名将言行録 / 『名将言行録』立花宗茂 奢りを戒める普請論
○宗茂、柳川の本領を賜はりし時、入部の賀儀として、家中の人々饗應をして曰く、昔佐野源左衞門が本領を安堵せしは、罪なくして所領失ひし故なり、我等ことは御敵と成りたる罪あり、然るを、舊領賜はること、誠に以て厚恩なり、然れども一つは、當家武勇道雪以來、世に恥ることなし、是等の事杯御賞翫ありしも知らず、然らば向後は猶更に、上下武備を忘るべからずと敎戒せられけり。 ○鍋島勝茂、宗茂が柳川入部の祝に來り、歸りし後立花壹岐、田中殿御城は勿論、侍屋敷まで結構に拵へ置かれし故、今度の御客にも、見苦敷所之なく候と申す。宗茂聞て、夫は惡きことなり、其子細は、箇樣に手廣く普請するは、皆奢りより出るものなり、居宅廣大なれば端々の者は寄り付かぬものなり、左樣に物每餘情ヶ間敷くしては上と下とは大分遠ざかり、上の事も下に直ぐに知れず、下の事は猶上に知れぬものなり、田中は筑後の一國を領したれども、大事の大坂陣には用銀之なく、人數を引違れることならず、終に滅亡に及びたり、是は皆上と下と遠くして、役にも立ぬ城普請杯に物を入れ、家を潰すのみならず、果ては腰拔にて候、上を學ぶ下にて、下に召使侍共も、入らざる居宅杯結構にせり、我は城も□畫にして、小屋掛にて置度思ふ上は、雨露さへ凌げば能し、居宅の見苦敷と、衣類の黑きと、召使者共の不首尾なる杯と言ふは、何程人に笑はれても名字に塵の付くことはなきものなり、と言はれけり。壹岐を始め、何れも感歎せり。
新字:○宗茂、柳川の本領を賜はりし時、入部の賀儀として、家中の人々饗応をして曰く、昔佐野源左衛門が本領を安堵せしは、罪なくして所領失ひし故なり、我等ことは御敵と成りたる罪あり、然るを、旧領賜はること、誠に以て厚恩なり、然れども一つは、当家武勇道雪以来、世に恥ることなし、是等の事杯御賞翫ありしも知らず、然らば向後は猶更に、上下武備を忘るべからずと教戒せられけり。 ○鍋島勝茂、宗茂が柳川入部の祝に来り、帰りし後立花壱岐、田中殿御城は勿論、侍屋敷まで結構に拵へ置かれし故、今度の御客にも、見苦敷所之なく候と申す。宗茂聞て、夫は悪きことなり、其子細は、箇様に手広く普請するは、皆奢りより出るものなり、居宅広大なれば端々の者は寄り付かぬものなり、左様に物毎余情ヶ間敷くしては上と下とは大分遠ざかり、上の事も下に直ぐに知れず、下の事は猶上に知れぬものなり、田中は筑後の一国を領したれども、大事の大坂陣には用銀之なく、人数を引違れることならず、終に滅亡に及びたり、是は皆上と下と遠くして、役にも立ぬ城普請杯に物を入れ、家を潰すのみならず、果ては腰抜にて候、上を学ぶ下にて、下に召使侍共も、入らざる居宅杯結構にせり、我は城も□画にして、小屋掛にて置度思ふ上は、雨露さへ凌げば能し、居宅の見苦敷と、衣類の黒きと、召使者共の不首尾なる杯と言ふは、何程人に笑はれても名字に塵の付くことはなきものなり、と言はれけり。壱岐を始め、何れも感嘆せり。
書き下し
○宗茂、柳川の本領を賜はりし時、入部の賀儀として、家中の人々饗應をして曰く、昔佐野源左衞門が本領を安堵せしは、罪なくして所領失ひし故なり、我等ことは御敵と成りたる罪あり、然るを、舊領賜はること、誠に以て厚恩なり、然れども一つは、當家武勇道雪以來、世に恥ることなし、是等の事杯御賞翫ありしも知らず、然らば向後は猶更に、上下武備を忘るべからずと敎戒せられけり。 ○鍋島勝茂、宗茂が柳川入部の祝に來り、歸りし後立花壹岐、田中殿御城は勿論、侍屋敷まで結構に拵へ置かれし故、今度の御客にも、見苦敷所之なく候と申す。宗茂聞て、夫は惡きことなり、其子細は、箇樣に手廣く普請するは、皆奢りより出るものなり、居宅廣大なれば端々の者は寄り付かぬものなり、左樣に物每餘情ヶ間敷くしては上と下とは大分遠ざかり、上の事も下に直ぐに知れず、下の事は猶上に知れぬものなり、田中は筑後の一國を領したれども、大事の大坂陣には用銀之なく、人數を引違れることならず、終に滅亡に及びたり、是は皆上と下と遠くして、役にも立ぬ城普請杯に物を入れ、家を潰すのみならず、果ては腰拔にて候、上を學ぶ下にて、下に召使侍共も、入らざる居宅杯結構にせり、我は城も□畫にして、小屋掛にて置度思ふ上は、雨露さへ凌げば能し、居宅の見苦敷と、衣類の黑きと、召使者共の不首尾なる杯と言ふは、何程人に笑はれても名字に塵の付くことはなきものなり、と言はれけり。壹岐を始め、何れも感歎せり。
現代語訳
