名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 地震の日の伏見城
○慶長元年七月十二日、大地震にて伏見城の樓閣悉く破損す。家康急ぎ登城ありて、秀吉に對面ありて、其無異を賀せられ、且つ速に天機を伺ふべきにやと言はれければ、秀吉も吾も左こそ思ひつれども斯る大變にて陪從の者未だ調はず、幸のことなれば、德川殿、共に參らせ給へ、其從士を借り申さめとありて、德川の陪從計りにて、共に出立る、秀吉、久敷刀を佩かで、今日は殊に腰の邊重もり堪難し、德川殿の從臣の内に持せ給はれとあれば、家康自ら持たせられければ、其れにては反りて心苦し、平らに家臣の中に渡し給へとあるにぞ、井伊直政に渡さる。兎角する内に、彼の家人共追々に馳付て、駕輿も昇來りたれば、秀吉輿に乗らんとする及び、家康の供に列せし本多忠勝を呼ばれ、汝等が下心には、今日こそ秀吉を討んに、能き時節なりと思ひつらめ、去れど汝が主の家康は、去る懷に入りし鳥を殺す樣なる事はせぬ人なり、前きに我刀を汝に持せ度は思ひしが、折惡敷く隔たりし故、間に合はでいと殘り多し、汝に持せたらば、嘸面白かりなんものを、斯く思はるゝも、汝等は必竟小氣者なればなり、小氣者よ〱と笑ひながら、輿に乘られしかば、忠勝は何とも言はず、只俯伏して在りしとぞ。
新字:○慶長元年七月十二日、大地震にて伏見城の楼閣悉く破損す。家康急ぎ登城ありて、秀吉に対面ありて、其無異を賀せられ、且つ速に天機を伺ふべきにやと言はれければ、秀吉も吾も左こそ思ひつれども斯る大変にて陪従の者未だ調はず、幸のことなれば、徳川殿、共に参らせ給へ、其従士を借り申さめとありて、徳川の陪従計りにて、共に出立る、秀吉、久敷刀を佩かで、今日は殊に腰の辺重もり堪難し、徳川殿の従臣の内に持せ給はれとあれば、家康自ら持たせられければ、其れにては反りて心苦し、平らに家臣の中に渡し給へとあるにぞ、井伊直政に渡さる。兎角する内に、彼の家人共追々に馳付て、駕輿も昇来りたれば、秀吉輿に乗らんとする及び、家康の供に列せし本多忠勝を呼ばれ、汝等が下心には、今日こそ秀吉を討んに、能き時節なりと思ひつらめ、去れど汝が主の家康は、去る懐に入りし鳥を殺す様なる事はせぬ人なり、前きに我刀を汝に持せ度は思ひしが、折悪敷く隔たりし故、間に合はでいと残り多し、汝に持せたらば、嘸面白かりなんものを、斯く思はるゝも、汝等は必竟小気者なればなり、小気者よ〱と笑ひながら、輿に乗られしかば、忠勝は何とも言はず、只俯伏して在りしとぞ。
書き下し
○慶長元年七月十二日、大地震にて伏見城の樓閣悉く破損す。家康急ぎ登城ありて、秀吉に對面ありて、其無異を賀せられ、且つ速に天機を伺ふべきにやと言はれければ、秀吉も吾も左こそ思ひつれども斯る大變にて陪從の者未だ調はず、幸のことなれば、德川殿、共に參らせ給へ、其從士を借り申さめとありて、德川の陪從計りにて、共に出立る、秀吉、久敷刀を佩かで、今日は殊に腰の邊重もり堪難し、德川殿の從臣の内に持せ給はれとあれば、家康自ら持たせられければ、其れにては反りて心苦し、平らに家臣の中に渡し給へとあるにぞ、井伊直政に渡さる。兎角する内に、彼の家人共追々に馳付て、駕輿も昇來りたれば、秀吉輿に乗らんとする及び、家康の供に列せし本多忠勝を呼ばれ、汝等が下心には、今日こそ秀吉を討んに、能き時節なりと思ひつらめ、去れど汝が主の家康は、去る懷に入りし鳥を殺す樣なる事はせぬ人なり、前きに我刀を汝に持せ度は思ひしが、折惡敷く隔たりし故、間に合はでいと殘り多し、汝に持せたらば、嘸面白かりなんものを、斯く思はるゝも、汝等は必竟小氣者なればなり、小氣者よ〱と笑ひながら、輿に乘られしかば、忠勝は何とも言はず、只俯伏して在りしとぞ。
