名将言行録 / 『名将言行録』高橋鎭種 和睦を退ける返答
鎭種返事に丁寧に仰賜はる條、忝く存ずるなり、去ながら、鎭種假令命を惜く思ひて降參すとも、立花宗茂、若き人なれば同心あらんとも存ぜず、又鎭種、宗茂同心にて貴家に屬したりとも、大友義統同心あらんこと、是も知らず、若し鎭種方より義統、宗茂へ斯くと申入たる時、彼兩人同心なくば、鎭種面目を失ふのみならず、此間の所存皆水に成ること無念の至なり、此扱を二年も三年も前に仰せ給はりなば、如何にも同心致すべし、今は大友も威衰へ、鎭種、宗茂も難儀なる籠城に及びて、降參致すことは、是非に及ばざる所なり、秀吉公の援兵も未だ着陣なく、又大友より、當城後詰は思ひも寄らず、然らば、此大軍に取圍まれし上は、鎭種切腹致すに相極めたり、秀吉公に斯くと申上げ、多年大友と契約せしこと、今更引違へ難し、當國領地の義は、島津殿より賜はらずとも、古來より持來りたる所なり、其上當春秀吉公、九州國分の義仰下されしにも、筑前太宰府は九州の都なれば、當國は公領に成さるべし、鎭種、宗茂には何國にても新地を賜はるべしとの御朱印を戴きたり。此上は不義の下に生きて名を汚さんより、忠義を守りて、死て佳名を殘さんには如かずと思ひ切て候なり、島津殿、物毎順道に執行はるゝ由仰せ聞けられ候、左候はゞ、鎭種は不義の働致さぬ士なれば、筒樣に城を攻らることは如何と存ずるなり。龍造寺、秋月等は表裏の士なれば、彼等が首を切て遺はさば、鎭種事も人質を出し、貴家に屬し申べしと返答せしかば、和睦の扱も事切れにけり。明れば二十七日諸軍一同押寄せ、卯の刻より軍始まりて、午の刻の終りまで、寄手の大軍入替はりて攻たりけるに、手負死人數知れず、去れども死骸を踏み越、息をも繼せず、攻戰ふ。今日を限りと思ひ切たる城兵、各持口を一足も引かず、切死したり。
新字:鎮種返事に丁寧に仰賜はる条、忝く存ずるなり、去ながら、鎮種仮令命を惜く思ひて降参すとも、立花宗茂、若き人なれば同心あらんとも存ぜず、又鎮種、宗茂同心にて貴家に属したりとも、大友義統同心あらんこと、是も知らず、若し鎮種方より義統、宗茂へ斯くと申入たる時、彼両人同心なくば、鎮種面目を失ふのみならず、此間の所存皆水に成ること無念の至なり、此扱を二年も三年も前に仰せ給はりなば、如何にも同心致すべし、今は大友も威衰へ、鎮種、宗茂も難儀なる籠城に及びて、降参致すことは、是非に及ばざる所なり、秀吉公の援兵も未だ着陣なく、又大友より、当城後詰は思ひも寄らず、然らば、此大軍に取囲まれし上は、鎮種切腹致すに相極めたり、秀吉公に斯くと申上げ、多年大友と契約せしこと、今更引違へ難し、当国領地の義は、島津殿より賜はらずとも、古来より持来りたる所なり、其上当春秀吉公、九州国分の義仰下されしにも、筑前太宰府は九州の都なれば、当国は公領に成さるべし、鎮種、宗茂には何国にても新地を賜はるべしとの御朱印を戴きたり。此上は不義の下に生きて名を汚さんより、忠義を守りて、死て佳名を残さんには如かずと思ひ切て候なり、島津殿、物毎順道に執行はるゝ由仰せ聞けられ候、左候はゞ、鎮種は不義の働致さぬ士なれば、筒様に城を攻らることは如何と存ずるなり。竜造寺、秋月等は表裏の士なれば、彼等が首を切て遺はさば、鎮種事も人質を出し、貴家に属し申べしと返答せしかば、和睦の扱も事切れにけり。明れば二十七日諸軍一同押寄せ、卯の刻より軍始まりて、午の刻の終りまで、寄手の大軍入替はりて攻たりけるに、手負死人数知れず、去れども死骸を踏み越、息をも継せず、攻戦ふ。今日を限りと思ひ切たる城兵、各持口を一足も引かず、切死したり。
書き下し
