が最初から、せめて二十萬石位の大名であつたならば、宇喜多秀家などよりは、ずつと大封を得て、秀吉歿後の形勢を左右し得るやうな大勢力になつてゐたゞらう。
現代語訳
戦国時代の武将の中で、その功業はともかくも、人物から言って、どうしても五指の中に数えたくなるのは、黒田孝高である。その目先の利くことは、秀吉、家康以上ではないかとさえ思われるのである。長らく秀吉の参謀長を勤めたわけだが、あまり頭がよすぎたので、さすがに大気の秀吉にさえ煙たがられて、大国などは与えられないでしまっている。これは、人物が相剋したためではないかと思われる。もし孝高が参謀長を勤めたならば、孝高自身も大業を成すことができたであろうし、信長も、ああもろくは挫折しなかったのではないかと考えられる。 英雄は天下の形勢を創造するが、しかしそれは、大を成した後の話で、その出世は結局、境遇に左右されるわけで、孝高は播磨の一大名の被官で、頭角を現したときは、もう秀吉という大物が頭の上に控えていたのだから、結局ああいう経路をたどるほかなかったのであろう。孝高が最初から、せめて二十万石位の大名であったならば、宇喜多秀家などよりは、ずっと大封を得て、秀吉没後の形勢を左右し得るような大勢力になっていただろう。
解説

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