宗茂が柳川の本領を賜って入部した祝いとして、家中の人々に饗応して言った。昔、佐野源左衛門が本領を安堵されたのは、罪なくして所領を失ったからである。我らは御敵となった罪があるのに、旧領を賜ること、まことに厚恩である。しかしまた一つには、当家は道雪以来の武勇の道で、世に恥じることがない、こうしたことをご賞翫になったのかもしれない。それならば今後はなおさら、上下とも武備を忘れてはならない、と教え戒められた。 鍋島勝茂が、宗茂の柳川入部の祝いに来て、帰った後、立花壱岐が、田中殿の御城はもちろん、侍屋敷まで立派に造っておきましたので、今度のお客にも、見苦しいところはございません、と言った。宗茂は聞いて、それは悪いことである、その理由は、このように広く普請するのは皆奢りから出るものである、居宅が広大だと端々の者は寄り付かなくなる、そのように何事も余情がましくしては、上と下とは大いに遠ざかり、上のことも下にすぐには知れず、下のことはなおさら上に知れないものだ、田中は筑後一国を領したが、大事の大坂の陣には用銀がなく、人数を引き連れることもできず、ついに滅亡に及んだ、これは皆、上と下とが遠く、役にも立たぬ城普請などに物を費やし、家を潰すだけでなく、果ては腰抜けになったのだ、上を学ぶ下は、下に召し使う侍たちも、いらぬ居宅などを立派にした。私は城も□画のまま小屋掛けにしておきたいと思っているのだから、雨露さえしのげばよい、居宅が見苦しいこと、衣類が黒いこと、召し使う者どもの不首尾などと言うことは、どれほど人に笑われても、名字に塵がつくことはないものだ、と言われた。壱岐をはじめ、皆感嘆した。
解説

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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 軍法書に勝る日頃の情○立花が臣蒲池宗碩が軍法の學び傳へし者ありしが、後其書亡びて傳はらず。一日忠茂、宗茂に向ひ、右の書物は如何樣の事を記し申たるものに候やと尋ぬ。宗茂格別なること之なし、敵に向ひ、勢の多少に依らず、兵を交ふる時、一定利を得るの理を記したるものなり、是は大將たる者の心持にあることとなり、我家人なればとて、敵に向ひたる時、如何に采幣を取て、只進め、死ねと言たればとて、左樣に下知に從ふものにては之なし、常と上から、下を子の如く愛憐を加へ、下から亦、上を親の樣に思ふ如く、人を使へば、下知をせずとも、上の善き樣にならではせぬものなり、と言はれけり。 ○德川義直、嘗て宗茂に合戰の要務を問ふ。宗茂、方々の軍功とても、何流の軍法を用ふると言ふ義もなし、何れも善しと言ふ所を取用ひ、尤も謀ほ其節に至りて、敵の勢次第なり、世間の一萬の兵と、我の三千、五千の兵と異ならず、是も軍の備方宜しきと言ふのみにあらず、常に兵士を依怙最屓なく、痛く勤勞せしむることなく、慈悲を加へ、少々の過失は其通りに致し國法に外れたる者は、其法に行ふのみなり、某小身なれば、俸祿とても、高に應じ、少しづゝ與へしなれども、常に慈悲を專に致し、愛憐する故、戰に臨み、皆一命を捨て力戰し、皆某が功に成れり、其外に能きことはなきと答へり。義直殊に感稱せり。侍臣此話を聞き、能き所を説かれたりと、大に喜ぶ。此後、義直臣下に愛憐を垂れしかば、一藩喜びて、宗茂公は希代の名將なりと稱せり。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 恩賞の誘いを断る○加藤清正、黑田孝高、薩摩の內まで出陣の所、家康より、島津事先達て味方に參るべきの由申越たる間、兩家の人數を引入候樣にと申來りし故、各歸陣なり、此時清正、宗茂に申すは薩摩表へ出陣に付貴殿にも御娛みがてら御同道致度なり、人數を召連られ候はゞ、夫々に知行等、賜はらずしても成り難ければ、玉名郡殘らず、御支配成さる樣にとの義なり、宗茂曰く頃日まで別心なき島津に、某只今の仕合に罷成りしとて、何故合戰の用意致すべく候哉、少しにても關東の忠節振を致すべしとの義に候哉、左樣の義努々存寄り之なく候、且つ玉名郡支配の義、上より賜はりなば兎も角も、貴殿より賜はりては、肥後一國にても、受納致間敷と云はれけり。 ○宗茂、京、伏見の間に浪遊して居たりしが、朝夕の料理等も、時に寄り殊の外差支へり。或時すべき樣なく、雜水を拵へ出しければ、入らざる汁掛け飯にして、出さずとも、只出させと言はれければ、近臣覺えず、涙を流せり。