名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 豪傑の資質と初陣
○宗茂十三歲の時、鎭種出陣することありしに、いざや、汝も出陣せよかしと戲れを言ければ、宗茂畏りて仰なくとも御供仕度候へ共、未だ強健ならず、斯くて敵に逢なば言甲斐なき死を仕るべし、今一兩年も過ぎなば、一方を承はりて罷向んとぞ申ける。聞く人其思慮の深きに感ぜり。 ○宗茂幼年にて、鑑連の許に行て遊び居たる時、鑑連、家臣に命じ、科人を我前にて討たせたり。不意のことなれば宗茂如何思ひけるやと、鑑連、宗茂が胸に手を入れて見るに、聊かも動悸せず。是より鑑連、宗茂が豪傑の資あるを察し、終に鎭種に乞て、養子と爲せり。 ○天正十二年、宗茂、父と共に軍に出て、秋月の勇士堀江備前を打取れり。其號令を傳宣し、士卒を指揮する體、才勇絕倫、旣に良將の風ありと言へり。時に年十六。 ○十三年、鑑連、鎭種黑木城を攻む。秋月種實其虞を窺ひ、兵八千に將として來り、立花を侵す。宗茂吾若年にして未だ軍事に練れざると侮り必ず油斷して居らん、一と夜討して之を追拂はんと言ふ。鷹野三河、之を諫む。宗茂聽かず五百餘人を率ひ、種實を襲ひ擊て之を走らせり。
新字:○宗茂十三歳の時、鎮種出陣することありしに、いざや、汝も出陣せよかしと戯れを言ければ、宗茂畏りて仰なくとも御供仕度候へ共、未だ強健ならず、斯くて敵に逢なば言甲斐なき死を仕るべし、今一両年も過ぎなば、一方を承はりて罷向んとぞ申ける。聞く人其思慮の深きに感ぜり。 ○宗茂幼年にて、鑑連の許に行て遊び居たる時、鑑連、家臣に命じ、科人を我前にて討たせたり。不意のことなれば宗茂如何思ひけるやと、鑑連、宗茂が胸に手を入れて見るに、聊かも動悸せず。是より鑑連、宗茂が豪傑の資あるを察し、終に鎮種に乞て、養子と為せり。 ○天正十二年、宗茂、父と共に軍に出て、秋月の勇士堀江備前を打取れり。其号令を伝宣し、士卒を指揮する体、才勇絶倫、既に良将の風ありと言へり。時に年十六。 ○十三年、鑑連、鎮種黒木城を攻む。秋月種実其虞を窺ひ、兵八千に将として来り、立花を侵す。宗茂吾若年にして未だ軍事に練れざると侮り必ず油断して居らん、一と夜討して之を追払はんと言ふ。鷹野三河、之を諫む。宗茂聴かず五百余人を率ひ、種実を襲ひ撃て之を走らせり。
書き下し
○宗茂十三歲の時、鎭種出陣することありしに、いざや、汝も出陣せよかしと戲れを言ければ、宗茂畏りて仰なくとも御供仕度候へ共、未だ強健ならず、斯くて敵に逢なば言甲斐なき死を仕るべし、今一兩年も過ぎなば、一方を承はりて罷向んとぞ申ける。聞く人其思慮の深きに感ぜり。 ○宗茂幼年にて、鑑連の許に行て遊び居たる時、鑑連、家臣に命じ、科人を我前にて討たせたり。不意のことなれば宗茂如何思ひけるやと、鑑連、宗茂が胸に手を入れて見るに、聊かも動悸せず。是より鑑連、宗茂が豪傑の資あるを察し、終に鎭種に乞て、養子と爲せり。 ○天正十二年、宗茂、父と共に軍に出て、秋月の勇士堀江備前を打取れり。其號令を傳宣し、士卒を指揮する體、才勇絕倫、旣に良將の風ありと言へり。時に年十六。 ○十三年、鑑連、鎭種黑木城を攻む。秋月種實其虞を窺ひ、兵八千に將として來り、立花を侵す。宗茂吾若年にして未だ軍事に練れざると侮り必ず油斷して居らん、一と夜討して之を追拂はんと言ふ。鷹野三河、之を諫む。宗茂聽かず五百餘人を率ひ、種實を襲ひ擊て之を走らせり。
現代語訳
宗茂が十三歳のとき、鎮種が出陣することがあり、さあ、お前も出陣せよ、と戯れに言うと、宗茂は恐れ入って、仰せがなくてもお供いたしたく存じますが、まだ強健ではありません。このままで敵に逢ったなら、言いがいのない死に方をするでしょう。今一、二年過ぎましたら、一方を承って向かいましょう、と申しました。聞く人はその思慮の深さに感心しました。 宗茂が幼年のとき、鑑連のもとへ行って遊んでいたとき、鑑連が家臣に命じて、罪人を自分の前で討たせました。不意のことだったので、宗茂はどう思っただろうかと、鑑連が宗茂の胸に手を入れて見ると、少しも動悸がしていません。これより鑑連は、宗茂に豪傑の資質があることを察し、ついに鎮種に乞うて、養子にしたということです。 天正十二年、宗茂は父とともに戦に出て、秋月の勇士堀江備前を討ち取りました。その号令を伝え、士卒を指揮する様子は、才勇が抜きんでていて、すでに良将の風があると言われました。時に年十六でした。 十三年、鑑連と鎮種が黒木城を攻めました。秋月種実がその隙をうかがい、兵八千を率いて来て、立花を侵しました。宗茂は、向こうは私が若くてまだ軍事に慣れないと侮り、きっと油断しているだろう、一夜討ちして追い払おうと言いました。鷹野三河がこれを諫めましたが、宗茂は聞かず、五百余人を率い、種実を襲い撃って走らせました。
解説

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