名将言行録 / 『名将言行録』高橋鎭種 岩屋城の最期
鎭種の左右には、名を得たる剛の者共五十人計りに撃成されたるが、後度の勝負をも思はゞこそ、今を最期の軍なれと當るを幸に、向ふ敵に切先を揃て擊て掛り、一陣二陣を遙の谷底へ卷くり落しければ、半時計りは攻入り得ざりけり。鎭種手負討死の士卒を見巡りて、死たる者には無二の忠節謝するに詞なし、と一禮し、息の通へる者には、自ら氣付の藥を口に入れける。其後鎭種思ふ程戰て辭世の和歌を扉に書付く。其歌に曰く、『屍をば、岩屋の苔に、埋みてぞ、雲井の空に、名を止むべき。』と。夫より櫓に打上りて、自害して果てたりけり。岩屋には名字を名乘る士六百人もありけるが、残らず討死して、一人も降參せし者なし、寄手も三千七百餘人討たれたり。
新字:鎮種の左右には、名を得たる剛の者共五十人計りに撃成されたるが、後度の勝負をも思はゞこそ、今を最期の軍なれと当るを幸に、向ふ敵に切先を揃て撃て掛り、一陣二陣を遥の谷底へ巻くり落しければ、半時計りは攻入り得ざりけり。鎮種手負討死の士卒を見巡りて、死たる者には無二の忠節謝するに詞なし、と一礼し、息の通へる者には、自ら気付の薬を口に入れける。其後鎮種思ふ程戦て辞世の和歌を扉に書付く。其歌に曰く、『屍をば、岩屋の苔に、埋みてぞ、雲井の空に、名を止むべき。』と。夫より櫓に打上りて、自害して果てたりけり。岩屋には名字を名乗る士六百人もありけるが、残らず討死して、一人も降参せし者なし、寄手も三千七百余人討たれたり。
書き下し
鎭種の左右には、名を得たる剛の者共五十人計りに撃成されたるが、後度の勝負をも思はゞこそ、今を最期の軍なれと當るを幸に、向ふ敵に切先を揃て擊て掛り、一陣二陣を遙の谷底へ卷くり落しければ、半時計りは攻入り得ざりけり。鎭種手負討死の士卒を見巡りて、死たる者には無二の忠節謝するに詞なし、と一禮し、息の通へる者には、自ら氣付の藥を口に入れける。其後鎭種思ふ程戰て辭世の和歌を扉に書付く。其歌に曰く、『屍をば、岩屋の苔に、埋みてぞ、雲井の空に、名を止むべき。』と。夫より櫓に打上りて、自害して果てたりけり。岩屋には名字を名乘る士六百人もありけるが、残らず討死して、一人も降參せし者なし、寄手も三千七百餘人討たれたり。
現代語訳
鎭種の左右には、名のある剛の者どもが五十人ばかりに討ち減らされていましたが、「後の勝負を思うならばこそ。今を最期の戦と思え」と、当たるを幸いに、向かう敵に切っ先を揃えて撃ってかかり、一陣、二陣を遥か谷底へ巻き落としたので、半時ばかりは攻め入ることができませんでした。鎭種は手負い、討死の士卒を見巡り、死んだ者には「無二の忠節、謝するに言葉もない」と一礼し、息のある者には自ら気付け薬を口に入れました。その後、鎭種は思う存分に戦って、辞世の和歌を扉に書き付けました。その歌にいわく、「屍をば、岩屋の苔に、埋みてぞ、雲井の空に、名を止むべき」と。それから櫓に上がり、自害して果てました。岩屋には名字を名乗る士が六百人もいましたが、残らず討死にし、一人も降参した者はありませんでした。寄せ手も三千七百余人が討たれました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 山城に託した頼み○鎭種、岩屋に籠りし時、杉山山城を山城殿と言て呼ぶに付、山城如何樣のことゝも存ぜず出でし所、鎭種曰く、當城恙なきこと二十日の間たるべく、夫に付ては、其方に頼み度こと之あり候、承はるべくや承はる間敷やと言ふ。山城兎角申すべき樣なくて、謹みて居たりしが、側に屋山中務居りしに向ひ、山城殿と、冥加懼ろしき御意を承はり、前後を忘れたりと計り申す。其時、鎭種惣じて主と爲り、臣と爲ることは士の習なり。其方先祖のこと、鎌倉北條以來、三原の某と相知れたり。今に其證文共所持の由、結句當家よりも、嚴重の義なり、屋形より、鎭種に相備と仰付られ、今に至ては大體譜第同前に心易く存ずる其方なり、大切の用を賴み申すに、今更千町萬町の知行違はすと申すとも、名計りにて實に用ふべき便なし。然らば昔等輩の挨拶に之ありし所を以て、其方を崇敬すること志計りの賞なりと言ふ。山城感涙に堪へ兼ね、何事にても御請申べき由申ければ、鎭種去らば、彌七郎統增を敵中に置くは、死出の障はりなれば、其方罷越し、連退き寶滿へ引取るか、然らずば、差殺し給はるべしと言ふ。山城甲斐々々敷請合ひ、頓て鎭種の心の如く、終に統增を奪ひ出し、寶滿城にぞ楯籠りけり。
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名将言行録・『名将言行録』高橋鎭種 和睦を退ける返答鎭種返事に丁寧に仰賜はる條、忝く存ずるなり、去ながら、鎭種假令命を惜く思ひて降參すとも、立花宗茂、若き人なれば同心あらんとも存ぜず、又鎭種、宗茂同心にて貴家に屬したりとも、大友義統同心あらんこと、是も知らず、若し鎭種方より義統、宗茂へ斯くと申入たる時、彼兩人同心なくば、鎭種面目を失ふのみならず、此間の所存皆水に成ること無念の至なり、此扱を二年も三年も前に仰せ給はりなば、如何にも同心致すべし、今は大友も威衰へ、鎭種、宗茂も難儀なる籠城に及びて、降參致すことは、是非に及ばざる所なり、秀吉公の援兵も未だ着陣なく、又大友より、當城後詰は思ひも寄らず、然らば、此大軍に取圍まれし上は、鎭種切腹致すに相極めたり、秀吉公に斯くと申上げ、多年大友と契約せしこと、今更引違へ難し、當國領地の義は、島津殿より賜はらずとも、古來より持來りたる所なり、其上當春秀吉公、九州國分の義仰下されしにも、筑前太宰府は九州の都なれば、當國は公領に成さるべし、鎭種、宗茂には何國にても新地を賜はるべしとの御朱印を戴きたり。此上は不義の下に生きて名を汚さんより、忠義を守りて、死て佳名を殘さんには如かずと思ひ切て候なり、島津殿、物毎順道に執行はるゝ由仰せ聞けられ候、左候はゞ、鎭種は不義の働致さぬ士なれば、筒樣に城を攻らることは如何と存ずるなり。龍造寺、秋月等は表裏の士なれば、彼等が首を切て遺はさば、鎭種事も人質を出し、貴家に屬し申べしと返答せしかば、和睦の扱も事切れにけり。明れば二十七日諸軍一同押寄せ、卯の刻より軍始まりて、午の刻の終りまで、寄手の大軍入替はりて攻たりけるに、手負死人數知れず、去れども死骸を踏み越、息をも繼せず、攻戰ふ。今日を限りと思ひ切たる城兵、各持口を一足も引かず、切死したり。