名将言行録 / 『名将言行録』戸次鑑連 幼い宗茂への躾
○宗茂曰く、我等九歳の時、道雪と一所に飯を喫せし時、鮎をむしり食せしを、道雪見て、武士の沙汰を知らず、女の樣なる所體、物の用に立つ間敷と、殊の外叱られたり。又十三歳の時、道雪と同道にて栗の毛毯多く之ある所を通りし時、毛毯足に立てり。依て是拔けと言ひし時、由布源兵衞走寄り押込みし故、一入痛みしかども、痛しと言ふことならず、大に難儀せしことありと、後々まで語りしとぞ。 ○
新字:○宗茂曰く、我等九歳の時、道雪と一所に飯を喫せし時、鮎をむしり食せしを、道雪見て、武士の沙汰を知らず、女の様なる所体、物の用に立つ間敷と、殊の外叱られたり。又十三歳の時、道雪と同道にて栗の毛毯多く之ある所を通りし時、毛毯足に立てり。依て是抜けと言ひし時、由布源兵衛走寄り押込みし故、一入痛みしかども、痛しと言ふことならず、大に難儀せしことありと、後々まで語りしとぞ。 ○
書き下し
○宗茂曰く、我等九歳の時、道雪と一所に飯を喫せし時、鮎をむしり食せしを、道雪見て、武士の沙汰を知らず、女の樣なる所體、物の用に立つ間敷と、殊の外叱られたり。又十三歳の時、道雪と同道にて栗の毛毯多く之ある所を通りし時、毛毯足に立てり。依て是拔けと言ひし時、由布源兵衞走寄り押込みし故、一入痛みしかども、痛しと言ふことならず、大に難儀せしことありと、後々まで語りしとぞ。 ○
現代語訳
宗茂曰く、我らが九歳の時、道雪と一緒に飯を食べた時、鮎をむしって食べたのを、道雪が見て、武士のたしなみを知らず、女のような振る舞いで、物の役に立つまいと、ことのほか叱られた。また十三歳の時、道雪と同道して栗のいがの多くある所を通った時、いがが足に刺さった。そこでこれを抜けと言った時、由布源兵衛が走り寄って押し込んだので、一層痛んだけれども、痛いということもできず、大いに難儀したことがあったと、後々まで語ったという。 ○
解説

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