名将言行録 / 『名将言行録』戸次鑑連 敵を討たず、跡を託す
○家臣の某、鑑連に向ひ、今日博多に歌舞妓見物のありしが、秋月筑前守種實、僧體にて忍びて見物に出られたり。某に命ぜられば打取り申べしと言ふ。鑑連聞て、己は憎き奴なり、秋月程の者が己を頼みだまし打になるべきや、秋月抔は息災にあらしめ、重ねて一戰の場にて勝負を決せんこそ本意なるべけれ、夫を墨き心底の奴哉と叱られて、秋月の城下に人を遣はし、秋月殿粗相の體にて、見物の座へ出らるゝを、戸次の家臣、狙ふ者あり、能々用心あられよと觸れさせたり。 ○鑑連の武勇、山陰、山陽、南海までも、鬼の如く沙汰せり。又東國にては、武田晴信、鑑連の人となりを聞き、數百里の所を、書を贈り對面を欲すと言越せり。又秋月種實は、西海にて隱れなき武勇の人なりけるが、兎角鑑連が威に怖れて、終に大友氏に降參せり。 ○鑑連、子なし。高橋鎭種の嫡男宗茂を養て子とせんと欲し、鎭種に乞ふ。鎭種肯ぜず、鑑連重ねて乞て曰く、我今七十有餘に至り、國家の衰運にや、賊徒は負けても、勢日に張り、味方は勝ても勢日に衰ふ。近くは島津、龍造寺、遠くは毛利の大敵を、我死して後誰か御邊と心を合はせ、大友家を助くべき、宗茂をして、戸次の家を相續せしめ、我死後まで御邊と心を合せ、國家の屆けを致すべし、全く家の爲めを思ふにあらず、國の爲めに乞ふ所なりと。鎭種、其意氣慷慨なるに感歎し、最愛の嫡子を鑑連にぞ與へける。宗茂、戸次の家を繼ぎ、大友氏の衰運に少しも志を變ぜず、父鎭種と共に國家の屆を爲せり。
新字:○家臣の某、鑑連に向ひ、今日博多に歌舞妓見物のありしが、秋月筑前守種実、僧体にて忍びて見物に出られたり。某に命ぜられば打取り申べしと言ふ。鑑連聞て、己は憎き奴なり、秋月程の者が己を頼みだまし打になるべきや、秋月抔は息災にあらしめ、重ねて一戦の場にて勝負を決せんこそ本意なるべけれ、夫を墨き心底の奴哉と叱られて、秋月の城下に人を遣はし、秋月殿粗相の体にて、見物の座へ出らるゝを、戸次の家臣、狙ふ者あり、能々用心あられよと触れさせたり。 ○鑑連の武勇、山陰、山陽、南海までも、鬼の如く沙汰せり。又東国にては、武田晴信、鑑連の人となりを聞き、数百里の所を、書を贈り対面を欲すと言越せり。又秋月種実は、西海にて隠れなき武勇の人なりけるが、兎角鑑連が威に怖れて、終に大友氏に降参せり。 ○鑑連、子なし。高橋鎮種の嫡男宗茂を養て子とせんと欲し、鎮種に乞ふ。鎮種肯ぜず、鑑連重ねて乞て曰く、我今七十有余に至り、国家の衰運にや、賊徒は負けても、勢日に張り、味方は勝ても勢日に衰ふ。近くは島津、竜造寺、遠くは毛利の大敵を、我死して後誰か御辺と心を合はせ、大友家を助くべき、宗茂をして、戸次の家を相続せしめ、我死後まで御辺と心を合せ、国家の届けを致すべし、全く家の為めを思ふにあらず、国の為めに乞ふ所なりと。鎮種、其意気慷慨なるに感嘆し、最愛の嫡子を鑑連にぞ与へける。宗茂、戸次の家を継ぎ、大友氏の衰運に少しも志を変ぜず、父鎮種と共に国家の届を為せり。
書き下し
