名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 疑われた利家と立花の銀
○秀吉、大佛へ行きし時、前田利家持病にて供せず、路次にて、利家謀反を企たる間、御用心あるべきの由訴ふる者あり。秀吉、偖も〱惡き奴哉、我等死たらば落涙すべき利家を、斯樣に申儀憎き奴なり、卽ち搦取て、利家へ渡し候へと言はれ、寺西筑後守を以て、彼者を利家に賜はりたり。利家忝く思ひ、彼者を糺問し、頃て利家、禮として出ければ秀吉淚を流し、其方を秀賴傅に賴みたるに付、我等と、其方とを中惡くせんと思ひての才覺も計り難ければ、糺問致し候樣にと言はれければ、利家涙に咽びけり。 ○立花宗茂大阪に上り、秀吉に謁見の時、殿中にて前に銀子百枚、臺に並べ置き、表へ出席を待居り候處に、殊の外奥の方より騷ヶ敷音聞え候故、何事かと思ひければ、秀賴を乳人抱き、童女交りに、秀吉は帶解きひろげにて、大小を尼孝藏主に持たせ、秀賴の雀の子を逃したるを追掛けて出られたり。時に宗茂を見て、立花にて候哉、見舞に參られ候や、此銀子は土産にて候や、過分なりとて、自身其臺の銀子一枚へぎ取りて、是は我等申受け候、殘りは其方へ參せ候、京都は殊の外面白き所なり、此銀子持參して、上京し綏りと遊山致すべしと言はれしとぞ。
新字:○秀吉、大仏へ行きし時、前田利家持病にて供せず、路次にて、利家謀反を企たる間、御用心あるべきの由訴ふる者あり。秀吉、偖も〱悪き奴哉、我等死たらば落涙すべき利家を、斯様に申儀憎き奴なり、即ち搦取て、利家へ渡し候へと言はれ、寺西筑後守を以て、彼者を利家に賜はりたり。利家忝く思ひ、彼者を糺問し、頃て利家、礼として出ければ秀吉涙を流し、其方を秀頼傅に頼みたるに付、我等と、其方とを中悪くせんと思ひての才覚も計り難ければ、糺問致し候様にと言はれければ、利家涙に咽びけり。 ○立花宗茂大阪に上り、秀吉に謁見の時、殿中にて前に銀子百枚、台に並べ置き、表へ出席を待居り候処に、殊の外奥の方より騷ヶ敷音聞え候故、何事かと思ひければ、秀頼を乳人抱き、童女交りに、秀吉は帯解きひろげにて、大小を尼孝蔵主に持たせ、秀頼の雀の子を逃したるを追掛けて出られたり。時に宗茂を見て、立花にて候哉、見舞に参られ候や、此銀子は土産にて候や、過分なりとて、自身其台の銀子一枚へぎ取りて、是は我等申受け候、残りは其方へ参せ候、京都は殊の外面白き所なり、此銀子持参して、上京し綏りと遊山致すべしと言はれしとぞ。
書き下し
○秀吉、大佛へ行きし時、前田利家持病にて供せず、路次にて、利家謀反を企たる間、御用心あるべきの由訴ふる者あり。秀吉、偖も〱惡き奴哉、我等死たらば落涙すべき利家を、斯樣に申儀憎き奴なり、卽ち搦取て、利家へ渡し候へと言はれ、寺西筑後守を以て、彼者を利家に賜はりたり。利家忝く思ひ、彼者を糺問し、頃て利家、禮として出ければ秀吉淚を流し、其方を秀賴傅に賴みたるに付、我等と、其方とを中惡くせんと思ひての才覺も計り難ければ、糺問致し候樣にと言はれければ、利家涙に咽びけり。 ○立花宗茂大阪に上り、秀吉に謁見の時、殿中にて前に銀子百枚、臺に並べ置き、表へ出席を待居り候處に、殊の外奥の方より騷ヶ敷音聞え候故、何事かと思ひければ、秀賴を乳人抱き、童女交りに、秀吉は帶解きひろげにて、大小を尼孝藏主に持たせ、秀賴の雀の子を逃したるを追掛けて出られたり。時に宗茂を見て、立花にて候哉、見舞に參られ候や、此銀子は土産にて候や、過分なりとて、自身其臺の銀子一枚へぎ取りて、是は我等申受け候、殘りは其方へ參せ候、京都は殊の外面白き所なり、此銀子持參して、上京し綏りと遊山致すべしと言はれしとぞ。