此頃前田利長より加賀へ越されなば、十萬石進んずべくとのことなり。宗茂、兎角の返事もせず、惡い奴共が腰は拔けながら、色々の事を申すと言はれければ、取次ぎし者、殊の外迷惑せりとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 信綱を弁護した一言○松平信綱、島原にての指麾宜しからずと聞えしかば、歸府の後、家光目見なし、時に宗茂、家光の前に出、島原のこと申述、偖今度若き伊豆守差下されし義、如何と存ぜし所に、物每に痒き所に手の屆く樣に、捌き申したるを見聞仕り、驚入候と申しゝ時、家光伊豆守こと不屈なることゝ之ある樣、承はり及びし所に、其方申分相違の樣に存ずると言はる。宗茂、箇樣の大なることに端々の者まで殘らず能きと申には成り申さゞるものにて候、善惡ともに落着の首尾合ふ合はぬにて、御勘辨あるべき義かと申ければ、尤もの由言はれて、信綱目見申付られたり。宗茂退出の後、立花が壽命長くしても、長かれかしと存ずると言はれしとぞ。 ○立花壹岐、宗茂に向ひ、何某事數年御奉公を能く相勤候、少地にても賜はり候はゞ、如何あろべきやと申ければ、宗茂聞て、此以前結城宰相殿、家康公へ、戸田三郎右衞門は數年の間、御奉公能く仕候間、御加恩仰付られ然るべきやとの取合に、家康公仰られ候は、小刀は度々便ひて用を達すれども、さして馳走せず、刀脇差は一代多くて、五度か三度か命をかばふ用に立つる故、殊の外崇敬するなりと計り仰せられけると言けるとぞ。 ○宗茂曰く、數年試みるに、人々戰場にて働きたることを、後には是非ともに飾立て申たがるものなり、是は我身ながらも、少し足らぬと存ずる故、申すにて之あるべし、未だ足らぬ働きと思はず、誠の侍たる道を存ぜしものなり。少しの働きを自慢することの多きは、是非に及ばざることなりと。
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名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 下女を拝んだ老将○直茂老年に及び、夜々小便に通ふに、女共の臥居たるを見て、拜みて通りたり、何れも不審に思ひ尋ねければ、直茂、偖は女共見咎めたるか、我等若年の頃は、中々不如意に候ひつるに、只今召使候下女等、結構の夜物抔を著たるを見れば、偏に天道の御恩忝くと、身に餘り存じたる故、覺えず拜みて通りたりと言へり。 ○直茂、家臣上國の事を知らず、萬事不都合なるを以て、稻垣權左衞門と曰ふ者を抱て二百石與へたり、一日直茂、高傳寺に詣る、門に張札あり、『御譜第の者だに取らぬ地行をば、いながきが來て二百石取る。』と、直茂歸宅の上、譜第の者にさへ無沙汰致し、他方の者に知行呉れること、何れも不合點の段尤も至極なり、我等誤り痛入たり、公儀方不調法にても、國家の害には成らずと言て、權左衞門に右の段を、諭し暇を賜はりしとぞ。 ○佐嘉の城普請成就せし時、直茂、勝茂と之を巡視す、勝茂敵寄せ來る時の物合を、一々講釋す。直茂、後、近臣に向ひ、勝茂には城取の敵合に精を出し講釋をするが、腹切る所を忘れては居らぬかと言はれしとぞ。直茂には繩張備立抔は大概にし、只家臣一和して主人を恨みざる樣になし、自然の時は、上下一致に突掛り切崩すことを、專一に心得られしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 領民に慕われた開城○加藤清正扱にて、宗茂開城し、瀨高門を出る時、庄屋百姓百四五十人路を遮り出て、如何樣のこと之あり候とも、御下城遊ばさるゝこと御無用に存奉るなり、筑後四郡の百姓共、今度の義に御座候間、一命を差上げ申こと侍中へも少しも劣り申間敷、箇樣申上ぐるに御承引なく御出之あるとも、全く出し奉る間敷由、聲を揃へ申ければ、宗茂馬より下り、何れも申聞けゝる所、滿足なり、領內の諸人の爲めに、下城致すなり、少しも替はりたることに之有間敷候間、何れも心易く存ぜよと言はれければ、百姓共聲を揚げて泣けり。宗茂左樣に皆々が申如く致しては、却て我爲め宜しからず候間、皆々歸れ〳〵と言はれければ、何れも泣々く路を開きけり。再び本領を賜はり、入部せし時、何れも呼出し、夫々に辭を掛けしとぞ。宗茂の民心を得る率ね是類なり。 ○宗茂城を出て清正と挨拶せし時、常に少しも替はらず、清正の□流石立花殿なり、如何なる強氣の大將にても、侍にても少しは氣後れするものなるに、平生よりも見事なる取廻はしなりと言て、人皆感じあへり。