現代語訳
慶長元年七月十二日、大地震で伏見城の楼閣はことごとく破損しました。家康は急いで登城し、秀吉に対面して無事を祝い、すぐに天皇のご機嫌を伺いに参内なさるべきではないかと言いました。秀吉も自分もそう思っていたが、このような大変事で供の者がまだ揃わない、ちょうどよい機会なので、徳川殿もご一緒に、その家来を借りたいと言い、徳川の供だけで共に出立しました。秀吉は、長く刀を差していなかったので、今日は特に腰のあたりが重くて耐えがたい、徳川殿の家臣の誰かに持たせてくれと言いました。家康が自ら持とうとすると、それではかえって気が引ける、家臣の誰かに渡してくれと言うので、井伊直政に渡しました。そうこうするうちに秀吉の家来たちが次々に駆けつけ、駕籠も運ばれてきたので、秀吉は輿に乗ろうとして、家康の供に加わっていた本多忠勝を呼びました。お前の腹の中では、今日こそ秀吉を討つのによい機会だと思っただろう、しかしお前の主人の家康は、懐に入った鳥を殺すようなことをしない人だ、先ほど私の刀をお前に持たせたかったが、折悪しく離れていて間に合わず、とても残念だ、お前に持たせたらさぞ面白かっただろうに、こう思うのも、お前たちがつまるところ小心者だからだ、小心者よ小心者よ、と笑いながら輿に乗りました。忠勝は何も言わず、ただうつ伏していたということです。
解説

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史記 張耳陳余列伝人をして陳王に報ぜしむ。陳王大いに怒り、尽く武臣等の家を族し、而して兵を発して趙を撃たんと欲す。陳王の相国房君諫めて曰く、「秦未だ亡びずして武臣等の家を誅せば、此れ又一秦を生ずるなり。因りて之を賀し、急ぎ兵を引きて西のかた秦を撃たしむるに如かず」と。陳王之を然りとし、其の計に従ひ、武臣等の家を宮中に徙系し、張耳の子敖を封じて成都君と為す。陳王使者をして趙を賀せしめ、趣やかに兵を発して西のかた関に入らしむ。張耳・陳餘武臣に説きて曰く、「王の趙に王たるは、楚の意に非ず。特だ計を以て王を賀するのみ。楚已に秦を滅ぼさば、必ず兵を趙に加へん。願はくは王西に兵する毋く、北のかた燕・代を徇へ、南のかた河内を収めて以て自ら広くせよ。趙南に大河に拠り、北に燕・代有らば、楚秦に勝つと雖も、必ず敢て趙を制せず」と。趙王以て然りと為し、因りて西に兵せず、而して韓広をして燕を略し、李良をして常山を略し、張黶をして上党を略せしむ。韓広燕に至る。燕人因りて広を立てて燕王と為す。趙王乃ち張耳・陳餘と北のかた地を燕の界に略す。趙王間に出で、燕軍の得る所と為る。燕将之を囚へ、与に趙の地の半ばを分かたんと欲し、乃ち王を帰さんとす。使者往けば、燕輒ち之を殺して以て地を求む。張耳・陳餘之を患ふ。廝養の卒有りて其の舎中に謝して曰く、「吾公の為に燕に説き、趙王と載せて帰らん」と。舎中皆笑ひて曰く、「使者往くこと十余輩、輒ち死す。若何を以て能く王を得ん」と。