現代語訳
秀吉が大仏殿へ行ったとき、前田利家は持病のためお供をしませんでした。道中で、利家が謀反を企てているので御用心なさいと訴え出る者がいました。秀吉は、なんとも悪い奴だ、私が死んだら涙を流してくれるはずの利家を、このように言うのは憎い奴だ、すぐに捕らえて利家に引き渡せと言い、寺西筑後守を使って、その者を利家に預けました。利家はありがたく思って、その者を取り調べ、やがて礼を言いに出向くと、秀吉は涙を流して、お前を秀頼の傅役に頼んだので、私とお前の仲を悪くさせようとする企みかもしれない、だから取り調べるようにと言ったのだと語り、利家は涙にむせびました。 立花宗茂が大坂に上って秀吉に謁見したとき、殿中で、前に銀百枚が台に並べて置かれ、表へ出て席を待っていました。すると奥のほうから騒がしい音が聞こえました。何事かと思うと、乳母が秀頼を抱き、童女たちが交じり、秀吉は帯を解いてひろげ、大小の刀を尼の孝蔵主に持たせて、秀頼が雀の子を逃がしたのを追いかけて出てきました。秀吉は宗茂を見て、立花か、見舞いに来たのか、この銀は土産か、ありがたいと言って、自分でその台から銀を一枚はぎ取り、これは私がもらう、残りはお前にやる、京都は格別面白い所だ、この銀を持って上京し、ゆっくり遊山せよと言いました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
史記 魯仲連鄒陽列伝鄒陽は、斉人なり。梁に游び、故の呉人荘忌夫子・淮陰の枚生の徒と交はる。書を上りて羊勝・公孫詭の間に介す。勝等鄒陽を嫉み、之を梁の孝王に悪す。孝王怒り、之を吏に下し、将に之を殺さんと欲す。鄒陽客游して、讒を以て禽へらる。死して負累せんことを恐れ、乃ち獄中より書を上りて曰く、臣聞く、忠は報いられざる無く、信は疑はれずと。臣常に以て然りと為せしも、徒だ虚語のみ。昔者、荊軻は燕丹の義を慕ひ、白虹日を貫くも、太子之を畏る。衛先生は秦の為に長平の事を画し、太白昴を蝕すも、昭王之を疑ふ。夫れ精は天地を変ずるも、信は両主に喩らず。豈に哀しからずや。今、臣忠を尽くし誠を竭くし、議を畢くして知られんことを願ふも、左右明らかならず、卒に吏の訊に従ひ、世の疑ふ所と為る。是れ荊軻・衛先生をして復た起たしむるも、燕・秦悟らざるなり。願はくは大王孰く之を察せよ。昔、卞和宝を献じて、楚王之を刖る。李斯忠を竭くして、胡亥極刑にす。是を以て箕子は詳り狂ひ、接輿は世を辟く。此の患に遭はんことを恐るればなり。願はくは大王、卞和・李斯の意を孰察して、楚王・胡亥の聴を後にし、臣をして箕子・接輿の笑ふ所と為らしむる無かれ。臣聞く、比干は心を剖かれ、子胥は鴟夷せらると。臣始め信ぜざりしも、乃ち今之を知る。願はくは大王孰察して、少しく憐れみを加へよ。諺に曰く、「白頭にして新たなるが如き有り、傾蓋にして故きが如し」と。何となれば、知ると知らざるとなり。故に昔、樊於期は秦を逃れて燕に之き、首を荊軻に藉して以て丹の事を奉ず。王奢は斉を去りて魏に之き、城に臨みて自剄し、以て斉を卻けて魏を存す。夫れ王奢・樊於期は、斉・秦に新たにして燕・魏に故きに非ざるなり。二国を去りて両君に死する所以の者は、行ひ志に合ひて義を慕ふこと窮まり無ければなり。是を以て蘇秦は天下に信ぜられざるも、燕の為に尾生たり。白圭は戦ひて六城を亡ふも、魏の為に中山を取る。何となれば、誠に以て相知る有ればなり。
