名将言行録 / 『名将言行録』黑田孝高 福岡の隠居暮らし
○福岡城略々成りければ、孝高、太宰府より、福岡城内三丸の地の小高き丘に館を構へて移居す。孝高、或日長政に、余、初めは家康公、若し討負け給はゞ、天下亂るべし、然らば、余九州を討平げ、其勢にて、中國を攻靡け、上方に登り、家康公を扶けて天下を一統せしめんと思ひしに、既に關ヶ原の戰に討勝ちて太平を致さるれば、我世に望みなし、今より後は、閑暇にして、餘年を樂まんと望むのみ、然れば國家の政は與り聞くべからず、只大事のみを問諮るべし、用ふべき事なければ、金銀も瓦石の如く、あだごとゝ思へば、人に用ひられんとの意もなし、居宅も美麗を望まず、飲食も麁薄にすべしと言ひ、宰府にては、社僧を召て、歌を讀み、連歌して月日を送り、三丸の館も、甚だ質朴に營み、召仕ふ者とては、倉米を與へし輕士四五人と、小者七人なれば、櫛橋氏(註:孝高夫人)の侍女も、五六人に過ぎず、嘗て家人共に、道にて余に逢ふとも避くべからずと言ひて、城下に出づれども、若黨に刀を持たしめ、小者一人を召連るのみ、常に小兒を愛しければ、出行を見れば、士人の子、五六歳より十歳計りの輩、爰彼所より來集し、孝高を中に包みて從ひけり。折々小鳥菓子を人に持だしめ、兒に興ふ。或は館に來りて、殿今日も早く出て遊び給へ、御供せんと催促して、館に入て遊び戲れ、障子を破り、庭を掘返して日を終へ、明れば、又來集して、斯の如し、孝高遊歩して疲るれば、臣下の貴賤を撰ばず、其道筋に隨ひて、其宅に立寄り、直ぐに奥に入りて、茶を飲み、休息せしかば、其妻子共、漸々に是に馴れて、憚る意なく、門前を通ると聞けば、下女を出して、立寄り給へと言ふに至れり、斯く名利を離れて世を過ごしけり。
新字:○福岡城略々成りければ、孝高、太宰府より、福岡城内三丸の地の小高き丘に館を構へて移居す。孝高、或日長政に、余、初めは家康公、若し討負け給はゞ、天下乱るべし、然らば、余九州を討平げ、其勢にて、中国を攻靡け、上方に登り、家康公を扶けて天下を一統せしめんと思ひしに、既に関ヶ原の戦に討勝ちて太平を致さるれば、我世に望みなし、今より後は、閑暇にして、余年を楽まんと望むのみ、然れば国家の政は与り聞くべからず、只大事のみを問諮るべし、用ふべき事なければ、金銀も瓦石の如く、あだごとゝ思へば、人に用ひられんとの意もなし、居宅も美麗を望まず、飲食も麁薄にすべしと言ひ、宰府にては、社僧を召て、歌を読み、連歌して月日を送り、三丸の館も、甚だ質朴に営み、召仕ふ者とては、倉米を与へし軽士四五人と、小者七人なれば、櫛橋氏(註:孝高夫人)の侍女も、五六人に過ぎず、嘗て家人共に、道にて余に逢ふとも避くべからずと言ひて、城下に出づれども、若党に刀を持たしめ、小者一人を召連るのみ、常に小児を愛しければ、出行を見れば、士人の子、五六歳より十歳計りの輩、爰彼所より来集し、孝高を中に包みて従ひけり。折々小鳥菓子を人に持だしめ、児に興ふ。或は館に来りて、殿今日も早く出て遊び給へ、御供せんと催促して、館に入て遊び戯れ、障子を破り、庭を掘返して日を終へ、明れば、又来集して、斯の如し、孝高遊歩して疲るれば、臣下の貴賤を撰ばず、其道筋に随ひて、其宅に立寄り、直ぐに奥に入りて、茶を飲み、休息せしかば、其妻子共、漸々に是に馴れて、憚る意なく、門前を通ると聞けば、下女を出して、立寄り給へと言ふに至れり、斯く名利を離れて世を過ごしけり。
書き下し
