名将言行録 / 『名将言行録』高橋鎭種 島津の和睦案
其後、又莊嚴寺を、使僧にて申けるは、鎭種公五六ヶ國の大軍に圍まれ給ひながら、少しも騷がず、十五日支らるゝこと御手柄比類なし、又た味方の者共今日外城を取るも手柄なり、此上は和睦仕るべし、鎭種公と立花の宗茂、寶滿の統增は一つのことなれば三人御同意にて、鎭種公御實子の中、一人此方へ預り申べし、右三人の本地毛頭も綺ひ申まじ、偖又大友殿とは島津弓箭を取る間は忘間敷僭憤多々なれども、夫も鎭種公さへ、當家に御隨身候はゞ、和睦仕るべきなり、鎭種、宗茂御兩人にて、島津、大友の中入召され、和順の扱ひせられ候へ、斯く申上げば、島津事、子々孫々まで變意有間敷由堅く神文を以て沙汰すべし、九州一遍に相治まるに於ては、假令上方の勢寄來るとも、舟より上げもせず、此方より中國へ取掛け、山陰、山陽を討ち從へんに、餘り手間も入間敷なり、是非御同意あれかしと言送る、
新字:其後、又荘厳寺を、使僧にて申けるは、鎮種公五六ヶ国の大軍に囲まれ給ひながら、少しも騷がず、十五日支らるゝこと御手柄比類なし、又た味方の者共今日外城を取るも手柄なり、此上は和睦仕るべし、鎮種公と立花の宗茂、宝満の統增は一つのことなれば三人御同意にて、鎮種公御実子の中、一人此方へ預り申べし、右三人の本地毛頭も綺ひ申まじ、偖又大友殿とは島津弓箭を取る間は忘間敷僭憤多々なれども、夫も鎮種公さへ、当家に御随身候はゞ、和睦仕るべきなり、鎮種、宗茂御両人にて、島津、大友の中入召され、和順の扱ひせられ候へ、斯く申上げば、島津事、子々孫々まで変意有間敷由堅く神文を以て沙汰すべし、九州一遍に相治まるに於ては、仮令上方の勢寄来るとも、舟より上げもせず、此方より中国へ取掛け、山陰、山陽を討ち従へんに、余り手間も入間敷なり、是非御同意あれかしと言送る、
書き下し
其後、又莊嚴寺を、使僧にて申けるは、鎭種公五六ヶ國の大軍に圍まれ給ひながら、少しも騷がず、十五日支らるゝこと御手柄比類なし、又た味方の者共今日外城を取るも手柄なり、此上は和睦仕るべし、鎭種公と立花の宗茂、寶滿の統增は一つのことなれば三人御同意にて、鎭種公御實子の中、一人此方へ預り申べし、右三人の本地毛頭も綺ひ申まじ、偖又大友殿とは島津弓箭を取る間は忘間敷僭憤多々なれども、夫も鎭種公さへ、當家に御隨身候はゞ、和睦仕るべきなり、鎭種、宗茂御兩人にて、島津、大友の中入召され、和順の扱ひせられ候へ、斯く申上げば、島津事、子々孫々まで變意有間敷由堅く神文を以て沙汰すべし、九州一遍に相治まるに於ては、假令上方の勢寄來るとも、舟より上げもせず、此方より中國へ取掛け、山陰、山陽を討ち從へんに、餘り手間も入間敷なり、是非御同意あれかしと言送る、
現代語訳
その後、また荘厳寺という使僧が来て、こう申しました。「鎭種公は五、六か国の大軍に囲まれながら、少しも騒がず、十五日も支えておられること、お手柄は比類がありません。また味方の者どもが今日外城を取ったのも手柄です。この上は和睦いたしましょう。鎭種公と立花の宗茂様、宝満の統増様は一つのことですから、三人ご同意の上、鎭種公のご実子のうち一人をこちらへお預けください。右の三人の本領は少しも干渉しません。さてまた大友殿には、島津が弓矢を取る間は忘れまいと思う憤りが多々ありますが、それも鎭種公さえ当家にご随身くださるなら、和睦いたしましょう。鎭種公と宗茂様のお二人で、島津と大友の間に入り、和順の扱いをなさってください。こう申し上げれば、島津は子々孫々まで変心はあるまいと、堅く神文をもって取り決めましょう。