-
史記 樗里子甘茂列伝秦の武王の三年、甘茂に謂ひて曰く、「寡人、車を容れて三川に通じ、以て周室を窺はんと欲す、而して寡人死すとも朽ちざらん」と。甘茂曰く、「請ふ魏に之き、約して以て韓を伐たん、而して向寿をして輔け行かしめよ」と。甘茂至り、向寿に謂ひて曰く、「子帰りて、これを王に言ひて曰へ、『魏は臣に聴けり、然れども願はくは王伐つこと勿かれ』と。事成らば、尽く以て子の功と為さん」と。向寿帰りて、以て王に告ぐ。王、甘茂を息壌に迎ふ。甘茂至る、王その故を問ふ。対へて曰く、「宜陽は大県なり、上党・南陽これを積むこと久し。名づけて県と曰ふも、その実は郡なり。今、王、数険に倍き、千里を行きてこれを攻むるは難し。昔、曾参の費に処るや、魯人に曾参と姓名を同じくする者有りて人を殺す。人その母に告げて曰く『曾参人を殺せり』と。その母、織ること自若たり。頃之くして、一人また告げて曰く『曾参人を殺せり』と。その母尚ほ織ること自若たり。頃くしてまた一人告げて曰く『曾参人を殺せり』と。その母、杼を投じ機を下り、墻を踰えて走る。夫れ曾参の賢とその母のこれを信ずるとを以てするも、三人これを疑へば、その母懼る。今、臣の賢は曾参に若かず、王の臣を信ずることもまた曾参の母の曾参を信ずるに如かず、臣を疑ふ者は特に三人のみに非ず。臣は大王の杼を投ぜんことを恐る。始め張儀、西のかた巴蜀の地を并せ、北のかた西河の外を開き、南のかた上庸を取る。天下は張子を多とせずして先王を賢とす。魏の文侯、楽羊をして将として中山を攻めしむ、三年にしてこれを抜く。楽羊返りて功を論ず、文侯これに謗書一篋を示す。楽羊再拝稽首して曰く、『此れ臣の功に非ざるなり、主君の力なり』と。今、臣は羈旅の臣なり。樗里子・公孫奭の二人の者、韓を挟みてこれを議せば、王必ずこれを聴かん。是れ王は魏王を欺きて、臣は公仲侈の怨みを受くるなり」と。王曰く、「寡人は聴かざるなり、請ふ子と盟はん」と。卒に丞相甘茂をして兵を将ゐて宜陽を伐たしむ。五月にして抜けず、樗里子・公孫奭果たしてこれを争ふ。武王、甘茂を召し、兵を罷めんと欲す。甘茂曰く、「息壌は彼に在り」と。王曰く、「これ有り」と。因りて大いに悉く兵を起こし、
-
詩経・小雅・甫田之什・青蠅青蠅(せいよう)は、大夫、幽王を刺るなり。 営営(えいえい)たる青蠅、樊(まがき)に止まる。豈弟(がいてい)の君子、讒言を信ずること無かれ。 営営たる青蠅、棘(いばら)に止まる。讒人極まり罔(な)し、四国を交(こもごも)乱す。 営営たる青蠅、榛(はしばみ)に止まる。讒人極まり罔し、我が二人を構(へだ)つ。
-
『晏子春秋』外篇上・景公問治國之患晏子,對以佞人讒夫在君側景公晏子に問うて曰く、「国を治むるの患い、亦常有るか」と。対えて曰く、「佞人讒夫の君が側に在る者、良臣を好悪して、行いを小人に与う。此れ国を治むるの常の患いなり」と。公曰く、「讒佞の人は、則ち誠に不善なり。然りと雖も、則ち奚ぞ曾ち国の常の患いと為さんや」と。晏子曰く、「君以て耳目と為して好んで事を謀らば、則ち是れ君の耳目繆れるなり。夫れ上は君の耳目を乱し、下は群臣をして皆其の職を失わしむ。豈に誠に患うるに足らざらんや」と。公曰く、「是くの如きか。寡人将に之を去らんとす」と。晏子曰く、「公は去ること能わざるなり」と。