名将言行録 / 『名将言行録』黒田長政 他家の玄関で捕えられた士
○長政江戸に在りし時、家臣の某若黨に罪ありて手打にせんとす。其者足早に逃げしかば、追行きけるに、或大名の屋敷に逃込み玄關より内に馳せ入る。彼士拔身を持ちながら其玄關に追ひ上りければ、番人數人取付き、推伏せ繩を掛けたり。長政聞て、使を遣はし、右の士を此方に返し給ふべき由申遣はし、先きの大名より使者を添へ、士には繩を掛け、若黨は放し囚にて連れ來れり。長政玄關に出て、彼使者には未だ返答に及ばずして、先づ其士の繩を解き、刀脇差を與ふべしと命じ、彼士受取り指しける時、長政重ねて、其家人を打放つべしとありければ、畏り候と申し、只一刀に切殺す、其上にて長政、汝が家來足早く逃げて、切損じたることあながち越度とは言ふべからず、又他所の玄關に拔身を持ちながら進行くこと、魯忽の至りと雖も、鹿を追ふ者は、山を見ずと言へば急に臨みて、其場を辨へざる事はあるべし、爰を以て差したる咎とも言難し、數人に取籠められ、推倒され搦め取らるゝこと、恥辱とすべからず、士の縄に掛ること、古今珍しからず、鈴木三郎が鎌倉にて搦められし事、今に至て生捕鈴木とこそ言へ、鈴木が恥辱とはせず、汝心に掛けず前の如く奉公勤むべしと言渡し、彼の使者には、歸りて右の通り申せとて歸されけり。
新字:○長政江戸に在りし時、家臣の某若党に罪ありて手打にせんとす。其者足早に逃げしかば、追行きけるに、或大名の屋敷に逃込み玄関より内に馳せ入る。彼士抜身を持ちながら其玄関に追ひ上りければ、番人数人取付き、推伏せ縄を掛けたり。長政聞て、使を遣はし、右の士を此方に返し給ふべき由申遣はし、先きの大名より使者を添へ、士には縄を掛け、若党は放し囚にて連れ来れり。長政玄関に出て、彼使者には未だ返答に及ばずして、先づ其士の縄を解き、刀脇差を与ふべしと命じ、彼士受取り指しける時、長政重ねて、其家人を打放つべしとありければ、畏り候と申し、只一刀に切殺す、其上にて長政、汝が家来足早く逃げて、切損じたることあながち越度とは言ふべからず、又他所の玄関に抜身を持ちながら進行くこと、魯忽の至りと雖も、鹿を追ふ者は、山を見ずと言へば急に臨みて、其場を弁へざる事はあるべし、爰を以て差したる咎とも言難し、数人に取籠められ、推倒され搦め取らるゝこと、恥辱とすべからず、士の縄に掛ること、古今珍しからず、鈴木三郎が鎌倉にて搦められし事、今に至て生捕鈴木とこそ言へ、鈴木が恥辱とはせず、汝心に掛けず前の如く奉公勤むべしと言渡し、彼の使者には、帰りて右の通り申せとて帰されけり。
書き下し
○長政江戸に在りし時、家臣の某若黨に罪ありて手打にせんとす。其者足早に逃げしかば、追行きけるに、或大名の屋敷に逃込み玄關より内に馳せ入る。彼士拔身を持ちながら其玄關に追ひ上りければ、番人數人取付き、推伏せ繩を掛けたり。長政聞て、使を遣はし、右の士を此方に返し給ふべき由申遣はし、先きの大名より使者を添へ、士には繩を掛け、若黨は放し囚にて連れ來れり。長政玄關に出て、彼使者には未だ返答に及ばずして、先づ其士の繩を解き、刀脇差を與ふべしと命じ、彼士受取り指しける時、長政重ねて、其家人を打放つべしとありければ、畏り候と申し、只一刀に切殺す、其上にて長政、汝が家來足早く逃げて、切損じたることあながち越度とは言ふべからず、又他所の玄關に拔身を持ちながら進行くこと、魯忽の至りと雖も、鹿を追ふ者は、山を見ずと言へば急に臨みて、其場を辨へざる事はあるべし、爰を以て差したる咎とも言難し、數人に取籠められ、推倒され搦め取らるゝこと、恥辱とすべからず、士の縄に掛ること、古今珍しからず、鈴木三郎が鎌倉にて搦められし事、今に至て生捕鈴木とこそ言へ、鈴木が恥辱とはせず、汝心に掛けず前の如く奉公勤むべしと言渡し、彼の使者には、歸りて右の通り申せとて歸されけり。
現代語訳
長政が江戸にいたとき、家臣のある者が若党に罪があって、手打ちにしようとしました。その若党は足早に逃げたので追いかけると、ある大名の屋敷に逃げ込み、玄関から内に駆け入りました。その士は抜き身を持ったまま、その玄関に追い上がったので、番人数人が取りつき、押し伏せて縄を掛けました。長政は聞いて、使いを遣わし、その士をこちらに返していただきたいと申し入れました。先方の大名からは使者を添え、士には縄を掛けたまま、若党は放し囚人として連れてきました。長政は玄関に出て、その使者にはまだ返答せず、まず士の縄を解き、刀と脇差を与えるよう命じました。その士が受け取って差したとき、長政は重ねて「その家人を打ち放て」と言いました。「かしこまりました」と答え、ただ一刀に切り殺しました。そのうえで長政は、「お前の家来が足が早く、逃げて切り損じたことは、必ずしも落ち度とはいえない。また、他所の玄関に抜き身を持ったまま進み入ったことは、軽率の至りだが、鹿を追う者は山を見ずというから、急に臨んで場所をわきまえないことはある。ここをもって、さしたる咎とは言いがたい。数人に取り込められ、押し倒されて搦め取られたことは、恥辱としてはならない。士が縄に掛かることは、古今珍しくない。鈴木三郎が鎌倉で搦められたことは、今に至って生け捕り鈴木と言うが、鈴木の恥辱とはしない。お前は心に掛けず、前のように奉公を勤めよ」と言い渡し、先方の使者には、「帰って、右のとおり申せ」と言って帰しました。
解説

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