名将言行録 / 『名将言行録』黒田長政 碧蹄館の先手と敵の見切り
○碧蹄館の戰未だ始まらざる時、長政只一騎歩侍七八人にて、小早川隆景の旗本に見廻りたり。隆景見て、甲州には幸の所へ御越なり、粟屋四郎兵衞、井上五郎兵衞を先手に申付しが、物馴れぬ者共にて心元なく候、貴殿先手へ越され、毎事御指圖賜はり候へと言はれければ、長政承はり候とありて、先手に往けり。比は正月二十日辰の刻なり、朝鮮は寒國にて寒きこと甚だし、長政は大綿帽子を着し、胄は郎等に持だせしが、隆景の先手に出るとて綿帽子を脱ぎ、胄を取て着せしに、隱れなき例の水牛の胄なり、偖胄の緒をしめ先手へ出ければ、隆景旗本數千の士卒共、長政先手へ御越の上は、今日の軍は早や勝ちたりと總軍勇みたるとぞ。長政時に 年二十五。 ○關ヶ原の役、東軍垂井、赤坂に陣し、家康を待つ所に、毛利、長曾我部等の人數三萬にて、津の城を攻落し、大垣の南の山の根に備へて、垂井口へ押出しける、赤坂邊に陣せし東軍は、敵掛ると見て、皆々備を出して閧ぎ合ける時に、長政只一騎乘出し、見届けて歸り、何れも騷ぐべからず、戰を持ちたる敵にてなし、陣取敵にて候と言ふ。加藤、福島何れも、甲州の斥候はこはものにて候とて、皆々弓銃、張出し申べしと下知せり。長政の見切の通り、敵の人數尾崎、南宮、山岡が鼻へ押上りて陣取りける。時に細川忠興誰が勢なりと不審する所に、後藤基次、毛利の勢と見ゆると言ふ。果して其言の如し、諸將主從の見切の程を譽められけり。
新字:○碧蹄館の戦未だ始まらざる時、長政只一騎歩侍七八人にて、小早川隆景の旗本に見廻りたり。隆景見て、甲州には幸の所へ御越なり、粟屋四郎兵衛、井上五郎兵衛を先手に申付しが、物馴れぬ者共にて心元なく候、貴殿先手へ越され、毎事御指図賜はり候へと言はれければ、長政承はり候とありて、先手に往けり。比は正月二十日辰の刻なり、朝鮮は寒国にて寒きこと甚だし、長政は大綿帽子を着し、胄は郎等に持だせしが、隆景の先手に出るとて綿帽子を脱ぎ、胄を取て着せしに、隠れなき例の水牛の胄なり、偖胄の緒をしめ先手へ出ければ、隆景旗本数千の士卒共、長政先手へ御越の上は、今日の軍は早や勝ちたりと総軍勇みたるとぞ。長政時に 年二十五。 ○関ヶ原の役、東軍垂井、赤坂に陣し、家康を待つ所に、毛利、長曽我部等の人数三万にて、津の城を攻落し、大垣の南の山の根に備へて、垂井口へ押出しける、赤坂辺に陣せし東軍は、敵掛ると見て、皆々備を出して閧ぎ合ける時に、長政只一騎乗出し、見届けて帰り、何れも騷ぐべからず、戦を持ちたる敵にてなし、陣取敵にて候と言ふ。加藤、福島何れも、甲州の斥候はこはものにて候とて、皆々弓銃、張出し申べしと下知せり。長政の見切の通り、敵の人数尾崎、南宮、山岡が鼻へ押上りて陣取りける。時に細川忠興誰が勢なりと不審する所に、後藤基次、毛利の勢と見ゆると言ふ。果して其言の如し、諸将主従の見切の程を誉められけり。
書き下し
○碧蹄館の戰未だ始まらざる時、長政只一騎歩侍七八人にて、小早川隆景の旗本に見廻りたり。隆景見て、甲州には幸の所へ御越なり、粟屋四郎兵衞、井上五郎兵衞を先手に申付しが、物馴れぬ者共にて心元なく候、貴殿先手へ越され、毎事御指圖賜はり候へと言はれければ、長政承はり候とありて、先手に往けり。比は正月二十日辰の刻なり、朝鮮は寒國にて寒きこと甚だし、長政は大綿帽子を着し、胄は郎等に持だせしが、隆景の先手に出るとて綿帽子を脱ぎ、胄を取て着せしに、隱れなき例の水牛の胄なり、偖胄の緒をしめ先手へ出ければ、隆景旗本數千の士卒共、長政先手へ御越の上は、今日の軍は早や勝ちたりと總軍勇みたるとぞ。長政時に 年二十五。 ○關ヶ原の役、東軍垂井、赤坂に陣し、家康を待つ所に、毛利、長曾我部等の人數三萬にて、津の城を攻落し、大垣の南の山の根に備へて、垂井口へ押出しける、赤坂邊に陣せし東軍は、敵掛ると見て、皆々備を出して閧ぎ合ける時に、長政只一騎乘出し、見届けて歸り、何れも騷ぐべからず、戰を持ちたる敵にてなし、陣取敵にて候と言ふ。加藤、福島何れも、甲州の斥候はこはものにて候とて、皆々弓銃、張出し申べしと下知せり。長政の見切の通り、敵の人數尾崎、南宮、山岡が鼻へ押上りて陣取りける。時に細川忠興誰が勢なりと不審する所に、後藤基次、毛利の勢と見ゆると言ふ。果して其言の如し、諸將主從の見切の程を譽められけり。
現代語訳
碧蹄館の戦いがまだ始まらないとき、長政はただ一騎、歩侍七、八人を連れて、小早川隆景の旗本に見舞いに行きました。隆景は見て、「甲州(長政)には幸いなところへお越しくださった。粟屋四郎兵衛、井上五郎兵衛を先手に申し付けたが、物慣れぬ者たちで心もとない。貴殿が先手へ行かれ、万事ご指図をいただきたい」と言いました。長政は「承知しました」と言って、先手へ行きました。時は正月二十日の辰の刻でした。朝鮮は寒い国で、寒さはひどく、長政は大綿帽子をかぶり、兜は家来に持たせていましたが、隆景の先手に出るというので綿帽子を脱ぎ、兜を取って着けさせると、隠れもない例の水牛の兜でした。さて兜の緒を締めて先手へ出たので、隆景の旗本の数千の士卒は、「長政殿が先手へお越しになった以上、今日の軍はもう勝ったも同然だ」と、全軍が勇み立ったということです。長政はそのとき 二十五歳でした。 ○関ケ原の戦いで、東軍が垂井、赤坂に陣して家康を待っていたところ、毛利、長曾我部らの兵三万が津の城を攻め落とし、大垣の南の山の根に備えて、垂井口へ押し出しました。赤坂付近に陣していた東軍は、敵が掛かってくると見て、皆が備えを出して鬨を上げて騒ぎました。そのとき長政はただ一騎で乗り出し、見届けて帰り、「皆、騒ぐな。戦いを仕掛けてくる敵ではない。陣取りの敵だ」と言いました。加藤、福島らは「甲州の物見はつわものだ」と言って、皆、弓銃を張り出させるよう指図しました。長政の見立てのとおり、敵の兵は尾崎、南宮、山岡の鼻へ押し上って陣取りました。そのとき細川忠興が「誰の勢か」と不審がると、後藤基次が「毛利の勢と見えます」と言い、果たしてその言葉のとおりでした。諸将は、主従の見切りのほどを誉めたということです。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』黒田長政 小早川の裏切りを待つ陣○此役、諸手の接戰最中に方り、長政家人大久保猪之助は兼ねてより小早川秀秋の陣に至りしが、平岡頼勝が側へ近付き、草摺をむずと取て言ひけるは、戰既に始まりて勝負又取り〳〵なるに、裏切の下知なきは不審なり、若し甲斐守を欺き給ふに於ては、弓矢八幡刺違へ申さんとて脇差の柄に手を掛くる、頼勝更に驚かず、先手を進むる汐合は我等に任せ置かるべしとて、爰彼所の戰を目放しもせず守り居たり。 ○此折節五字の指物さしたる武者一騎、長政が陣所に馳せ來たり、甲州々々、筑前中納言が裏切に相違はなきかと高聲に言て馳せ近づく、是は德川の使番山上郷右衞門なり、長政聞きも敢へず、中納言が裏切に相違あるなしは、我等も其方と同樣に知るべき樣なし。彼假令人質を捨て、我を欺き、宇喜田、石田が方人して、内府へ楯を突きたりとも、何程の事かあるべき、差向ひたる石田が旗本を卽時に切崩し、其後秀秋、秀家を打果さんに、手間は取るべからず、今に至りて我等が分別は鑓先に在りと、あらげなく答へしに、山上兎角を言はず馳歸り、返答の趣を有の儘に言ひければ、家康、甲斐守は常に其氣分あるなりとて、思の外に悦喜あり、長政は山上が歸りて後ち、獨言に、内府の仰と言はゞ馬より下りて返答申す品もあるべきを、己が心得の樣に言成し、其上軍中と云へど、禮儀は勿論の事なるに、馬上より甲州々々と呼びかけたるは、身の分限を知らぬ無禮者なり、と甚だ不興せしとかや。