九州が一遍に治まれば、たとえ上方の勢が寄せ来ても、船から上げもせず、こちらから中国へ取り掛かり、山陰、山陽を討ち従えるのに、あまり手間はかかりません。ぜひご同意あれ」と言い送りました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 和睦を退ける返答鎭種返事に丁寧に仰賜はる條、忝く存ずるなり、去ながら、鎭種假令命を惜く思ひて降參すとも、立花宗茂、若き人なれば同心あらんとも存ぜず、又鎭種、宗茂同心にて貴家に屬したりとも、大友義統同心あらんこと、是も知らず、若し鎭種方より義統、宗茂へ斯くと申入たる時、彼兩人同心なくば、鎭種面目を失ふのみならず、此間の所存皆水に成ること無念の至なり、此扱を二年も三年も前に仰せ給はりなば、如何にも同心致すべし、今は大友も威衰へ、鎭種、宗茂も難儀なる籠城に及びて、降參致すことは、是非に及ばざる所なり、秀吉公の援兵も未だ着陣なく、又大友より、當城後詰は思ひも寄らず、然らば、此大軍に取圍まれし上は、鎭種切腹致すに相極めたり、秀吉公に斯くと申上げ、多年大友と契約せしこと、今更引違へ難し、當國領地の義は、島津殿より賜はらずとも、古來より持來りたる所なり、其上當春秀吉公、九州國分の義仰下されしにも、筑前太宰府は九州の都なれば、當國は公領に成さるべし、鎭種、宗茂には何國にても新地を賜はるべしとの御朱印を戴きたり。此上は不義の下に生きて名を汚さんより、忠義を守りて、死て佳名を殘さんには如かずと思ひ切て候なり、島津殿、物毎順道に執行はるゝ由仰せ聞けられ候、左候はゞ、鎭種は不義の働致さぬ士なれば、筒樣に城を攻らることは如何と存ずるなり。龍造寺、秋月等は表裏の士なれば、彼等が首を切て遺はさば、鎭種事も人質を出し、貴家に屬し申べしと返答せしかば、和睦の扱も事切れにけり。明れば二十七日諸軍一同押寄せ、卯の刻より軍始まりて、午の刻の終りまで、寄手の大軍入替はりて攻たりけるに、手負死人數知れず、去れども死骸を踏み越、息をも繼せず、攻戰ふ。今日を限りと思ひ切たる城兵、各持口を一足も引かず、切死したり。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 降伏の使者を断る新納曰く、偖も此間鎭種公小勢を以て大軍を引受け、堅固に相支られしこと誠に神妙の至りなり、當城にて義死を遂げらるべしとの御覺悟感入たり、去ながら義者は不仁者の爲めに死せずとぞ承はりしに、如何なれば、鎭種公程の義士、無道の大友に與みし給ふや、大友は政道理に背き、人の恨みを積み、剩へ切支丹に成りて、古今未曾有の惡行あり、去る故にこそ旗下國々の諸士に疎み果てられ、一度も戰に勝たず、所々の所領皆失はれたり、島津事は、毎事順道に執行ひ、招かざるに人來り、勢付き、早や七八ヶ國取り治めたり、此上は鎭種公、御降參あれかしとの使にて候とありしかば、外記之を聞き、仰せの趣鎭種に申達するまでもなし、外記爰にて義の當れる所を申すべし、能く聞かれ候へ、總て盛衰消長は時の運にて、細川、畠山、赤松、山名を始めとして、今川、武田近國にて尼子、大内、一度は盛に、一度は衰へずと言ふことなし、鎭種今の限に成りて、よも胄を脱ぎて降を乞ひ候はんや、大友の家も頼朝の時よりして子孫國を受け傳へぬれど、日向の軍破れしより此方、二心ある者多く出來て、今斯く衰へたり。去れど今にも秀吉公大軍を以て九州に渡らせ給ひ、薩摩に攻入られんに、鹿兒島の破れんことも又遠からじ、勢盡き運盡きぬるを見て、志を變ずるは弓箭執る身の恥辱にて、人に指彈せらるべし、松壽千年、終には崩ることぞかし、人生は朝露の日影を待つが如し、只永く世に殘らんものは、名義に在りと覺え候程に、降參は仕らじと高聲に呼はりければ、新納も詮方なくて歸りける。