○福岡城略々成りければ、孝高、太宰府より、福岡城内三丸の地の小高き丘に館を構へて移居す。孝高、或日長政に、余、初めは家康公、若し討負け給はゞ、天下亂るべし、然らば、余九州を討平げ、其勢にて、中國を攻靡け、上方に登り、家康公を扶けて天下を一統せしめんと思ひしに、既に關ヶ原の戰に討勝ちて太平を致さるれば、我世に望みなし、今より後は、閑暇にして、餘年を樂まんと望むのみ、然れば國家の政は與り聞くべからず、只大事のみを問諮るべし、用ふべき事なければ、金銀も瓦石の如く、あだごとゝ思へば、人に用ひられんとの意もなし、居宅も美麗を望まず、飲食も麁薄にすべしと言ひ、宰府にては、社僧を召て、歌を讀み、連歌して月日を送り、三丸の館も、甚だ質朴に營み、召仕ふ者とては、倉米を與へし輕士四五人と、小者七人なれば、櫛橋氏(註:孝高夫人)の侍女も、五六人に過ぎず、嘗て家人共に、道にて余に逢ふとも避くべからずと言ひて、城下に出づれども、若黨に刀を持たしめ、小者一人を召連るのみ、常に小兒を愛しければ、出行を見れば、士人の子、五六歳より十歳計りの輩、爰彼所より來集し、孝高を中に包みて從ひけり。折々小鳥菓子を人に持だしめ、兒に興ふ。或は館に來りて、殿今日も早く出て遊び給へ、御供せんと催促して、館に入て遊び戲れ、障子を破り、庭を掘返して日を終へ、明れば、又來集して、斯の如し、孝高遊歩して疲るれば、臣下の貴賤を撰ばず、其道筋に隨ひて、其宅に立寄り、直ぐに奥に入りて、茶を飲み、休息せしかば、其妻子共、漸々に是に馴れて、憚る意なく、門前を通ると聞けば、下女を出して、立寄り給へと言ふに至れり、斯く名利を離れて世を過ごしけり。
現代語訳
福岡城がほぼ完成したので、孝高は、太宰府から福岡城内の三の丸の小高い丘に館を構えて移り住みました。孝高はある日、長政に言いました。私は初めは、家康公がもし討ち負けなされば、天下が乱れるだろう、そうなれば私は九州を討ち平らげ、その勢いで中国を攻め従え、上方に登り、家康公を助けて天下を統一させようと思った。ところがすでに関ヶ原の戦いに勝って太平を致されたので、私には世に望みがない。今より後は閑暇にして、余年を楽しむことだけを望む。それゆえ国家の政治には関わって聞くことはしない、ただ大事だけを尋ね諮れ。用いるべき事がなければ、金銀も瓦や石のようなものと、むだ事と思うので、人に用いられようとの意もない。居宅も華美を望まず、飲食も質素にする、と言い、太宰府では社僧を呼んで歌を詠み、連歌をして月日を送りました。三の丸の館も、大変質素に造り、召し使う者は、倉米を与えた軽輩の士四、五人と小者七人であったので、夫人の櫛橋氏の侍女も五、六人に過ぎませんでした。かつて家人たちに、道で私に会っても避けてはならないと言って、城下に出ても、若党に刀を持たせ、小者一人を連れるだけでした。常に子どもを愛したので、出かけるのを見ると、士人の子の五、六歳から十歳ほどの者たちが、あちこちから集まって来て、孝高を中に囲んで従いました。折々、小鳥や菓子を人に持たせて、子どもに与えました。あるいは館に来て、殿、今日も早く出て遊んでください、お供しますと催促し、館に入って遊び戯れ、障子を破り、庭を掘り返して日を終え、明ければまた集まり、このような有様でした。孝高は散歩して疲れれば、臣下の身分を問わず、その道筋にしたがって、その家に立ち寄り、そのまま奥に入って茶を飲み、休息したので、その妻子たちも次第に慣れ、憚る気持ちなく、門前を通ると聞けば、下女を出して、お立ち寄りくださいと言うほどになりました。こうして名利を離れて世を過ごしました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
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