-
名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 碧蹄館と順天○碧蹄館の役、諸將會議して曰く、衆寡敵せず、都へ引籠り防ぎ戰はんと。宗茂進みて曰く、日本の武名異域に赫々たること久し、今敵の衆を聞て退かば、吾國の耻を如何せん、戰ふに如かざるなりと。小早川隆景、大に之を然りとし、群議遂に一決せり。戰の日、先陣して縱橫に奮擊し、大に明兵を敗れり。加藤清正、安邊に在り、日本勢の勝ちたると言ふを聞て曰く、先陣必ず立花ならんと、之を問ふに、果して然り。秀吉勸賞として書及び馬を賜はれり。 ○秀吉薨じ給ひぬと聞えければ、在韓の諸將、皆撤歸せんとす。宗茂曰く、小西行長遠く順天に在り、之を棄てば、恐くは座ながら擒にせられんと。諸將素と歸るを思ふこと切なり。皆曰く國に大故あり、濡滯すべからずと。宗茂曰く、行長をして、擒と爲さしむること亦我國の耻なり。我當に此に留まり、彼と死生を同うせん、是特に行長の爲めにするにあらず、抑々國の爲めにするなりと。島津義弘、寺澤廣高、亦同く留まる。宗茂二子の書を行長に遺くる、行長、卽ち兵を撤せり。旣にして明、韓の兵、戰艦を繼し之を邀ふ、矢集まること蝟の如し、各々舟師を整へ、擊て之を却け、遂に相與に歸るを得たり。
-
名将言行録・『名将言行録』後藤基次 家老が推した名代○長政、一日老臣を集め、一朝事ある時我に代はりて人數を扱ふべき者は誰ならんと問ふ。菅和泉守政利曰く、御家武邊にて御成立故、御家人誰にても一器量ある輩なり、去れども御名代となり、大なる武邊を致すべき者は、後藤又兵衞にて候、尤も畜類にてはありけれども、朝鮮にて猛虎御陣へ入り來り、御厩の馬共を噛殺しけれども、一人も出合はざる間、某罷出切掛りけれども、中々猛り難儀の所に又兵衞驅出で切留め申たり、箇樣の時も諸人に秀でし間、兎角究まる所の武邊は、又兵衞にて之あるべきかと存ずるなりと申ければ、長政は基次を憎み居たりし時なれば、不興して座を立てり。 ○關ヶ原の役、基次、長政に向ひ、敵に島津と曰ふ老功の武者之あれば、必ず夜討すべし、御用心然るべくと申す。長政尤もと思ひ家康に告ぐ。家康曰く、夜討は有間敷ぞ、氣遣なせそとて、如何にも緩々として居られたり。長政歸て右の上意心得ず、御運の末にやと氣遣ひけれども、夜討なし。是は前方夜討させ間敷爲めに、藤堂高虎に袖切と曰ふ計策をさせられしとぞ。 ○此役、長政靑墓に陣す。時に敵兵二萬餘伊勢路より出、金屋師原に至る。細川忠興、福島正則、藤堂高虎等皆誰が兵なるやと問ふ。基次跪きて曰く、是は毛利の軍なりと、諸將皆曰く、旗の紋分明ならず、又兵衞の眼犬眼通を得たるやとて、各々歸營す。翌日斥候を出だし之を見せしむるに、果して毛利の兵なり、人皆基次の眼識に服せり。
-
名将言行録・『名将言行録』黒田長政 虎と争う家臣を叱る○征韓の役、長政、全義館に二十日餘り在陣せり、或曉に、營中俄に騷動す、長政は敵、朝込に來ると心得て胄を着し、栖樓に登て見れば、大なる虎來り厩に入て馬を噛殺し狂ひ廻はる。誰も出合ふ者なし。時に菅和泉守政利刀を抜て掛り向へば、猛りて飛掛るを、引外づして腰の番ひを深く切込みければ、前足二本を竿立にして、彌々怒りけること、初めより烈しく、政利も既に危き所へ、後藤基次助け來り、眉間を切割りければ、二刀にて倒れ死す。