○家臣の某、鑑連に向ひ、今日博多に歌舞妓見物のありしが、秋月筑前守種實、僧體にて忍びて見物に出られたり。某に命ぜられば打取り申べしと言ふ。鑑連聞て、己は憎き奴なり、秋月程の者が己を頼みだまし打になるべきや、秋月抔は息災にあらしめ、重ねて一戰の場にて勝負を決せんこそ本意なるべけれ、夫を墨き心底の奴哉と叱られて、秋月の城下に人を遣はし、秋月殿粗相の體にて、見物の座へ出らるゝを、戸次の家臣、狙ふ者あり、能々用心あられよと觸れさせたり。 ○鑑連の武勇、山陰、山陽、南海までも、鬼の如く沙汰せり。又東國にては、武田晴信、鑑連の人となりを聞き、數百里の所を、書を贈り對面を欲すと言越せり。又秋月種實は、西海にて隱れなき武勇の人なりけるが、兎角鑑連が威に怖れて、終に大友氏に降參せり。 ○鑑連、子なし。高橋鎭種の嫡男宗茂を養て子とせんと欲し、鎭種に乞ふ。鎭種肯ぜず、鑑連重ねて乞て曰く、我今七十有餘に至り、國家の衰運にや、賊徒は負けても、勢日に張り、味方は勝ても勢日に衰ふ。近くは島津、龍造寺、遠くは毛利の大敵を、我死して後誰か御邊と心を合はせ、大友家を助くべき、宗茂をして、戸次の家を相續せしめ、我死後まで御邊と心を合せ、國家の屆けを致すべし、全く家の爲めを思ふにあらず、國の爲めに乞ふ所なりと。鎭種、其意氣慷慨なるに感歎し、最愛の嫡子を鑑連にぞ與へける。宗茂、戸次の家を繼ぎ、大友氏の衰運に少しも志を變ぜず、父鎭種と共に國家の屆を爲せり。
現代語訳
家臣のある者が鑑連に向かい、「今日博多で歌舞伎の見物があり、秋月筑前守種実が僧の姿で忍んで見物に出ておられました。私に命じてくださるなら討ち取ってまいります」と言いました。鑑連はこれを聞いて、「おのれは憎い奴だ。秋月ほどの者が、おのれを頼ってだまし討ちにされるはずがあろうか。秋月などは息災にしておき、重ねて一戦の場で勝負を決することこそ本意であろう。それを汚い心根の奴よ」と叱りました。そして秋月の城下に人を遣わし、「秋月殿が不用心な姿で見物の座へ出られるのを、戸次の家臣で狙う者がいる。よくよく用心されよ」と触れさせました。 鑑連の武勇は、山陰、山陽、南海までも、鬼のように噂されました。また東国では、武田晴信が鑑連の人柄を聞き、数百里の距離をおいて書を贈り、対面を望むと言ってよこしました。また秋月種実は、西海に隠れない武勇の人でしたが、とかく鑑連の威を恐れ、ついに大友氏に降参しました。 鑑連には子がなく、高橋鎭種の嫡男宗茂を養って子にしたいと思い、鎭種に乞いました。鎭種が承知しなかったので、鑑連は重ねて乞い、こう言いました。「私は今七十余歳に至った。国家の衰運のせいか、賊徒は負けても勢いが日に日に張り、味方は勝っても勢いが日に衰える。近くは島津、龍造寺、遠くは毛利の大敵を、私が死んだあと、誰があなたと心を合わせて大友家を助けるだろうか。宗茂に戸次の家を相続させ、私の死後までもあなたと心を合わせ、国家のために尽くさせたい。まったく家のためを思うのではなく、国のために乞うのである」と。鎭種はその意気の激しさに感歎し、最愛の嫡子を鑑連に与えました。宗茂は戸次の家を継ぎ、大友氏の衰運にも少しも志を変えず、父鎭種とともに国家のために尽くしました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』戸次鑑連 評・大友氏と九州武士立花宗茂の養父である。亡びかけてゐる大友氏に節義を守つて奮闘した武將である。大友が、亡んだため後世に、あまり名が聞えてゐないが、次ぎの高橋鎭種と共に九州武士の精華である。 少貳、大友の二氏の裡、大友氏の方が、後まで殘つたのである。が、戰國時代になると、中國の大内——毛利から、壓迫され、南方から島津が北上して來るし、佐賀には龍造寺氏が勃興した。殊に、日向の耳川で島津氏に大敗してからは、頽勢の掩ひがたきものがあつたのである。愛國百人一首の中の命より名こそ惜しけれ武士の 道にかふべき道しなければ の歌は、この耳川の戰に戰死した大友家の少年武士の歌である。
