名将言行録 / 『名将言行録』黒田長政 刀の心得と謡の座の諫め
○長政曰く、刀脇指は我が思ひ入れたる一腰づゝに、指替一腰づゝ、此外は無用なり、我等能く〱試み候て、覺り申候、惣じて武士は毎日死を極め居り申さず候へば、事に臨み越度之あり候、毎日朝夕、刀脇指自身拭ひ改め候て、頂戴致し、一日々々の生死無事有事、此二腰の德なることを撤ひ忘れざるが肝要なりと。 ○又曰く、刀脇差は是にて我が死するぞと心得たるが能く、是にて我が命を生くべきと思へば、或は後れをも取り、或は平生の身の慎みもなき樣に成ると。 ○長政、家人に對しては、如何にも柔和に物申けれども、家臣共は、長政に向ひては、直諫□く、異見するを好みける。長政一年江戸より下國し、家老、其の外歴々共を呼出し、江戸表滯りなく仕廻ひ、下國せし祝儀に料理を振舞ひ、偖料理濟みて長政申けるは、在府の内、觀世宗雪に謠を習ひ候が、宗雪も、我等謠能きとて、殊の外譽め候間謠うて聞かすべしとて、くせ一番謠ひければ、列座の者共、皆之を譽む。中に毛利但馬は、涕を浮め側見して、兎角の事も申さず、長政不審し、但馬は何とて左樣して罷在るやと尋ぬ。但馬、頓て袖乞か、鉢敲の類に相成り申べきが、悲しさに、斯の如きの體にて候と申す。長政驚き、夫は如何樣の事にて、左樣に成るべしと存候やと不審す。
新字:○長政曰く、刀脇指は我が思ひ入れたる一腰づゝに、指替一腰づゝ、此外は無用なり、我等能く〱試み候て、覚り申候、惣じて武士は毎日死を極め居り申さず候へば、事に臨み越度之あり候、毎日朝夕、刀脇指自身拭ひ改め候て、頂戴致し、一日々々の生死無事有事、此二腰の徳なることを撤ひ忘れざるが肝要なりと。 ○又曰く、刀脇差は是にて我が死するぞと心得たるが能く、是にて我が命を生くべきと思へば、或は後れをも取り、或は平生の身の慎みもなき様に成ると。 ○長政、家人に対しては、如何にも柔和に物申けれども、家臣共は、長政に向ひては、直諫□く、異見するを好みける。長政一年江戸より下国し、家老、其の外歴々共を呼出し、江戸表滞りなく仕廻ひ、下国せし祝儀に料理を振舞ひ、偖料理済みて長政申けるは、在府の内、観世宗雪に謡を習ひ候が、宗雪も、我等謡能きとて、殊の外誉め候間謡うて聞かすべしとて、くせ一番謡ひければ、列座の者共、皆之を誉む。中に毛利但馬は、涕を浮め側見して、兎角の事も申さず、長政不審し、但馬は何とて左様して罷在るやと尋ぬ。但馬、頓て袖乞か、鉢敲の類に相成り申べきが、悲しさに、斯の如きの体にて候と申す。長政驚き、夫は如何様の事にて、左様に成るべしと存候やと不審す。
書き下し
○長政曰く、刀脇指は我が思ひ入れたる一腰づゝに、指替一腰づゝ、此外は無用なり、我等能く〱試み候て、覺り申候、惣じて武士は毎日死を極め居り申さず候へば、事に臨み越度之あり候、毎日朝夕、刀脇指自身拭ひ改め候て、頂戴致し、一日々々の生死無事有事、此二腰の德なることを撤ひ忘れざるが肝要なりと。 ○又曰く、刀脇差は是にて我が死するぞと心得たるが能く、是にて我が命を生くべきと思へば、或は後れをも取り、或は平生の身の慎みもなき樣に成ると。 ○長政、家人に對しては、如何にも柔和に物申けれども、家臣共は、長政に向ひては、直諫□く、異見するを好みける。長政一年江戸より下國し、家老、其の外歴々共を呼出し、江戸表滯りなく仕廻ひ、下國せし祝儀に料理を振舞ひ、偖料理濟みて長政申けるは、在府の内、觀世宗雪に謠を習ひ候が、宗雪も、我等謠能きとて、殊の外譽め候間謠うて聞かすべしとて、くせ一番謠ひければ、列座の者共、皆之を譽む。中に毛利但馬は、涕を浮め側見して、兎角の事も申さず、長政不審し、但馬は何とて左樣して罷在るやと尋ぬ。但馬、頓て袖乞か、鉢敲の類に相成り申べきが、悲しさに、斯の如きの體にて候と申す。長政驚き、夫は如何樣の事にて、左樣に成るべしと存候やと不審す。
