名将言行録 / 『名将言行録』黑田孝高 山崎への強行
○秀吉、信長の弔合戰せんとて、高松より引返せし時、姫路に立寄らるべしと、人々思ひけるに、孝高姫路に馬を駐めらるべきこと、少しの間も然るべからず、假初の旅にも、家出は遲々するは人情なり、今度は主君の仇を討ち給ふべき爲めの軍なり、筒井、細川を始め、明智が親みある者共馳加はりなば、勇々敷大事なり、如何にやせんと思慮の未だ決せざる中に、急ぎて押付けられよと言ひければ、能くこそ謀りたれとて、一人も姫路へ寄りたらん者をば、忽ち誅すべしと觸れられたり。孝高、先達て人を走らし姫路の町人共、河原へ出で粥を支度して、軍兵をもてなすべし、と下知したりければ、飯肴を河原へ持出たり、去れど立寄らずして山崎表へ押付けられたり。 ○此時、孝高、小早川隆景を見て、藝備の旗を借り、秀吉を促がして歸れり。山崎の役、光秀既に利あらず、二氏の旗を望見して、以て大に駭き、二氏其衆を率るて至ると思ひ甲を棄て東走せり。秀吉、孝高を楠木正成が再誕なりと嘗て、譽めたり。然れども孝高深く之を以て自ら咎めり。
新字:○秀吉、信長の弔合戦せんとて、高松より引返せし時、姫路に立寄らるべしと、人々思ひけるに、孝高姫路に馬を駐めらるべきこと、少しの間も然るべからず、仮初の旅にも、家出は遅々するは人情なり、今度は主君の仇を討ち給ふべき為めの軍なり、筒井、細川を始め、明智が親みある者共馳加はりなば、勇々敷大事なり、如何にやせんと思慮の未だ決せざる中に、急ぎて押付けられよと言ひければ、能くこそ謀りたれとて、一人も姫路へ寄りたらん者をば、忽ち誅すべしと触れられたり。孝高、先達て人を走らし姫路の町人共、河原へ出で粥を支度して、軍兵をもてなすべし、と下知したりければ、飯肴を河原へ持出たり、去れど立寄らずして山崎表へ押付けられたり。 ○此時、孝高、小早川隆景を見て、芸備の旗を借り、秀吉を促がして帰れり。山崎の役、光秀既に利あらず、二氏の旗を望見して、以て大に駭き、二氏其衆を率るて至ると思ひ甲を棄て東走せり。秀吉、孝高を楠木正成が再誕なりと嘗て、誉めたり。然れども孝高深く之を以て自ら咎めり。
書き下し
○秀吉、信長の弔合戰せんとて、高松より引返せし時、姫路に立寄らるべしと、人々思ひけるに、孝高姫路に馬を駐めらるべきこと、少しの間も然るべからず、假初の旅にも、家出は遲々するは人情なり、今度は主君の仇を討ち給ふべき爲めの軍なり、筒井、細川を始め、明智が親みある者共馳加はりなば、勇々敷大事なり、如何にやせんと思慮の未だ決せざる中に、急ぎて押付けられよと言ひければ、能くこそ謀りたれとて、一人も姫路へ寄りたらん者をば、忽ち誅すべしと觸れられたり。孝高、先達て人を走らし姫路の町人共、河原へ出で粥を支度して、軍兵をもてなすべし、と下知したりければ、飯肴を河原へ持出たり、去れど立寄らずして山崎表へ押付けられたり。 ○此時、孝高、小早川隆景を見て、藝備の旗を借り、秀吉を促がして歸れり。山崎の役、光秀既に利あらず、二氏の旗を望見して、以て大に駭き、二氏其衆を率るて至ると思ひ甲を棄て東走せり。秀吉、孝高を楠木正成が再誕なりと嘗て、譽めたり。然れども孝高深く之を以て自ら咎めり。
現代語訳
秀吉が信長の弔い合戦をしようと高松から引き返したとき、人々は姫路に立ち寄るだろうと思っていました。孝高は、姫路に馬を留めることは、少しの間であっても適当でない、ちょっとした旅でも、家を出るのは遅くなりがちなのが人情だ、今度は主君の仇を討つための戦である、筒井、細川をはじめ、明智と親しい者が駆けつけて加われば、勇ましい大事である、どうしようと考えがまだ決まらないうちに、急いで押しつけなさいと言いました。秀吉は、よくぞ謀ったと言って、一人でも姫路に寄る者があれば、たちまち誅すると触れさせました。孝高は先に人を走らせ、姫路の町人たちは河原へ出て粥を用意して軍兵をもてなすようにと指示していたので、飯や肴を河原へ持ち出しました。軍勢は立ち寄らず、山崎の方面へ押し進みました。 このとき、孝高は小早川隆景に会い、芸備の旗を借り、秀吉を促して帰りました。山崎の戦いで、光秀はすでに不利になっており、二氏の旗を望み見て、大いに驚き、二氏が兵を率いて至ったと思い、甲を捨てて東へ逃げました。秀吉は、孝高を楠木正成の再誕だと、かつてほめました。しかし孝高は、深くこれを自ら咎めました。
解説

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