名将言行録 / 『名将言行録』黑田孝高 子に勝る五つ、劣る二つ
○孝高終りに臨み、長政に語て曰く、世の親に勝れる子はなしと雖も、其方は親に勝れること五つあり、第一に我は信長公、秀吉公の御意に違ひて、頭を剃り、三度まで籠居せり。其方は、秀吉公、家康公、秀忠公の御意に入り、御前を能く仕成したり、第二には、我一生に十二萬石、其方は五十餘萬石まで取上ぐる。第三に、我は手に掛けたる働なし、其方は自分の働き、直取の高名七八度、仕物も兩度致せり。第四に我は無分別なるに、其方は分別者なり、第五は我は其方只一人子を持ちたり、其方は右衞門佐、甲斐守、千之助とて三人まで男子あり、然れども、皆生れ勝りたり。去りながら我が其方に勝れること二つあり。今我死せば十二萬石の手勢は申に及ばず、其許の家中まで、偖も殘り多きやと歎くべし。若し又其許死して、我が生きて居るならば、逆樣なることとなれども、如水居らるゝ故、苦しかる間敷と、力を落す者あるまじ、人の思付、我に及ばず、是人の使ひ樣の惡き故なり、嗜むべし。次に我は博奕が上手なり、其方は下手なり、其子細は關ヶ原の時、家康公と、三成と取合百日も手間取らば、我九州より打上り勝、相模に入て天下を爭ふべし、其時は只一人の其許なれども、捨殺して一博奕に打入れんと思ひしなり。
新字:○孝高終りに臨み、長政に語て曰く、世の親に勝れる子はなしと雖も、其方は親に勝れること五つあり、第一に我は信長公、秀吉公の御意に違ひて、頭を剃り、三度まで籠居せり。其方は、秀吉公、家康公、秀忠公の御意に入り、御前を能く仕成したり、第二には、我一生に十二万石、其方は五十余万石まで取上ぐる。第三に、我は手に掛けたる働なし、其方は自分の働き、直取の高名七八度、仕物も両度致せり。第四に我は無分別なるに、其方は分別者なり、第五は我は其方只一人子を持ちたり、其方は右衛門佐、甲斐守、千之助とて三人まで男子あり、然れども、皆生れ勝りたり。去りながら我が其方に勝れること二つあり。今我死せば十二万石の手勢は申に及ばず、其許の家中まで、偖も残り多きやと嘆くべし。若し又其許死して、我が生きて居るならば、逆様なることとなれども、如水居らるゝ故、苦しかる間敷と、力を落す者あるまじ、人の思付、我に及ばず、是人の使ひ様の悪き故なり、嗜むべし。次に我は博奕が上手なり、其方は下手なり、其子細は関ヶ原の時、家康公と、三成と取合百日も手間取らば、我九州より打上り勝、相模に入て天下を争ふべし、其時は只一人の其許なれども、捨殺して一博奕に打入れんと思ひしなり。
書き下し
○孝高終りに臨み、長政に語て曰く、世の親に勝れる子はなしと雖も、其方は親に勝れること五つあり、第一に我は信長公、秀吉公の御意に違ひて、頭を剃り、三度まで籠居せり。其方は、秀吉公、家康公、秀忠公の御意に入り、御前を能く仕成したり、第二には、我一生に十二萬石、其方は五十餘萬石まで取上ぐる。第三に、我は手に掛けたる働なし、其方は自分の働き、直取の高名七八度、仕物も兩度致せり。第四に我は無分別なるに、其方は分別者なり、第五は我は其方只一人子を持ちたり、其方は右衞門佐、甲斐守、千之助とて三人まで男子あり、然れども、皆生れ勝りたり。去りながら我が其方に勝れること二つあり。今我死せば十二萬石の手勢は申に及ばず、其許の家中まで、偖も殘り多きやと歎くべし。若し又其許死して、我が生きて居るならば、逆樣なることとなれども、如水居らるゝ故、苦しかる間敷と、力を落す者あるまじ、人の思付、我に及ばず、是人の使ひ樣の惡き故なり、嗜むべし。次に我は博奕が上手なり、其方は下手なり、其子細は關ヶ原の時、家康公と、三成と取合百日も手間取らば、我九州より打上り勝、相模に入て天下を爭ふべし、其時は只一人の其許なれども、捨殺して一博奕に打入れんと思ひしなり。
現代語訳
孝高は臨終に際して長政に語りました。「世の親に勝る子はいないというが、お前は親に勝ることが五つある。第一に、我は信長公、秀吉公のお気に召さず、頭を剃り、三度まで籠居した。お前は秀吉公、家康公、秀忠公のお気に入りとなり、御前をよくつとめた。第二に、我は一生で十二万石、お前は五十万石余りまで取り上げる。第三に、我は自ら手を下した働きがなく、お前は自分の働きで、直に討ち取る高名が七、八度あり、仕物も二度した。第四に、我は無分別なのに、お前は分別者だ。第五に、我はお前ただ一人の子を持ったが、お前には右衛門佐、甲斐守、千之助と三人まで男子がある。しかも皆、生まれ勝りだ。しかし、我がお前に勝ることが二つある。今、我が死ねば、十二万石の手勢はもちろん、お前の家中まで、あまりに心残りだと嘆くだろう。もしお前が死んで我が生きているなら、逆さまのことだが、如水がおられるから苦しくあるまい、と力を落とす者はあるまい。人の思いつきが我に及ばないのは、人の使い方が悪いからだ。心して学べ。次に、我は博奕が上手で、お前は下手だ。その訳は、関ケ原のとき、家康公と三成が取り合って百日も手間取るなら、我は九州から攻め上って勝ち、相模に入って天下を争うつもりだった。そのときはお前一人であっても、見捨てて一博奕に打ち込もうと思っていたのだ」と。
解説

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