現代語訳
長政は言いました。「刀と脇差は、我が思い入れた一腰ずつに、差し替えの一腰ずつ、このほかは無用である。我らはよく試してみて悟った。総じて武士は、毎日、死を極めていなければ、事に臨んで落ち度がある。毎日、朝夕、刀と脇差を自身で拭い改め、頂戴して、一日一日の生死、無事・有事は、この二腰の徳によるのだと忘れないことが肝要である」と。 ○また言いました。「刀と脇差は、これで自分は死ぬのだと心得るのがよく、これで自分の命を生かそうと思えば、あるいは後れを取り、あるいは普段の身の慎みもなくなる」と。 ○長政は、家人に対してはいかにも柔和にものを言いましたが、家臣たちは、長政に向かって直諫をし、意見することを好みました。長政がある年、江戸から下国し、家老をはじめ主立った者たちを呼び出して、江戸表で滞りなく仕事を済ませ、下国した祝儀に料理を振る舞い、さて料理が済んで長政が言うには、「在府の間、観世宗雪に謡を習ったが、宗雪も、我らの謡はよいとことのほか誉めるので、謡って聞かせよう」と、曲舞の一番を謡いました。居並ぶ者たちは皆これを誉めました。その中で毛利但馬は、涙を浮かべて横を向き、あれこれ言いません。長政は不審に思い、「但馬は何でそのようにしているのか」と尋ねました。但馬は、「やがて袖乞いか、鉢叩きの類いになるでしょうが、それが悲しくて、このような様子でおります」と申しました。長政は驚き、「それはどのようなことで、そのようになるというのか」と尋ねました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』僖公十五年 韓原の戦い壬戌、韓原に戰ふ。晉の戎馬濘に還りて止まる。公慶鄭を號ぶ。慶鄭曰く、「諫に愎り卜に違ふ、固より敗を是れ求む、又何ぞ逃れん」と。遂に之を去る。梁由靡韓簡を御し、虢射右と為り、秦伯を輅へ、將に之を止めんとす。鄭公を救ふを以て之を誤らしめ、遂に秦伯を失ふ。秦晉侯を獲て以て歸る。晉の大夫首を反し舍を拔きて、之に從ふ。秦伯使ひして辭せしめて曰く、「二三子何ぞ其れ慼へるや。寡人の君に從ひて西するや、亦た晉の妖夢を是れ踐むのみ、豈に敢へて以て至らんや」と。晉の大夫三拜稽首して曰く、「君は后土を履みて皇天を戴く。皇天后土、實に君の言を聞く、群臣敢へて下風に在らん」と。穆姬晉侯の將に至らんとするを聞き、大子罃・弘と女簡・璧とを以て、臺に登りて薪を履む。免服衰絰を以て逆へしめ、且つ告げしめて曰く、「上天災を降し、我が兩君をして玉帛を以て相見えずして、戎を興すを以てせしむ。若し晉君朝に以て入らば、則ち婢子夕べに以て死せん。夕べに以て入らば、則ち朝に以て死せん。唯だ君之を裁け」と。乃ち諸を靈臺に舍らしむ。
-
葉隠・聞書第一諫言(かんげん)の道に、我(われ)其の位(くらい)にあらずば、其の位の人に言はせて、御誤(おあやまり)直(なお)る様にするが大忠(たいちゅう)なり。此の階(かい)の為に諸人(しょにん)と懇意(こんい)する所なり。我が為にすれば追従(ついしょう)なり。一方(いっぽう)は我等(われら)荷(にな)ひ申す心入(こころいれ)からなり。成程(なるほど)なるものなり。
-
