名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 早めの遺言と正邪
これは、德川の天下になつてから後の作り話ならん ○秀吉曰く、世人死に臨み遺言すれども病甚だ重き時は、精神昏昧して、言ふこと能はざるに至るものなり。我は之に反し、平安無事の時遺言すべしとありて、言はれけるは、古より正しき時は、初め弱くとも、末に至りて必ず强し、邪なる時は、初め善しと雖も、末に至りて必ず害あり、愼まずんばあるべからずと。
新字:これは、徳川の天下になつてから後の作り話ならん ○秀吉曰く、世人死に臨み遺言すれども病甚だ重き時は、精神昏昧して、言ふこと能はざるに至るものなり。我は之に反し、平安無事の時遺言すべしとありて、言はれけるは、古より正しき時は、初め弱くとも、末に至りて必ず強し、邪なる時は、初め善しと雖も、末に至りて必ず害あり、慎まずんばあるべからずと。
書き下し
これは、德川の天下になつてから後の作り話ならん ○秀吉曰く、世人死に臨み遺言すれども病甚だ重き時は、精神昏昧して、言ふこと能はざるに至るものなり。我は之に反し、平安無事の時遺言すべしとありて、言はれけるは、古より正しき時は、初め弱くとも、末に至りて必ず强し、邪なる時は、初め善しと雖も、末に至りて必ず害あり、愼まずんばあるべからずと。
現代語訳
これは、徳川の天下になってから後の作り話だろう。 秀吉が言いました。世の人は死に臨んで遺言するが、病が重い時は精神が朦朧として、言うことができないほどになるものだ。私はそれと反対に、平安無事の時に遺言する、と言って、次のように語りました。昔から、正しいものは、初めは弱くても、終わりには必ず強くなる。邪なものは、初めはよく見えても、終わりには必ず害がある。慎まなければならない、と。
解説

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『新書』保傅殷は天子と為ること三十余世にして周之を受け、周は天子と為ること三十余世にして秦之を受け、秦は天子と為ること二世にして亡ぶ。人の性は甚だしくは相遠からざるに、何ぞ殷周の君は道有りて長く、秦は無道の暴なるや。其の故は知る可きなり。
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『武家家訓集』毛利元就三子教訓状「幼い子どもたちのこと」一唯今虫けらのやうなる子ども候、かやうの者、もし〱此內かしらまたく成人候ずるは、心もちなどかたの如くにも候ずるをば、れんみん候て、何方之遠堺たとにも可被置候、又ひやうろく無力之者たそべきは、治定之事候間、さ樣の者をば、何とやうに被申付候共、はからひにて候〱、何共不存候〱、今日までの心持速に此分候、三人と五龍之事は、少もわるく御入候者、我々にたいし候ての御不幸迄候〱、更無別候〱、
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