乃ち燕の壁に走る。燕将之を見る。燕将に問ひて曰く、「臣が何をか欲するを知るか」と。燕将曰く、「若は趙王を得んと欲するのみ」と。曰く、「君は張耳・陳餘の何如なる人なるかを知るか」と。燕将曰く、「賢人なり」と。曰く、「其の志の何をか欲するかを知るか」と。曰く、「其の王を得んと欲するのみ」と。趙の養卒乃ち笑ひて曰く、「君は未だ此の両人の欲する所を知らざるなり。夫れ武臣・張耳・陳餘は馬箠を杖つきて趙の数十城を下す。此れ亦各々南面して王たらんと欲す。豈に卿相と為りて己を終へんと欲せんや。
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『春秋左氏伝』僖公三十三年 子上、泜水に退く晉・陳・鄭許を伐つ、其の楚に貳するを討つなり。楚の令尹子上陳・蔡を侵す。陳・蔡成す。遂に鄭を伐ち、將に公子瑕を納れんとす。桔柣(きつてつ)の門に門す。瑕周氏の汪(わう)に覆る。外僕の髡屯(こんとん)之を禽へて以って獻ず。文夫人斂めて之を鄶城の下に葬る。晉の陽處父蔡を侵す。楚の子上之を救ひ、晉の師と泜(ち)を夾みて軍す。陽子之を患ひ、子上に謂はしめて曰く、「吾之を聞く、『文は順を犯さず、武は敵を違けず』と。子若し戰はんと欲せば、則ち吾退舍せん。子濟りて陳せよ。遲速唯だ命のままにせん。然らずんば、我を紓(ゆる)せ。師を老(つか)らせ財を費やすも、亦た益無きなり」と。乃ち駕して以って待つ。子上涉らんと欲す。大孫伯曰く、「不可なり。晉人信無し。半ば涉りて我に薄らば、悔い敗るとも何ぞ及ばん。之を紓すに如かず」と。乃ち退舍す。陽子宣言して曰く、「楚の師遁れたり」と。遂に歸る。楚の師も亦た歸る。大子商臣子上を譖(しん)して曰く、「晉の賂を受けて之を辟く、楚の恥なり。罪焉より大なるは莫し」と。王子上を殺す。僖公を葬る。緩なり。主を作る、禮に非ざるなり。凡そ君薨ずれば、卒哭して祔(ふ)し、祔して主を作り、特に主に祀り、烝・嘗・禘は廟に於いてす。
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史記 孟嘗君列伝斉王、秦・楚の毀りに惑ひ、以為へらく孟嘗君は名その主より高くして斉国の権を擅にすと。遂に孟嘗君を廃す。諸客孟嘗君の廃せらるるを見て、皆去る。馮驩曰く、「臣に車一乗を借せ、以て秦に入るべき者、必ず君をして国に重くして奉邑益々広からしめん、可なるか」と。孟嘗君乃ち車幣を約してこれを遣る。馮驩乃ち西して秦王に説きて曰く、「天下の游士の軾に馮り靷を結びて西して秦に入る者は、秦を彊くして斉を弱めんと欲せざるは無し。軾に馮り靷を結びて東して斉に入る者は、斉を彊くして秦を弱めんと欲せざるは無し。此れ雄雌の国なり、勢ひ両立して雄たらず、雄たる者は天下を得ん」と。秦王跽きてこれに問ひて曰く、「何を以てせば秦をして雌と為ること無からしめて可ならん」と。馮驩曰く、「王もまた斉の孟嘗君を廃せるを知るか」と。秦王曰く、「これを聞く」と。馮驩曰く、「斉をして天下に重からしむる者は、孟嘗君なり。今、斉王毀りを以てこれを廃す、その心怨み、必ず斉に背かん。斉に背きて秦に入らば、則ち斉国の情、人事の誠、尽くこれを秦に委ね、斉の地得べきなり、豈に直だに雄たるのみならんや。君、急ぎ使ひをして幣を載せて陰かに孟嘗君を迎へしめよ、時を失ふべからざるなり。