長政之を見て殊の外に不興し、一手の大將たる身にて、大事の役を持ちながら、畜類と勇を爭ふこと、不心得なりと叱られけり。 ○此役、長政、先手栗山、後藤等三千、和寧關に在りし時、明將麻貴牛伯英四萬餘の兵を率ゐ攻來る。是事先づ飛檄を以て長政に告げ、一戰して之を打敗り、首二千餘級を得たり。其夜長政馳來り、先づ栗山が營に入て、如何なれば合戰を始めしぞと咎めければ、栗山眼を瞋らし、敵より掛る故戰ひ候と答ふ。長政落涙して、汝が怒り尤もなれども、汝等を擊せては、我獨り生きて甲斐なしと思ひし故、合戰を止めしと言はれけり。
-
名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 負け戦の備え○此役、城將北條氏規、德川家康及、北畠信雄、城中に內通ありと流言させたり。軍皆疑懼す。秀吉、隆景が策を用ひて、近臣僅に數人にて、家康、信雄の陣營に行かれ、飲を催さる。之に依り流言立どころに止みたり。 ○征韓の役、既に國都へ入らんとして、三奉行等相議して備定を爲し終りて、石田三成自慢顏にて隆景に向ひ、斯の如く備定を成せり、尙ほ非を打たるべきことありやと問ふ。隆景、何にとて我等の非を打申すべきことあるべき、申分なき御備定なりと言ふ。三成、太閤御差圖にて弓箭談合の爲め御渡海のことなれば、思召寄りの所承はりたしと言ければ、隆景、此上は辭するも其恐少なからず、依て鄙見を陳述すべしとて申けるは、殘る所なき御備定なれば、必必定御勝利なるべし、去りながら戰と申すは、時により所によりて思ひ定めたる圖の外るゝことあるものなり、此御備定は皆勝軍の時計りのことなり、自然又負くることもあるものなれば、負軍したる時の御思案ありたしと。三成眼を塞ぎ柱に倚り掛り、暫くありて眼を開て曰く、小早川殿御免候へ、先刻より不都合なることを申出たり、去らば負たる時の思案致すべしとて、有筆を呼で共に一室に入り、都までの傳への城取の繪圖と城主等を書記して來り、隆景に示す。隆景見て然るべしと言て其座を立てり。後追々傳への城普請ありて、城主を置きたり。終に都へ打入りし後我軍深入して敗軍の時、傳への城々まで引取ては、退き〳〵次第々々に引揚けて終に軍を全うせしは、隆景の謀なり。
-
名将言行録・『名将言行録』後藤基次 斥候が見た戦の気配○征韓の役長政、基次を斥候に遣る、基次頓て馳行く所に、其道に一つの河あり、其河を打渡り敵陣の近所まで行かんとせしが、日本の馬の沓川上より流れ來るを見て、直ぐに引返し、長政の前に至り、味方の人々早や川を越したると存ずる故、敵陣近く參るに及ばず、立歸り候、早や打立給へと言ふ。長政其故を聞き大に喜び、又兵衞が功者今に始めぬことながら、心早やき斥候の仕樣哉、出來したりと曰て打立れけり。 ○此役長政の先手山の端を廻りけるが、敵と出合はせ戰ひしが、其關の聲を揚ぐるを、基次聞て先手の戰味方打負たりと曰ふ。長政聞て、汝爰に在りながら味方の負けしとは何を以て知るぞと尋ねければ、基次承はり、味方の關の聲次第に近く聞ゆるは、一定負にて引取ると覺候、勝軍ならば先へ進みて關を揚るもの故、遠くなるものに候と、申もあへず味方敗軍の兵共朱になりて追々來れば、又兵衞が察する所神の如しと言ひて感稱せり。 ○此役、敵陣見えざる所なりし、長政曰く、遙向ふに馬煙夥しく見ゆるは如何に、軍の勝負は何にとかあらんと尋ねければ、基次見て敵打負け引取ると相見え候、其故は進む敵の武者塵は此方へ掛て黑く見え、北る敵の武者塵は向の方へ掛て遠き故に、白く見ゆるものに候、遠きは色薄き故に白く、近きは色の濃き故に黑し、是は白みて見ゆるに依て、敵の敗北と見え候と申す。其詞少しも違はず、敵敗軍に及びけり。