公忿然として色を作して説ばず、曰く、「夫子何ぞ寡人を少んずることの甚だしき」と。対えて曰く、「臣何ぞ敢えて撟らんや。夫れ能く自ら君に周き者は、才能皆常に非ず。夫れ大不誠を中に蔵する者は、必ず小誠を外に謹み、以て其の大不誠を成す。入りては則ち君の嗜欲を求めて能く之に順い、君良臣を怨めば、則ち其の往失を具えて之を益す。出でては則ち威を行いて以て富を取る。夫れ何ぞ密近にして、大利に変ぜられず、務めて君と義を至くする者は、此れ見難く且つ知り難きなり」と。公曰く、「然らば則ち先聖は奈何せん」と。
-
戦国策・蘇秦自齊獻書於燕王蘇秦、斉自り書を燕王に献じて曰く、「臣の行くや、固より将に口事有らんとするを知る、故に御書を献じて行けり、曰く、『臣斉に貴くば、燕の大夫将に臣を信ぜざらんとす。臣賤しくば、将に臣を軽んぜんとす。臣用いられば、将に多く臣に望まんとす。斉不善有らば、将に罪を臣に帰せんとす。天下斉を攻めずんば、将に善く斉の為に謀ると曰わんとす。天下斉を攻めば、将に斉と兼ねて臣を鄮せんとす。臣の重んずる所は重卯に処る』と。王臣に謂いて曰く、『吾必ず衆口と讒言とを聴かず、吾女を信ずること、猶お𠛄を剗るがごとし。上は以て斉に用いらるるを得べく、次は以て下に信ぜらるるを得べし、苟くも死無くんば、女為さざる無かれ、女を以て自ら信とすべし』と。之と言いて曰く、『燕を去りて斉に之くは可なり、事を成すに期するのみ』と。臣令を受けて以て斉に任ぜられ、五年に及べり。斉数々兵を出だすも、未だ嘗て燕を謀らず。斉・趙の交わり、一たびは合し一たびは離る。燕王斉と与に趙を謀らずんば、則ち趙と与に斉を謀る。斉の燕を信ずるや、北地を虚しくして其の兵を行るに至れり。今王田伐と参・去疾との言を信じ、且に斉を攻めんとし、斉をして犬馬𩤊がしめて燕を言わざらしむ。今王又慶をして臣に令せしめて曰く、『吾善しとする所を用いんと欲す』と。王苟くも之を用いんと欲せば、則ち臣請う王が為に之に事えん。王臣を醳きて剸ら善しとする所に任ぜんと欲せば、則ち臣請う事を帰し醳かん。臣苟くも見ゆるを得ば、則ち願いに盈てり」と。
-
『春秋左氏伝』昭公六年 加籩を辞す夏、季孫宿晉に如く。莒の田を拜するなり。晉侯之を享して加籩有り。武子退き、行人をして告げしめて曰く、「小國の大國に事ふるや、苟も討たるるを免るれば、敢へて貺(たまもの)を求めず。貺を得るも三獻に過ぎず。今豆に加有り、下臣堪へず。乃ち戾(つみ)無からんや」と。韓宣子曰く、「寡君以て驩と為すなり」と。對へて曰く、「寡君すら猶ほ未だ敢へてせず、況んや下臣をや。君の隸なり、敢へて加貺を聞かんや」と。固く加を徹せんことを請ひて、而る後に事を卒ふ。晉人以て禮を知ると為し、其の好貨を重くす。宋の寺人柳寵有り。大子佐之を惡む。華合比曰く、「我之を殺さん」と。柳之を聞き、乃ち坎して牲を用ゐ書を埋めて、公に告げて曰く、「合比將に亡人の族を納れんとし、既に北郭に盟へり」と。公之を視しむるに、有り。遂に華合比を逐ふ。合比衛に奔る。是に於いて華亥右師に代はらんと欲し、乃ち寺人柳と比(した)しむ。從ひて之が徵を為して曰く、「之を聞くこと久し」と。公之に代はらしむ。左師に見ゆ。左師曰く、「女夫(なんぢ)や必ず亡びん。女而(なんぢ)の宗室を喪ふ、人に於いて何か有らん。人も亦た女に於いて何か有らん。詩に曰く、『宗子は維れ城、城をして壞らしむること毋かれ、獨りにして斯れ畏るること毋かれ』と。女其れ畏れよや」と。