如し斉覚悟する有りて、また孟嘗君を用ひば、則ち雌雄の在る所未だ知るべからざるなり」と。秦王大いに悦び、乃ち車十乗・黄金百鎰を遣りて以て孟嘗君を迎へしむ。馮驩辞して以て先に行き、斉に至り、斉王に説きて曰く、「天下の游士の軾に馮り靷を結びて東して斉に入る者は、斉を彊くして秦を弱めんと欲せざる者は無し。軾に馮り靷を結びて西して秦に入る者は、秦を彊くして斉を弱めんと欲せざる者は無し。夫れ秦・斉は雄雌の国なり、秦彊ければ則ち斉弱し、此れ勢ひ両雄ならず。
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史記 匈奴列伝故約は、漢常に翁主を遣はし、繒絮食物を給すること品有り、以て和親す。而して匈奴も亦辺を擾さず。今乃ち古に反し、吾が太子をして質と為さしめんと欲す。幾ど無からん」と。匈奴の俗、漢の使の中貴人に非ざるを見れば、其の儒先なるは、以為へらく説かんと欲すと、其の弁を折く。其の少年なるは、以為へらく刺さんと欲すと、其の気を折く。漢の使匈奴に入る毎に、匈奴輒ち報償す。漢匈奴の使を留むれば、匈奴も亦漢の使を留め、必ず当たるを得て乃ち肯へて止む。楊信既に帰る。漢王烏を使はす。而して単于復た甘言を肴して、多く漢の財物を得んと欲し、紿きて王烏に謂ひて曰く、「吾漢に入りて天子に見え、面相約して兄弟と為らんと欲す」と。王烏帰りて漢に報ず。漢単于の為に邸を長安に築く。匈奴曰く、「漢の貴人の使を得るに非ずんば、吾与に誠語せず」と。匈奴其の貴人をして漢に至らしむ。病む。漢薬を予へて、之を愈やさんと欲するも、不幸にして死す。而して漢の使路充国二千石の印綬を佩びて往きて使ひし、因りて其の喪を送り、厚く葬ること数千金に直り、曰く「此れ漢の貴人なり」と。単于以為へらく漢吾が貴使者を殺せりと。乃ち路充国を留めて帰さず。諸々の言ふ所の者は、単于特に空しく王烏を紿くのみにして、殊に漢に入り及び太子を遣はして来り質たらしむるに意無し。是に於て匈奴数々奇兵をして辺を侵犯せしむ。漢乃ち郭昌を拝して抜胡将軍と為し、及び浞野侯朔方以東に屯して、胡に備ふ。路充国匈奴に留まること三歳、単于死す。烏維単于立ちて十歳にして死し、子烏師廬立ちて単于と為る。年少く、号して児単于と為す。是の歳は元封六年なり。此より後、単于益々西北し、左方の兵は雲中に直り、右方は酒泉・燉煌郡に直る。児単于立ち、漢両使者をして、一は単于を弔ひ、一は右賢王を弔はしめ、以て其の国を乖かしめんと欲す。使者匈奴に入る。匈奴悉く将ゐて単于に致す。単于怒りて尽く漢の使を留む。
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孫子・始計篇利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し、卑にしてこれを驕らしめ、佚にしてこれを労し、親にしてこれを離す。
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『鬼谷子』飛箝篇鉤箝の辭を引き、飛ばして之を箝む。鉤箝の語は、其の說辭なり。乍ち同じく乍ち異なる。其の善くすべからざる者は、或いは先ず之を徵して後に重ね累ね、或いは先ず重ねて以て累ねて後に之を毁ち、或いは重累を以て毁と爲し、或いは毁を以て重累と爲す。