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名将言行録・『名将言行録』戸次鑑連 駕籠で敵陣へ担ぎ入れる○大友氏衰へけれども、鑑連、高橋鎭種と心を合はせ、少も屈せず。鑑連武勇逞き人にて士卒を見ること子を愛するが如し。戰に、臨む時は、二尺七寸ありける刀と、種ヶ島の鐵炮を駕籠に入れ、三尺計りの棒に腕貫を付け、手に提げ乘り、長き刀差したる若き士百餘人、駕籠の左右に引具し、軍始まれば、駕籠を此士に舁せ棒を取て駕籠を扣き曳とう聲を揚げ、此駕籠を敵の眞中に舁入れよとて、拍子を取り、遲き時は、駕籠の前後を扣かれけるに、敵に北たるよりも恥として、面も振らず舁入れければ、駕籠の左右の士、三尺餘の刀を拔連れて、一文字に切て掛りける。先陣の者共すはや、音頭ぞと言ふもあへず、我先にと競ひ掛り、如何なる強敵堅陣をも、切崩さずと言ふことなし。若し先陣追立らるゝ時は、鑑連、大音揚げて、我を敵の中へ昇入れよ、命惜くば、其後逃げよと眼を見出し下知せし程に、守返して勝ざることなし。斯れば鑑連の士は、一日に幾度鎗を合はせたりと言ふ者多し。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 米山を即日取り返す○十一年九月、筑紫勢三笠郡を侵す。鎭種、岩屋より打出、筑紫勢と五六日迫合す。筑紫引入りければ鎭種も歸陣せり。其虚を伺ひ、秋月方より忍びやかに兵を出し、米山の城を襲ひ取りたり。此米山と曰ふは、鎭種方より秋月押さへの爲めに構置きたる城なり。鎭種、岩屋にて此由を聞き取る物も取あへず、米山へ發向し、秋月勢に此城を取られては、平生の手柄も水に成ろぞ、只追出せと叫き呼で、攻掛れば、秋月勢酉の刻計りに、却て城を追出され、靡志岐、山口打通り彌須郡指して引いて行く、鎭種勢二里許り追討し、秋月勢を二百餘人打取り、敵の捨たる鎧抔を拾ひ取り、喜び勇みて歸りたり。凡そ戰の習、初め勝軍なれば、士卒の心又勝に乘る、初めの軍に後れを取れば、後の戰六ヶ敷、假りにも敵に小城の一つも取られては、假令其城を取返すことありとも、年月を經て後漸くにして得るぞかし。鎭種は敵に城を乘取られ、即日又其城を取返せり。時に十月二日なり。世に所謂米山軍是なり。 ○鎭種の子、宗茂、立花家へ行く時、鎭種暇乞の盃し、偖曰く、向後は我等を夢にも親と思ふ間敷、明日にも鑑連と弓箭の習、敵味方とも成りなば、鑑連の先鋒と成り、成る程我等を打取るべし、鑑連は常に未練なることを、大に嫌はれ候間、自然不覺にて、鑑連より義絶せられなば岩屋に歸らず、直ぐに潔く自害せらるべしとて、劒を手づから與へられたり。宗茂、終身形身と思ひ、身を放さゞりしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 豪傑の資質と初陣○宗茂十三歲の時、鎭種出陣することありしに、いざや、汝も出陣せよかしと戲れを言ければ、宗茂畏りて仰なくとも御供仕度候へ共、未だ強健ならず、斯くて敵に逢なば言甲斐なき死を仕るべし、今一兩年も過ぎなば、一方を承はりて罷向んとぞ申ける。聞く人其思慮の深きに感ぜり。 ○宗茂幼年にて、鑑連の許に行て遊び居たる時、鑑連、家臣に命じ、科人を我前にて討たせたり。不意のことなれば宗茂如何思ひけるやと、鑑連、宗茂が胸に手を入れて見るに、聊かも動悸せず。是より鑑連、宗茂が豪傑の資あるを察し、終に鎭種に乞て、養子と爲せり。 ○天正十二年、宗茂、父と共に軍に出て、秋月の勇士堀江備前を打取れり。其號令を傳宣し、士卒を指揮する體、才勇絕倫、旣に良將の風ありと言へり。時に年十六。 ○十三年、鑑連、鎭種黑木城を攻む。秋月種實其虞を窺ひ、兵八千に將として來り、立花を侵す。宗茂吾若年にして未だ軍事に練れざると侮り必ず油斷して居らん、一と夜討して之を追拂はんと言ふ。鷹野三河、之を諫む。宗茂聽かず五百餘人を率ひ、種實を襲ひ擊て之を走らせり。
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名将言行録・『名将言行録』戸次鑑連 脱走への厳罰と寛容○鑑連、筑前川原崎にて、蒲池と對陣の時、越年の刻、鑑連、家來密に年取りに、立花へ歸りたる者、三十五人之ありしを聞て、即ち討手三十五人申付け、右の在所へ歸りたる者、親之ある者は親子共に成敗すべしと申付けたり。家老共、親まで御成敗は如何と申ければ、鑑連否々、戰場を逃げて歸る悴共に對面致したる上は、親も同罪なりとて、親子共に成敗せしとぞ。 ○鑑連、側に使ふ女に、心を通はする者ありけるを、知らぬ體にてぞありける。是を知る者ありて、或夜物語の時申けるは、東國の大將に誰とは知らず候、寵愛の女に、竊に情を通はす者の候ひしを誅せられき、とあらぬことを態と言て鑑連の答を試みけり。鑑連打笑ひ、若き者の色に迷ひたるは必しも誅せずともありなん、人の上に居て、君と仰がれんには、假初の事に、人を殺せば、人背く基よ、國の大法を犯したるには異なりとぞ言はれける。彼者傳聞て、心に慙ぢ、又鑑連の仁愛に感ず。其後島津の兵、鐘ヶ嶽の城を攻る時、鑑連城を出て戰ひしに、大軍押掛り危かりしに、彼者大音揚げ、亂れる味方を恥しめて、散々に戰ひける。其隙に鑑連城近く引取たるに、敵猶嚴く進み來り、城門をたてあへず計りなりければ、彼者又取て返し、武士の討死すべき所は爰にあり、各是にて討死せば、城をば敵に奪はれじ、返せや人々と言ふ儘に鎗を横たへ、折敷ければ、返し合はする者三人あり、面も振らず戰つて討死しける間に、城門を閉ぢたりける。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 高橋家を継ぐ吉弘左近大夫鑑理の子、彌七郎と稱す。高橋氏を冒し、主膳兵衞と改む、後髪を削り紹運と號す。大友氏に仕へ、岩屋城に住す。天正十四年七月二十七日戰死、年三十九。 ○鎭種未だ壯年に足らぬ頃より、度量寬大にして、高義眞實の士なり、大友氏族の人々も、此人こそ英雄なるべしと沙汰しける。其名漸く近國に隱れなし。高橋家の老臣、北原伊賀鎭久、高橋の遺業に成し給はれと頻りに望むに依り、大友家老の人々詮議ありて、寶滿岩屋は大事の城郭なり、無才無覺の人を置かるゝ所にあらず、鎭種は若年なれども、器量の人なり、不足あろまじ、其上鎭種は、吉弘が子なれば鑑種が爲めにも、一族の中なれば、名字を繼ぐも僻事ならず、然らば鑑種が養子と名付け高橋家を相續さすべしとのことなり。爰に於て、高橋氏を冒せり。鑑種此時毛利に通じ、大友に背きしに依り、大友、鑑種を攻めて之を囚ふ。爰に於て高橋が家中絶せしを繼ぎしなり。