名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 一和の兵と名を求めぬ心
○宗茂曰く、戰は兵の多少に依らず、一和の兵に之なくては、何程大人數たりとも、勝利なきものなり、道雪以來、我等に於ても、小人數にて度々大利を得たり。是は兵の和故なり、其一和の元は平日懇にするに在り、一言の義にても、身を捨るものなれば、大將たる者心得べきこととなりと。 ○小瀨甫菴、太閤記を編輯する時、宗茂の記録を求む。宗茂笑て、我の爲す所天下の公論に在り、豈に名を求むるが爲めにして、其功を錄せんやと言て、之に與へず。 ○宗茂、人となり溫純寛厚、徳ありて驕らず、功ありて驕らず、人を用ふる、己に由る、善に從ふ、流るゝが如し。侫人を遠け、奢侈を禁じ、民を撫するに恩を以てし、士を勵すに義を以てす。故に士皆之が用たるを樂めり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻れば必ず取り、戰へば必ず克てり。
新字:○宗茂曰く、戦は兵の多少に依らず、一和の兵に之なくては、何程大人数たりとも、勝利なきものなり、道雪以来、我等に於ても、小人数にて度々大利を得たり。是は兵の和故なり、其一和の元は平日懇にするに在り、一言の義にても、身を捨るものなれば、大将たる者心得べきこととなりと。 ○小瀨甫菴、太閤記を編輯する時、宗茂の記録を求む。宗茂笑て、我の為す所天下の公論に在り、豈に名を求むるが為めにして、其功を録せんやと言て、之に与へず。 ○宗茂、人となり温純寛厚、徳ありて驕らず、功ありて驕らず、人を用ふる、己に由る、善に従ふ、流るゝが如し。侫人を遠け、奢侈を禁じ、民を撫するに恩を以てし、士を励すに義を以てす。故に士皆之が用たるを楽めり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻れば必ず取り、戦へば必ず克てり。
書き下し
○宗茂曰く、戰は兵の多少に依らず、一和の兵に之なくては、何程大人數たりとも、勝利なきものなり、道雪以來、我等に於ても、小人數にて度々大利を得たり。是は兵の和故なり、其一和の元は平日懇にするに在り、一言の義にても、身を捨るものなれば、大將たる者心得べきこととなりと。 ○小瀨甫菴、太閤記を編輯する時、宗茂の記録を求む。宗茂笑て、我の爲す所天下の公論に在り、豈に名を求むるが爲めにして、其功を錄せんやと言て、之に與へず。 ○宗茂、人となり溫純寛厚、徳ありて驕らず、功ありて驕らず、人を用ふる、己に由る、善に從ふ、流るゝが如し。侫人を遠け、奢侈を禁じ、民を撫するに恩を以てし、士を勵すに義を以てす。故に士皆之が用たるを樂めり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻れば必ず取り、戰へば必ず克てり。
現代語訳
宗茂は言う。戦は兵の多少によらず、一和の兵でなくては、どれほど大人数であっても勝利はないものだ。道雪以来、我らにおいても、小人数で度々大利を得た。これは兵が和していたからである。その一和の元は、平日に懇ろにすることにある。一言の義にでも身を捨てるものであるから、大将たる者の心得るべきことである、と。 小瀬甫庵が『太閤記』を編集するとき、宗茂の記録を求めた。宗茂は笑って、私のなすところは天下の公論にある、どうして名を求めるために、その功を記録させようか、と言って、これを与えなかった。 宗茂は人となりが温厚で純粋、寛大で厚く、徳があっても驕らず、功があっても驕らなかった。人を用いることは自分で決め、善に従うことは流れるようであった。佞人を遠ざけ、奢侈を禁じ、民を撫するには恩をもってし、士を励ますには義をもってした。それゆえ士は皆その用に立つことを楽しんだ。その兵を用いるや、奇正は天性から出て、攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。
解説

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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 大津城攻めと橋の保全○大津の役、宗茂城攻の體、他に異なり、玉績きの矢よりも迅からんことを欲し、玉藥の筒餘多繩に貫き、輕卒等、具足の上に是を割り、足に掛させ、自餘の寄手の輕兵等が一放の間に、三發程發しければ、敵味方とも目を驚かせり。又仕寄を付くる、其術も諸將に替はりける、先づ宗茂が攻口より城に向て、其幅一間半計り、深さ六尺餘り、千鳥掛に壕を穿て其土を壕の向へ揚げ、高さ一間計りに、土居を築て、軍卒並に人夫、壕中を往來し、思ひの儘に竹束を付ければ城兵弓銃を放つと雖も、立花勢壕の底土居の陰を往來し、敢て中らず、却て稠く鳥銃を發しける故、遂に矢狹間を閉ぢしとぞ。 ○宗茂、關ヶ原の敗を聞き、軍を旋し、大阪に至る時、瀨田の橋に燒草を積み、日下與右衞門大阪よりの下知の由申て燒落さんとす。宗茂之を見て、古より關東勢の上京に、橋を落し利に成りたることなし、燒くことは固く無用なり、伏見に逗留の間は、橋を燒かずとも、形の如く防戰すべく間、燒くことは無用なりと言て、伏見に三日逗留して、歸國せり。後家康聞かれ、聞き及びたるより優しき心入と、感ぜられしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 助命嘆願と官位の辞退○此時、宗茂、和爾江遍原と曰ふ者を攻む。會々秀吉筑紫下向に付、宗茂より使を以て城中へ申入れけるは、今度某は太閤へ目見に出候間、其中は城攻を見合せ候に付、其方よりも手前殘し置候者に、手指致さる間敷候、彌々其意を得られ候はゞ、兩人義は太閤へ申上、助命致すべし、併し當時鍋島も寄手なれば、某不在の內、鍋島攻められ落城の程心許なく候と申遣はせり。城より返事に、委細承り候御不在中殘し置かれ候者に、手指致す間敷候、太閤へ仰上られ、我等共命を御助け之あるべきとの義、其意を得候、只今まで籠城致し、一戰をも遂げず候段殘念に存候間、降參候事は存寄らず候へ共、天下へ對しての義、各別のことに候間、如何樣にも仕るべく候、其中鍋島攻め申分にては、中々落城致す間敷由、申越せり。偖宗茂、秀吉へ謁見相濟み、兩人の事を言上して、助命を乞ふ。秀吉聽かず、宗茂頻りに乞ふ。秀吉、淺野長政をして、宗茂を諭さしむ。宗茂、兩人のこと御赦免之なく候はゞ、私どもを御成敗下され度、と强て乞ふに依り、秀吉も是非なく、兩人の罪を免されけり。 ○十六年、宗茂上京す。秀吉、羽柴の族を賜はり、四位の侍從に敍任せらるべしとありければ宗茂承はり、昇殿を許さるゝこと今生の思ひ出にて候、去ながら、大友義統未だ五位にて罷在れば、彼を超申さんこと本意にあらず、仰ぎ願くば只五位に叙せられかしと望み申ければ、神妙の志なり、暫らく五位にて置かれしが、頓て四位に叙せられけり。