鎭種返事に丁寧に仰賜はる條、忝く存ずるなり、去ながら、鎭種假令命を惜く思ひて降參すとも、立花宗茂、若き人なれば同心あらんとも存ぜず、又鎭種、宗茂同心にて貴家に屬したりとも、大友義統同心あらんこと、是も知らず、若し鎭種方より義統、宗茂へ斯くと申入たる時、彼兩人同心なくば、鎭種面目を失ふのみならず、此間の所存皆水に成ること無念の至なり、此扱を二年も三年も前に仰せ給はりなば、如何にも同心致すべし、今は大友も威衰へ、鎭種、宗茂も難儀なる籠城に及びて、降參致すことは、是非に及ばざる所なり、秀吉公の援兵も未だ着陣なく、又大友より、當城後詰は思ひも寄らず、然らば、此大軍に取圍まれし上は、鎭種切腹致すに相極めたり、秀吉公に斯くと申上げ、多年大友と契約せしこと、今更引違へ難し、當國領地の義は、島津殿より賜はらずとも、古來より持來りたる所なり、其上當春秀吉公、九州國分の義仰下されしにも、筑前太宰府は九州の都なれば、當國は公領に成さるべし、鎭種、宗茂には何國にても新地を賜はるべしとの御朱印を戴きたり。此上は不義の下に生きて名を汚さんより、忠義を守りて、死て佳名を殘さんには如かずと思ひ切て候なり、島津殿、物毎順道に執行はるゝ由仰せ聞けられ候、左候はゞ、鎭種は不義の働致さぬ士なれば、筒樣に城を攻らることは如何と存ずるなり。龍造寺、秋月等は表裏の士なれば、彼等が首を切て遺はさば、鎭種事も人質を出し、貴家に屬し申べしと返答せしかば、和睦の扱も事切れにけり。明れば二十七日諸軍一同押寄せ、卯の刻より軍始まりて、午の刻の終りまで、寄手の大軍入替はりて攻たりけるに、手負死人數知れず、去れども死骸を踏み越、息をも繼せず、攻戰ふ。今日を限りと思ひ切たる城兵、各持口を一足も引かず、切死したり。
現代語訳
鎭種は返事で、丁寧に仰せをいただいたことを忝く存じると述べ、こう言いました。「しかしながら、鎭種がたとえ命を惜しく思って降参したとしても、立花宗茂は若い人なので同心するとは思えません。また、鎭種と宗茂が同心して貴家に属したとしても、大友義統が同心するかどうかも分かりません。もし鎭種の方から義統と宗茂にこれこれと申し入れたとき、あの両人が同心しなければ、鎭種は面目を失うのみならず、この間の所存がすべて水の泡になること、無念の至りです。この取り扱いを二年も三年も前に仰せいただいていたなら、いかにも同心いたしましょう。今は大友も威が衰え、鎭種、宗茂も難儀な籠城に及んで降参することは、やむを得ない所ですが、秀吉公の援兵もまだ着陣なく、また大友からの後詰めは思いもよりません。そうであれば、この大軍に取り囲まれた上は、鎭種は切腹すると決めております。秀吉公にこうと申し上げ、多年大友と契約したことを、今さら違えることはできません。当国の領地のことは、島津殿から賜らなくても、古来から持ち来たった所です。そのうえ当春、秀吉公が九州国分のことを仰せ下されたときも、筑前太宰府は九州の都であるから、当国は公領にされ、鎭種、宗茂には何国にでも新地を賜る、との御朱印をいただいております。この上は不義の下に生きて名を汚すよりは、忠義を守って死に、佳名を残すに及ばぬと思い切りました。島津殿は物事を順道に執り行われると仰せ聞かれますが、そうであれば、鎭種は不義の働きをしない士なのに、このように城を攻められるのはどうかと存じます。龍造寺、秋月などは表裏のある士ですから、彼らの首を切って遣わしてくださるなら、鎭種も人質を出し、貴家に属しましょう」と返答したので、和睦の扱いは決裂しました。明けて二十七日、諸軍が一同に押し寄せ、卯の刻から戦が始まって、午の刻の終わりまで、寄せ手の大軍が入れ替わりながら攻めましたが、手負い、死人は数知れません。それでも死骸を踏み越え、息をつがせず攻め戦いました。今日を限りと思い切った城兵は、各々持ち口を一足も引かず、斬り死にしました。
解説

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