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 籠城を決めた理由鎭種曰く、宗茂の申所尤もなり、去ながら退いて案ずるに、節を守り義に死するは勇士の本意なり。時を知り運を計るは智者の慮にあらずや、寶滿は要害と雖も、地利不如人和と云へば、假令彼城に籠りたりとも、人の心調はずば久しき謀にあらず、大友義統とは、鎭種親類の上に緣者なり、旁々見離すべきにあらねば、年頃大友に荷擔して、毎度戰に勝つと雖も、大伴家末に成り、當家も運の迫りぬるにや、逆徒は年々月々に蜂起し、味方に與する者は一人もなし、時去り時來り、物皆始終ある習なれば、當家亡ぶべき時至りぬと覺ゆるなり、高橋は筑紫の三撿斷職の其一なり、去れども仁木、一色は既に絶て年久し、今まで名字の殘れるのは、當家計りなり、九州の豪英菊池少貳、千葉宗像既に其後なし、然らば當家も絶すべき時來れるとこそ覺ゆれ、若し運盡きずば當城に在りとても、如何なる大軍をも防ぎ課すべし、寶滿に籠るとも圍を出づることもあるまじ、とても遁る間敷くば多年の居城を枕として死んこそ本意なれ、居城を捨て逃げたりと言はれんは、無下に口惜かるべし、此儘爰にありて秀吉公の援兵を相待つべしと思ふ、中國、四國の勢近々渡海すと承はれども、海路を隔てたる大軍なれば、彼に障り爰に滯りて延引すべきなり。
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名将言行録・『名将言行録』島津家久 谷川大膳と高橋鎮種○十四年、家久、高橋鎭種を岩屋の城に攻む。時に鎭種より立花へ、谷川大膳を使として遣りたり、七月二十六日、山傳ひに立花の城へ參り、卽ち返事を取り、二十七日の夜、岩屋落城のことを知らず、大手の門に忍寄り、大膳ぞ明けて入れ候へと言ふ。敵大勢出取籠め繩を掛け、家久の前に連來りたり、如何樣の者ぞと尋ぬれば、少しも隱さず名乘りし故、家久、鎭種は、今日戰死を遂げられたり。其方最早此方へ相隨はれ候へ、鎭種よりの加恩の程には、何時も遣はすべくと言へば、大膳忝きこと身に餘り候、然れども、此節に及び、左樣の望み之なく候、只御芳志に預り度こと一つあり、立花よりの返札、某懷中致し居るを、首を刎られて後、御披見賜はりなば、何事か之に過ぎたる喜び候はんと申ければ、家久、淚を流し、誠の士にて候、其狀披見の望みなく候、御持參候て御歸りあるべき由、懇に申て、繩を解き人を副へ、立花へ送り遣はせり。偖鎭種討死せし物具の引合はせに、一封の書あり。島津中務殿と書たれば、家久之を讀むに、今度降參を勸めらるゝ諫めに從はざりしは、義の重きに依てなりと、別に一封の書を大友に送り届け給はり候へとなり。家久、之を見て類ひ希なる勇將を殺しけるよ、此人を友とせば、如何計りか嬉しからんに、惜きことよ、弓箭執る身程恨め敷ものはなしとて、僧を供養し、葬禮を執り行ひ、壇を築て、家久、香を燒き、再拜しければ、義を感ずる國風にて、薩摩武者、皆燒香して淚を流し、皆鎭種を稱美せり。島津家の軍法に、武者引導と言へるあり、是は敵軍戰亡の屍を埋葬し、恭く祭式を執り行ふを言ふ。是後、家久、豐久及び國老川田駿河守祭主となりて、是祭式を執行へり。何れの戰にも皆然らざることなし、後治世に至りては、每年七月一二三の三日間、城北福昌寺にて大施餓鬼と唱へ、藩主親しく參拜し、在江戶の時は一門の者を名代として、國老其他臨場する例規なりとぞ。