史記 宋微子世家微子開は、殷の帝乙の首子にして帝紂の庶兄なり。紂既に立ち、明らかならず、政に淫乱す。微子数々諫むるも、紂聴かず。祖伊周の西伯昌の徳を修め、黎国を滅ぼすを以て、禍の至らんことを懼れ、以て紂に告ぐるに及ぶ。紂曰く、「我が生は命天に在る有らずや。是れ何をか能く為さん」と。是に於て微子、紂の終に諫むべからざるを度り、之に死せんと欲し、及び去らんとするも、未だ自ら決すること能はず。乃ち太師・少師に問ひて曰く、「殷は治政有らず、四方を治めず。我が祖遂に上に陳ぶ。紂酒に沈湎し、婦人是れ用ひ、湯の徳を下に乱敗す。殷既に小大好んで草窃姦宄し、卿士師師度に非ず、皆罪辜有り、乃ち維れ獲ること无し。小民乃ち并び興り、相敵讎と為る。今殷其れ典喪へり。水を渉るに津涯无きが若し。殷遂に喪ひ、越に今に至る」と。曰く、「太師、少師、我其れ発して出で往かんか。吾が家喪に保たんか。今女故无くして予に告ぐ。顛躋(てんせい)せば、之を如何せん」と。太師若(かく)のごとく曰く、「王子、天篤く菑(わざはひ)を下して殷国を亡ぼす。乃ち畏るべきを畏れず、老長を用ひず。今殷の民乃ち神祇の祀を陋淫す。今誠に国を治むるを得ば、国治まりて身死すとも恨みず。死を為して、終に治むるを得ずんば、去るに如かず」と。遂に亡ぐ。箕子は、紂の親戚なり。紂始めて象箸を為る。箕子嘆じて曰く、「彼象箸を為らば、必ず玉桮を為らん。桮を為らば、則ち必ず遠方の珍怪の物を思ひて之を御せん。輿馬宮室の漸、此より始まり、振ふべからず」と。紂淫泆を為す。箕子諫むるも、聴かず。人或いは曰く、「以て去るべし」と。箕子曰く、「人臣為りて諫めて聴かれずして去るは、是れ君の悪を彰らかにして自ら民に説(よろこ)ばるるなり。吾為すに忍びざるなり」と。乃ち髪を被り詳狂して奴と為る。遂に隠れて琴を鼓きて以て自ら悲しむ。故に之を伝へて箕子操と曰ふ。王子比干は、亦た紂の親戚なり。
-
史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
-
史記 楽書上は朝廷より、下は人民に至るまで、以て歓喜を接し、殷勤を合するを得、此の和説に非ずんば通ぜず、解沢流れず、亦各々一世の化、時を度るの楽なり、何ぞ必ずしも華山の騄耳にして而る後に遠きを行かんや」と。二世之を然りとす。高祖、沛を過りて三侯の章を詩し、小児をして之を歌はしむ。高祖崩じ、沛をして四時に宗廟に歌舞するを得しむ。孝恵・孝文・孝景は増更する所無く、楽府に於いて常を習ひ旧を肄ふのみ。今上即位するに至り、十九章を作り、侍中李延年をして其の声を次序せしめ、拝して協律都尉と為す。一経に通ずるの士も独り其の辞を知る能はず、皆五経の家を集会し、相与に共に講習して之を読み、乃ち能く其の意を通知す、多く爾雅の文なり。漢家常に正月上辛を以て太一を甘泉に祠り、昏時を以て夜祠り、明に到りて終はる。常に流星の祠壇の上を経る有り。僮男僮女七十人をして俱に歌はしむ。春は青陽を歌ひ、夏は朱明を歌ひ、秋は西暤を歌ひ、冬は玄冥を歌ふ。世に多く有り、故に論ぜず。又嘗て神馬を渥洼の水中に得て、復た次して以て太一の歌と為す。歌曲に曰く、「太一貢ぎて天馬下る、赤汗に霑ひて沫赭を流す。騁せて容与として万里を跇ゆ、今安んぞ匹せん、龍を友と為す」と。後に大宛を伐ちて千里の馬を得、馬の名は蒲梢、次して作りて以て歌と為す。歌詩に曰く、「天馬来たる、西極よりす。万里を経て有徳に帰す。霊威を承けて外国を降し、流沙を渉りて四夷服す」と。中尉汲黯進みて曰く、「凡そ王者の楽を作るは、上は以て祖宗を承け、下は以て兆民を化す。今陛下馬を得て、詩して以て歌と為し、宗廟に協す、先帝百姓豈に能く其の音を知らんや」と。上黙然として説ばず。丞相公孫弘曰く、「黯は聖制を誹謗す、当に族すべし」と。凡そ音の起こるは、人心より生ずるなり。人心の動くは、物之をして然らしむるなり。
-
『十善法語』巻第十・不邪見戒之上又喩ヘテ云ハ。賢君明主ハ忠臣ヲ信任シ。諫言ヲ用ル如クシヤ。漢ノ高祖カ諫ニ従フコト流ノ如ク。唐ノ太宗ノ魏徴カ苦諫ノ言ヲ用ヒアリシ類。ソノ如ク。正法ノ因縁アル者ハ必ス不邪見戒ニ随順スルシヤ。此ニ反シテ宿福ナキ者ハ。智者モ愚者モ。学者モ不学者モ仏アルコトヲ信セヌ。法アルコトヲ信セヌ。聖賢アルコトヲ信セヌ。神祇有コトヲ信セヌ。善悪報応有コトヲ信セヌシヤ。